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 十五分ほど経過して、ようやく川本が応接室に戻ってきた。

 扉を開けて、美咲を見下す格好になった川本は、なぜか少し苛立っているように見えた。川本の後ろには、五十代くらいの男が立っている。

 二人は部屋に入ってきた。

「申し訳ございません、お待たせしました。でも本題に入る前に、古瀬さんにはお知らせしておくべきだと思います」

「なんですか」

 川本は美咲の真正面に座った。

「第二新光集落の公園で亡くなっていた方の死因が、自殺であることがほぼ確定しました」

 とっさのことなので、一切が理解できない。

 自殺……? 殺人事件の被害者が、自殺などするはずがない。川本は何を言っているのだろう。

「それは……、どういうことですか?」

「公園で亡くなられていた方は、京都で一人暮らしをしていた二十一歳の大学生だそうです。滋賀に住むご両親が、息子と連絡取れないことを不審に思い、一週間ほど前にアパートを訪ねたところ、遺書があった、と。『少し旅に出て、その後どこかで死にます』というようなことが書いてあったそうです。行方不明人の捜索として、こちらにも顔写真が回ってきたんですが、その写真が公園で発見された遺体に似ていたため、ご家族にこちらで見つかった遺体の写真を送って確認していただきました。胸と首筋に特徴的なホクロがあったため、こちらで発見された遺体はその方でほぼ間違いないようです」

「遺書があったって、どういうことですか? わかりません。なんでそんなことになるんですか?」

「つまり、殺人の被害者ではなく、ただの自殺だったようです」

 ようやく、公園で発見されたその京都の大学生の死体を、殺人の被害者として警察が誤認していたのだということ、脳がじわじわと理解していく。

「そんな、今さら……。おかしくないですか。警察は、自殺か他殺かの区別もできないんですか?」しぜんと責めるような強い口調になった。

「当日の未明は雨だったため、通常は発見される犯人の下足痕なども見つかりませんでしたし、ご遺体にも自殺の場合には多く残るためらい傷が首にも腹にも残っておらず、傷も自殺ではありえないくらい深いものだったので、殺人の可能性が高いという検死結果が出たのです。そうである以上、こちらとしては殺人を前提として捜査するのが妥当と判断しました」

 まるで全身の骨が一気に液状化したように、脱力する。

「それじゃ、公園の殺人事件なんて、最初から存在しなかったということなんですか?」

「そういうことになります」

 いったい、これは何の騒ぎだったのだろう。

 全てが無駄だった。全てが徒労だった。

 集落全体が、見ず知らずの若い男の自殺に振り回され、存在しない殺人犯の影におびえて、住人どうしが警戒し合い、疑い合い、侵害し合い、そして殺し合いさえした。人間とは、なんと愚かな存在なのだろう。大げさだが、そんなことさえ思ってしまう。

 そして、このようなことになったのは、回覧板で必要のない注意喚起を煽る文書を作成した自分にも、責任の一端がある。

 腹の底から酸っぱい液が、喉元までせり上がってくる。

「何にせよ、殺人事件でなかったと判明したことは、社会にとっては良いことです」川本が言った。

 その通りなのだろう。

 しかし、それが判明するまでに払った無駄な犠牲が、あまりに大きすぎる。こんな事態を引き起こすことになった憎むべき人殺しが居てくれていたほうが、まだ救われた気持ちになれたのではないだろうか。

「それでは、すぐに済みますので、ご協力をお願いします」

 川本がそう言うと、一緒に部屋に入ってきた男が、プラスチックのケースを開けた。そして、プラスチック製の細長い棒状のものを取り出した。その棒の先の、ボールペンのキャップのような蓋を取り、男はそれを美咲に差し出してきた。

 美咲はそれを受け取った。綿棒が付いている。

「これで、頬っぺたの内側を何回か擦ってください」

 言われたとおりにする。三十秒ほど、口のなかで綿棒を往復させたところで、

「もう大丈夫です。ありがとうございます」

 男がそう言ったので、美咲は綿棒を口から出して男に手渡した。

「どうも、ありがとうございます。ご自宅までお送りします」

 川本がそう言って、美咲に立つよう促した。美咲はそれに抗って、

「あの、結果って何日くらいでわかるんですか?」と尋ねた。

「何日もはかかりません。たぶん、四時間くらい?」

 川本が男に顔を向けると、男は小さくうなずいた。

 スマホの時計を見てみると、まだ午後一時を過ぎたところだった。

「それじゃ、ここで待たせてもらえませんか」美咲は訴えた。

「ここで?」川本は意外そうな顔をする。

「はい。私、少しでも早く結果が知りたいんです。ご迷惑じゃなければ、待たせてください」

「それはかまいませんけど……。それじゃ、一階の運転免許更新の待合室にいらっしゃったらどうでしょうか。あそこなら、暇つぶし用の雑誌や書籍などもありますし。交通課のほうには、私のほうから連絡しておきます」


 川本に案内されてやってきた交通課の待合室は、壁に囲まれてはいるものの出入口にドアの付いていない空間になっている。四人ほど座れる横長の椅子が六つ並んでいて、出入口すぐそばの木製マガジンラックにはファッション雑誌や月刊誌、今日付けの地方新聞と交通安全啓蒙のための小冊子などがある。子供連れで免許更新にきた人のためか、パトカーや白バイなどの小さな模型も、マガジンラックのそばに置いてあった。

 美咲は小難しいことが書いてある月刊誌を手に取って、椅子に座った。月刊誌の目次を見ると、新型ウイルスに対処できない政府を糾弾するような見出しが、びっしりと並んでいる。

 待合室は平日の昼間なのに、人の出入りが頻繁にある。そのほとんどは高齢者と言っていい年齢の人たちだった。部屋に入ってくる人は、みんな手にラミネート加工されたハガキほどの大きさの番号札を持っており、椅子の前の大型ディスプレイにその番号が表示されれば、更新の次の手続きに移行するようになっているらしかった。

 聞き耳を立てていたわけではないが、外から「免許返納の手続きはどこですか?」という、ゆっくりとした老人の声が聞こえてきた。

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