異世界後遺症の癒やし方
参河居士
第1話 次元の放浪者
その1
塔の窓際に立ったルカは、ガラスの向こうに広がる中庭を見下ろした。
野球のグラウンドがすっぽり収まるほどの広場は、ダーク・ミノタウロスやグレーター・トロールたちの死体で埋め尽くされていた。
ある者は手足を切り落とされ、ある者は岩の魔法で全身を貫かれている。
勇猛を誇る魔王城の衛兵たちも、英雄王パァルシアスに率いられた千の勇者隊の侵攻を防ぎ止めることはできなかった。
視線を彼方に転じれば、破壊された城門の方から、人間の兵士たちが続々と雪崩こんでくる。
中庭を華やかに彩っていた無数の魔樹は炎の中で焼け落ちていき、あちこちから立ち上る煙は、ルカのいる尖塔の屋根を越え、はるか天にまで届きそうな勢いである。
千年の間、難攻不落とされた魔王城の陥落が目前に迫っていた。
「こっちに来てから……、だいたい200年くらいか。あっという間だったなぁ」
ルカは呑気そうにつぶやいた。城の内外で繰り広げられている激戦など気にもとめていないかのようだ。
だが実際はそうではなく、むしろ逆であった。悠然と構えているのではなく、何をしてよいのか分からず途方にくれているだけだった。
魔王城で暮らす間に人間らしい感覚がマヒしてしまったことは事実だが、自分自身の未来を諦められるほど達観してもいない。
近未来に迫った死への恐怖から目をそらすのに必死で、ルカの頭は半ば思考停止状態にあった。
逃げられるものならとっくにそうしている。しかし、すでに城の中も外も人間たちで溢れかえっていて逃げ場などない。
せっかく身につけた魔法もまったく使えない。勇者たちの施した結界だかなんだかの影響らしい。
そもそも、彼は見捨てられたのだ。この城の主である魔王からも、彼の直接の主人である王女からも。
魔王と王女が、わずかな護衛とともに城を後にしたと知ったのは昨夜のことだ。自分が置き去りにされたと分かり、ルカは生きる望みを失った。
数年前、「人間の中に稀代の英雄が出現した」という噂を耳にしてから、いつかこんな日が来るかもという不安はあった。
「なるべく痛くない死に方がいいなぁ……」
死ぬのはこれが初めてではないが、だからといって慣れるものではない。
「魔法で眠るように死なせてくれるのが理想だよなぁ。頼んだらやってくれるかな」
おそらく無理だろう。
魔王とその一党は、長い間、暴力と恐怖によって人間を支配してきた。圧政に苦しめられた人々の恨みは大きく、人間に捕らえられた魔族は、大観衆の前に引き出され、残忍な方法で処刑されると聞く。
火炙り、八つ裂き、車裂き、エトセトラ。
「……うう、やだやだ!」
自分自身の悲惨な末路を想像し、ルカの身体が小刻みに震える。
「そんな目に遭うくらいなら、飛び降りたほうがマシか」
そう言ってルカが窓に手をかけたとき、廊下に面した扉の向こうから、人間の怒号が聞こえてきた。
城に侵入した兵士たちは、すぐそこまで迫ってきているのだ。
もう時間はない。部屋の扉が破られ兵士たちが入ってくるのが先か、窓を開けて飛び降りるのが先か。
死の選択を迫られたルカの脳裏に、ふと王女の美しい顔が浮かんだ。
「姫は安全なトコロに逃げられたのかな」
そんな場所があるなんて聞いたことないが、城を捨てて逃げたということは、たぶんあるんだろう。
「最初から振り回されっぱなしだったなぁ」
王女は非情な性格で、気に入らない者は、魔族だろうと人間だろうと容赦なく殺した。
その一方、気に入った者には寛大で、特定の才能に長けた者や、自分好みの容姿の者を見つけては、せっせと保護下に置き、ある種のハーレムを築いていた。
たいして取り柄のないルカが魔族の領域で無事に生きて来られたのも、そんな王女のおかげである。
暇つぶし相手兼ペットとして王女の私邸の一角に部屋を与えられ、個としての尊厳や権利を奪われるのと引き換えに、何不自由ない生活を送ってきたのだ。
部屋の中は床も壁も豪華な調度品で埋め尽くされている。それらすべてに王女との思い出が刻まれていた。
「この王冠、王女がいらないって言ってくれたんだっけ。なんて名前の国だったかな」
手にした王冠をしげしげと眺めていると、床に無造作に置かれていた別の武具が目に入る。
「……あ、これ、懐かしい。西のほうの勇者が使ってた盾だ。最初の遠征だったから王女も結構緊張してたっけ。そのわりに戦が始まったらノリノリで、城塞ごと消し飛ばしてたもんなぁ。水平に飛ぶ流星とか反則だよ」
王女との記憶をたぐるように、ルカは室内をゆっくり見て回る。
「魔王はいたか!?」
「いない! 逃げやがったか!」
「そんなはずはない! 何重にも包囲していたんだ! 探せ!」
殺気立った人々の会話が、扉の向こうからハッキリ聞こえてくる。悠長にしていられる状況ではないのだが、それでもルカは現実逃避を続けていた。
何のことはない。窓から飛び降りる勇気さえなかったのだ。
しかし、扉を蹴破る音が、ルカを否応なく現実に引き戻した。
「いたぞ! 王女付きの道化野郎だ!」
最初に部屋に入ってきた鎧の男が叫んだ。右手に持ったグレートソードをルカに突きつける。腰にぶら下がっているのは、魔王城の留守役を任されたヴァンパイア・ロードの生首だ。
「ゲイリー様もやられちゃったのか」
「テメェも死ね!」
鎧の男は、ルカの無意識のつぶやきに律儀に答えながら切りかかった。
間合いを詰めると同時に、身長ほどもある巨大な剣を右腕一本で振り上げる。顔立ちはまだ若いが、動きは熟練の戦士そのものだ。
ルカの左肩に打ち下ろされた剣先は、そのまま彼の身体を斜めに切り裂いた。あと半歩踏みこんでいたら、そのまま両断されていただろう。
「うぐぇっ!」
切り裂かれた部分から鮮血をほとばしらせながら、ルカは仰向けに倒れる。致命傷なのは誰の目にも明らかだ。
「化物の太鼓持ちが! ざまぁみやがれ!」
鎧の男はルカを見下ろして吐き捨てると、仲間たちを率いて部屋から駆け出していった。
その捨て台詞も、音高く遠ざかっていく足音も、すでにルカの耳には入らない。
(……痛みが……一瞬で……ある、味、ラッ、キ……)
手足の感覚が無くなり、意識が闇に沈んでいく。
――そして意識が完全に失われる直前、それは起きた。
(……!)
ルカの意識は唐突に覚醒していた。さっきまで感じていた焼けるような胸の痛みも消えている。
だが目の前に見える光景は、先ほどいた部屋ではなかった。
(……またかよ)
ルカは、同じ現象をこれまでに二度経験している。音も空気も無く、明るいのか暗いのかも分からない不思議な空間を漂い、落下しているのか上昇しているのかも定かでない奇妙な感覚。
次元の壁を越え、別の世界へ転移するときの現象だ。
「今度はのんびりできる世界がいいなぁ」
無明の空間を浮遊しながらルカは、今度こそのん気にひとりごちた。
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