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 リビングは静まり返り、空気が対流するかすかな音でも聞こえてきそうなほどだった。

 そこまで話し終わると、敏子は長い息を吐いた。話し始めるときと比べて、一気に老けたような表情になった。

 だいたいのことは警察署で川本から聞いていたが、実際に敏子から聞かされると、腐臭を感じるほどの現実感があった。

「ゆうちゃんとこの……、窪園さんのお母さんとは、何があったの?」美咲は問う。

 敏子はしばらく沈黙していたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「幸助さんが自殺した後、私らを強請ってきたんじゃ」

 強請ってきた……、いったいどういうことだろうか。

「私らって、誰のことなの?」

「もともと幸助さんと関係があった窪園光江さんは、光俊さんが失踪して、その後に幸助さんが自殺したことは、私らが何かを関わっとるじゃろうと、鎌をかけてきた。『警察に通報されたくなかったら、お金を出せ』と言うてきた。……実際にはどこまで知っとったんかは、わからん。でも、何かは勘付いとった」

「それで、ゆうちゃんのお母さんに、口止め料としてお金出したの?」

「二百万円。恵子ちゃんが、下りたばかりの幸助さんの生命保険金の中から出して、後から私が半分返した」

 ようやく、美咲は雄一郎の母親が美咲を遠ざけようとした理由を発見した。窪園光江にしてみれば、むかし強請った相手の娘が自分の息子と仲良くするというのは、胸中に複雑なものがあったことだろう。まして二人が恋人どうしとなり、もし結婚するとでも言い出せば、強請りの被害者と加害者が義理の家族になってしまう。

 そして今年、東京から帰ってきた美咲が再び雄一郎と接触したということを知ると、ちょうどよいタイミングで発生した殺人事件を利用し、美咲が真犯人であるという噂を積極的に広めて、この集落の中に居られなくしようと企んでいたに違いない。

「……お父さんの保険金はいくらだったの? 失踪宣告が出たあと、保険金下りたんでしょ?」

 美咲がそう尋ねると、敏子は驚いた表情をして顔を上げた。

「五千万円。私が独身のころ生保で働いとるときに、掛け捨ての定期保険に義理で入ってもろうて、それをずっと続けとった」

 七年、古瀬光俊の死を隠し続けることに成功すれば、住宅ローンの残債が団体信用生命保険でゼロになり、負債のない土地建物が手に入る。そして五千万円の保険金。母子で生きていく大変さを補って余り有る利得だろう。

 すべて計画した上での出来事だったのだ。

 突然、薄暗い部屋のなか、炊飯器が飯が炊けたことを示す効果音を発した。

 敏子は立ち上がって、台所に行く。そして、炊けたばかりの白飯が盛られた仏器を持ち、隣の和室に入った。

 それを仏壇に供えて、古瀬光俊の位牌に向かって、いつものように合掌した。

 見慣れたそのしぐさに、美咲はとてつもない嫌悪感を覚えた。

「何それ。何の真似よ。自分で死体を埋めたくせに、旦那を失ってかわいそうな自分を演じてたの?」自分でも驚きそうになるほど、冷淡な声が出た。

「……怖かったんじゃ」

「怖かったって、何が?」

「あの人が、ゾンビみたいになって、土のなかから蘇ったりせんかと。何度も何度も、そういう夢を見て、うなされた。土のなかから這い上がってきて、私や恵子ちゃんに復讐に来る夢。じゃけん、せめて化けて出てこんようにと思うとった」

 日々の弔いさえも、犯した罪を悔いるものではなく、自分の身を守りたいという利己的なものだったのだ。

 この女は、どこまで自分勝手なのだろう。

 身体が勝手に動く。

 美咲は供えられたばかりの飯の入った仏器を手に取り、それを敏子に向かって投げつけた。陶器製の仏器は敏子の顔面にあたり、湯気の立つ飯が畳の上に散らばった。

 敏子の眉毛の端が切れて、血が流れている。

 敏子は顔を抑えて、叫んだ。

「東京でキャリアウーマンやっとるあんたには、わかりゃせん。私らの世代の女は、男にしがみつかんと生きていけんかったんじゃ。たとえ死体でも、しがみつき続けにゃ、子供ひとり抱えた女は、悲惨な生活しかできん」

 そういう敏子の顔を、美咲はさらに平手で打った。敏子の身体が弾け飛んだように畳に倒れる。

「あんたは私を悪人だと思うか? そう思いたいなら、思うたらええ。でも、あんたに不自由のない生活をさせて、東京の私立大学に行かせられたんも、光俊さんの保険金があったからじゃ。あんただって、私の悪事の恩恵を間違いなく享受しとる。私は、人としては間違ったことをしたかもしれんけんど、子を持つ女としては、間違ったことはしとりゃせん」

 敏子は畳の上に伏せて、号泣し始めた。美咲は母の泣いている姿を、初めて見た。

 和室を出て、二階の自室に入る。

 美咲はタバコを咥えて火を点けた。

 刑事の川本が言うには、たとえ事実がどのようなものであろうと、死体遺棄も殺人も、時効が撤廃される平成二十二年より前に公訴時効が成立しているため、今後捜査は一切しない、正確には捜査できないということだった。敏子の事情聴取の予定もないという。

 もはや母は、罪を償うこともできない。

 美咲は煙を大きな息で吐いた。

 警察署で初めて対面した父は、土にまみれた髑髏の姿になっていた。

 敏子の言うとおり、美咲は母の悪事の恩恵を受けている。最大の受益者と言っていい。

 かつて、女が抑圧された昭和、そして平成という時代があった。

 その抑圧のなかで、なりふり構わず幸せをつかみ取ろうと、母は必死に足掻いたのだろう。

 私は、母に感謝し礼を言うべきなのだろうか。殴ったことを詫びるべきなのだろうか。美咲はしばらく考えたが、答えは出なかった。

 いつの間にか、タバコのフィルターが涙でぐちゃぐちゃになっていた。

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