37
帰宅して自室に戻ると、午前九時を過ぎたところだった。コンビニのレジ袋をベッドの上に放り投げるように置いた。
月曜日の朝までに仕上げなければならない仕事が溜まっている。本来なら金曜日の夕方までに済ませなければならないはずなのだが、実際に稼働するのは翌月曜日の朝なので、許可をもらった上で締め切りを遅らせてもらっている。
しばらく悩んだ末に、
≪聞きたいことがあるんだけど、ちょっといい?≫と雄一郎にメッセージを送った。
すぐに既読マークが付いて、
≪なに?≫と返信が来た。
≪ちょっと人に聞かれたくないんで、迷惑じゃなければ直接会って話したいんだけど≫
既読が付いてから、数分してようやく返事が来る。
≪なんじゃろ。何か知らんけど、ほなちょっとだけドライブにでも行こか?≫
≪うん。ありがとう≫
≪今からそっちの家に行ったんでいい?≫
≪お願いします≫
五分もしないうちに雄一郎はやってくるだろう。タバコを吸おうかどうか、一本口にくわえてしばらく逡巡したが、箱に戻した。
脱いだばかりのブルーのニットを羽織って、一階に下りる。リビングで敏子が見ているテレビの音が聞こえてきた。日曜日の朝の討論番組らしく、流行りの新型ウイルス感染対策について、にわかに名前が売れて頻繁にテレビで顔を見るようになった専門家が、政府の政策を激しく糾弾している。
美咲はリビングに顔は出さずに、
「ちょっと、出掛けてくるから」と大き目の声で言った。
「お昼は帰って来るん?」
「たぶん」
スニーカーを履いて表に出ると、間もなく雄一郎の運転する軽自動車がやってきた。
「おはよう。いきなりごめんね」そう言って助手席に乗り込む。
「まあ、暇な身じゃけん」雄一郎は自虐的にそう言って車を発進させた。
「仕事探し、やっぱり難しそう?」
「あれから二件、面接行ったんじゃけど、どっちも倍率二十倍超えとるらしい。二件目のはまだ結果待ちなんじゃけど。こうなりゃ、やっぱり大型か何か免許でも取って、別業種に行くことも考えにゃいかんかもしれん」
軽自動車は公民館前のコンビニを通り過ぎた。
「どっか、行きたいとこ、ある?」雄一郎が尋ねた。
「いや、別に……」
はたして雄一郎の母のことを、どのように聞き出したらよいものか、美咲は迷っていた。
「金田さんとこの居酒屋、知っとるじゃろ?」いきなり雄一郎が言った。
美咲は数日前に金田の居酒屋の様子を見に行ったことを思い出した。ひとつ筋外れるのだが、その居酒屋は雄一郎宅の近所になる。
「うん。それがどうしたの?」
「この前、ちょっと店の前で一悶着あって。夜の八時くらいかなあ、何人かの怒鳴り声みたいなんがうちまで聞こえてきて、表に出てみたら、金田さんの店の前で、もめごとみたいなんが起こっとるんじゃ」
「なぜ? 何の理由で?」
「自治会で、夜七時以降は出歩かんよう自粛せいということになっとるじゃろ? じゃから、七時が来たら店は閉めいと、何人かが集まって抗議しとったみたいじゃ。店の前でずいぶんもめとったみたいで」
この前の役員班長会議では、外出を自粛というのはあくまでも「要請」ということになっていた。しかし、たかが自治会とはいえ公的な決定がなされれば、それを金科玉条のごとく崇めて利用する者が現れる。
「金田さんは、補償もないのに店を閉めれるかいと言うとったけど、抗議しとる人のなかに、『お前のせいで集落でこれ以上、人が死んだらどうするんだ』みたいなことを言う人もおっての。しまいにゃ、『お前の店に出入りする客、全員ぶち殺してやる』みたいなことまで言い出す人もおって……、最終的には金田さんのほうが折れる形になったようじゃが、もう目も当てられんかったわい」
「何、それ。立派な脅迫と威力業務妨害じゃない。自治会で決定したのは、自粛したい人はしてくださいってことなのに、そんなの許されるはずがない。誰が言ったの、そんなこと?」
「それがの、金田さんとこの常連客だったような人も、抗議しとる連中に混じっとったんじゃ。つい最近までは店の大将と客という、良好な間柄じゃったのに、いきなり敵対するようになってしもうた。……でもいちばん激しく抗議しとったのは、集会所の近所にある美容院のお姉さんじゃったかな」
集落に美容院はひとつしかない。
「酒本さんが?」
「そう、その人。俺も大将の店は好きで、こっち帰ってきてから何回かお邪魔させてもろうとった。年下の俺が上から目線でこういうのも違うんじゃが、大将はええ腕しとる。特に揚げもん、天ぷらの盛り合わせは、専門店で長年修行した人間でも敵わんもんがある。ほんで、店に行ったとき、何回か美容院のお姉さんも客で来とって、大将と仲良さそうにしゃべっとったんじゃが……、こんなことになってしまうんじゃな」
役員班長会議では、酒本が強行に午後七時以降の外出自粛を主張していた。髪を切ってもらっているときの様子から想像もできないくらい、激しく感情を露わにしていた。
「金田さんとこの居酒屋、ご夫婦でお店やってるんだよね? やっていけるのかな」
「大将と奥さんと、ほんで近所に住んどる金田恵子さんの三人で店をやっとるみたいじゃ。カウンター席が八つで、四人座れる座敷がふたつだけの小さい店じゃから、もともとたくさん儲かるような店ではないようじゃったが、このところ飲食店は厳しい上に、さらにご近所から攻撃されたんじゃ、たまったもんじゃないじゃろうな。正直、難しいと思う。あんな腕のええ職人さん、なかなかおらんのに、もったいない」
雄一郎は難しい顔をしている。
「そういや、金田恵子さんはだいぶ昔に旦那さんを亡くしているんだよね」
「ああ、そうみたいじゃ。旦那さんが亡くなったくらいに大将があそこで開業して、お店で働くようになったって」
「たぶん亡くなったときって、今の私たちとおんなじくらいの年齢でしょ。なんで亡くなったのかな」
「自殺」赤信号で停まっている車内で、雄一郎はあっさり言った。
「え?」
「だいぶ前やけど、オカンから聞いたことあるわい。ある日、家で首括って死んどったんじゃと」
美咲は訝しく思った。母の敏子は、金田恵子の配偶者の死因を、「おぼえとらん」と一蹴した。義捐金を集める文書を作った当時の書記であった敏子が、自殺などという珍しい死因で亡くなったことをおぼえてないなど、有り得るのだろうか。
「たしか、みっちゃんのお父さんがおらんなったんも、同じ年じゃなかったかな。オカンがそんなこと言いよったような記憶がある」
美咲は少しのあいだ思考が停まった。
行方不明となった父、古瀬光俊について、美咲はほとんど何も知らない。失踪したのは美咲が三才もしくは四才だったので、直接の記憶はまったくない。父の姿を思い出して懐かしいなどと思ったり、父が不在で寂しいなどと思ったこともない。つまり、美咲にとって父とは、最初からいないも同然の存在なのだ。ただ、母の敏子が毎日、仏器に炊き立て飯を盛って供えて冥福を祈っている対象、美咲にとって古瀬光俊とはそれ以外の何者でもない。
その存在について、雄一郎から語られるとは、まったく想定していなかったので、いったい何と反応していいのかわからなかった。
もちろん美咲と同い年の雄一郎が、古瀬光俊について直接何かを知っているということはないだろう。雄一郎の母もしくはその付近の人物からの伝聞以上の情報は持っていないはずだ。
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