3-2

 あの日、夏休みにも関わらず、わたしは数学の補習のために学校に来ていた。

「せんせー、あつーいー」

「ああ、まったくだ」

 わたしは机につんのめって上半身をだらりとさせながら、窓の外を見ていった。

 教室の窓はすべて開け放たれて、飛び込んでくる蝉の声で頭が割れそう。グラウンドではサッカー部が玉を蹴っては追いかけて、バカみたいにそれを永遠と繰り返している。肌を焼く太陽。乾いた土は砂埃となって走るたびに舞い、汗に引っ付いて黒く汚れる。ましてやボールを蹴るためだけに滑り込んだりする。そんなことをしたって、意味はないのに。

「あいつらは馬鹿みたいじゃなくて、馬鹿だ」

「バカはお前だ」

 丸めた教科書で頭を叩かれた。大袈裟に痛がると、先生は笑った。

 補習は午前中で終わった。それでも全く数学ができないわたしは、午後からも先生とマンツーマンで、居残り勉強だった。午前中、教室は補習という「授業」に利用されていたため冷房の使用が許可されて快適だった。しかし、今は完全にわたしの私用。冷房は使わせてもらえなかった。

 前髪が額に張り付いて不快だった。前髪を叩き切ってやろうかと思うくらい、不快。髪を伝って、汗は机に流れ落ちた。このまま、水たまりでも作ろうか。

「さあ、さっさとこの問題を解く!」

 そう言われて、しぶしぶわたしは体を起こした。腕を組みながら隣の席の机に軽く腰かけている先生は、暑い中、スーツ姿でなぜかネクタイをきっちり締めていた。半袖のワイシャツは汗で透けていた。

「せんせーみてるだけで暑苦しいの」

「そんなこというなよ。……なんか結構傷つくぞ……」

 そう言いながら、やっとネクタイを取って、第2ボタンまで外した。

 先生はとてもいい人だった。ふざける時は一緒にふざけてくれて、まじめな時は空気に流されずきちんと叱ることができる、そういう先生だった。

 こういう先生は基本的に人気が二分する。ウザいと一蹴する生徒と、面白いと魅了される生徒。しかし、先生は誰からも好かれている人だった。魅力のある、先生だった。

 どこから取り出したのか、先生はうちわでわたしのことをあおぎ始めた。なまぬるい風が頬に当たった。

「うん。ちょっと涼しくなった」

 不快じゃなかった。自然と頬が緩んだ。先生は恥ずかしそうに目線を逸らし、「とっとと問け」と唇と尖らせた。

 わたしは暑いので大胆に開いている胸元をパタパタとさせながら、教科書に向かった。

 ……。

「わからないわ」

 10秒も持たなかった。

「なにが」

「どうしてy=2x+3がこんな形のグラフになるの?」

「さっき説明しただろ?」

 先生はさっき板書したグラフを指さしながら、困ったように笑った。

「さっき聞いたのは、y=4x-1よ。この問題はy=2x+3。別物だわ」

「同じように考えるんだ」

「同じように? だったら同じ形のグラフになるってこと?」

 先生は眉をひそめて考え始めてしまった。

「難しい」

 先生がポツリと呟いた。先生は額から流れる汗が目に入りそうになっているのに、真剣に考えこんでいるから気づいていないようだった。わたしは手を伸ばして、汗をハンカチで拭ってあげた。そのことにも気づかないまま、悩ましそうだった。わたしが先生を困らせている。少しだけ、罪悪感。それよりたくさんの幸福感。

「難しいね。君みたいなおバカちゃんにわかるように説明するのは」

 先生は意地悪に笑った。わたしがいじけて見せると、先生はふざけた風に「ごめんって」と謝ってきた。

「わからないわ。どうして1にマイナス1を足せば、0になるのか」

 先生は窓の外を見ながらコクリと頷いた。

「どうして2つの式を連立させなければいけないのか」

 先生は目を瞑りながらコクリと頷いた。汗があごから滴り落ちた。

「わからないわ。どうして、xを求めなければいけないの?」

 先生はパチリと目を開いた。わたしと目があった。わたしは急に緊張した。

「それは考えたことがなかった」

 先生は目から鱗というような表情だった。体から力が抜けていった。

「xを求めなければいけない理由か。それは私もわからないや」

 先生は決してわたしを馬鹿にしなかった。バカだと笑うけれど、馬鹿にはしなかった。

「そもそも考えたことがなかった。いままで私は、求め方を教えられて求めろと言われたから求めた。だからその根本に疑問は持たなかった。なるほどいい質問だ。

『どうしてxを求めなければならないのか』

 世の中で当たり前とされていることがなぜ当たり前なのか疑問を持つというのは、なかなかどうして難しい。それに気が付けるというのは才能かもしれない。歴史に名を残してきた偉人たちは皆その『当たり前』を見つけたことで、称えられた。

 うん。君はその考え方を決して忘れないで。きっと素晴らしいことに役立つだろうから。……もしかすると次に『当たり前』を見つけて歴史に名を残すのは君になるかもしれない……なんてね」

 わたしは、

「うん。わかった」

 先生に誓った。

 ところが先生はこう続けた。

「しかしながら人生は、どうして生きなければならないのか、まったくわからずに、それでも生きていかなければならない。生き続けなければならない。人生とはなにか。どうして生きなければならないのか。探すことも大事だけれど、探しながらも確実にこなし続けなければならない。

 君はxをどうして求めなければならないのか、それを探し続けながらも、それでも求められるxを解き続けなければならないんだ。全く、——難しいね」

 わたしは、先生の言っていることの意味がわからなかったフリをした。

 先生にはどう伝わったのか。

「とりあえず、屁理屈なんかこねないで、おバカさんはy=2x+3のグラフを書きなさい」

 そう言って笑った。

 そのタイミングで、校内放送がかかった。先生が呼び出された。先生はネクタイを掴むと、「すぐに戻ってくるから」と言って教室から出て行った。

 それから、わたしは教科書を一瞥して、問題を解かなかった。席を立ち、黒板前の教卓に腰かけて、先生が置いていったうちわでパタパタ煽いだ。押し出されるのは生ぬるい風。不快だった。眉根を寄せて、うちわを置いた。あごから落ちた汗の雫はスカートのシミとなり、じんわりと広がった。

 本当に先生はすぐに戻って来た。

「おお? 解けたのか? 早いな。さすがやればできる子だね。だけど教卓に座るのはいただけないな」

 そう言いながら、先生は巻き直されていたネクタイを少し緩めた。そして、わたしの前を素通りし、窓際のわたしの机を覗き込んだ。

「あれ、やってないじゃん。なにサボっているのさ」

「先生、のどが渇きました」

 わたしは言った。のどが渇いたから。

「ああ、確かに水分補給してないな。熱中症になると危ない。職員室からスポドリでも取って……」

 先生はまたわたしの前を素通りしようとした。しようとしたから、緩んでいたネクタイを両手で掴み、引き寄せる。

「のどが、渇いたの」

 すぐに、潤さないと。

 先生キスをする。先生の口に舌を差し込んで、唾液を奪う。それから唇を離し、先生の首に舌を這わせる。そうやってのどを潤す。たくさん、のむ。抵抗はない。

「まだ足りないわ」

 教卓から降りて、先生を押し倒す。先生はドミノよりも簡単に倒れた。そして今度は、先生キスをする。バカみたいにあつくるしい教室で。先生の顔はわたしの汗と、唾液でべたべたになっている。何度もなんども、くちづける。

 そうしながら、わたしは左手一本で、器用に先生のスーツのズボンを脱がしていく。

 先生はすっかり興奮していたみたいだ。

「あらあら。教え子相手にこんなになって。いいのかしら?」

 そう言って優しく撫でる。丁寧に壊さないように、壊すように、なでる。

 いい年になってこんなに小さな女の子にリードされる、恥辱にまみれた先生の表情は最高だ。

「君はいつもこんなことをしているのか」

 声を裏返しながら、それでも努めて冷静に先生は訊く。隠し切れない不安感と快感が、じつに滑稽だ。わたしは先生の胸に耳をあてて心臓の音を聞きながら、

「もちろんはじめてよ」

 あえて、嘘をつくときのトーンでいう。そして先生に触れる手をいっそう激しくする。緊張でカチンコチンになっていた先生のカラダは、次第に毒に浸食されてふにゃふにゃに溶けだす。

 先生の頬に甘いキスをする。そして耳元に近づけて、

「イッちゃえ」

 わたしがささやいたのと同時に、先生は自分を解放する。みっともない喘ぎ声を上げながら、快楽の海に落ちていく。教室には先生の匂いが充満している。しばらく岸に打ち上げられた魚みたいに痙攣していたが、すっかり脱力して、干からびてしまったみたい。

 人命救助だ。触れるだけのキスをする。いのちを吹き込む魔法のキス。

 すると先生はよみがえって、今度はわたしが押し倒される。その拍子に頭を床に強く打ちつける。痛かったはずなのに、痛みは感じない。形成逆転。今度は先生から貪るようなキスをする。

 とっても痛い。でもどこが痛いのかわからない。

「まって先生」

 わたしは先生の首を絞めるように掴んで、突き放す。

「そんなにがっつかないで。わたしは逃げないから」

 先生は————————。

 そうしてわたしは、初めてを失った。

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