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 コンビニのレジ袋をぶら提げて帰途を歩く。第一新光集落を抜けて、第二新光集落に入ったところで、とある家の中から表の道路まで喧嘩をしているような声が聞こえてきた。

 勝手なことをするな、話が違う、ほかにどうしょうもないじゃろ、あんたがどんくさいけんこんなことになるんじゃ、わしが稼いだ金じゃろうが、安月給を節約して貯めたんは私じゃ……、そんなふうに男女が罵り合っている。家の窓は閉じられているようだが、それでも外まで聞こえる怒声だった。おそらく隣家にも聞こえているに違いない。

 その家には、郵便受けの横に石製の表札が壁に埋め込まれていて、一文字だけ「東」と彫られている。

 心配と、少しの興味もあり、立ち止まってその様子を聞いていると、やがて鬼のような形相をした六十代らしい女が何かを絶叫しながら表に出てきた。女は美咲に目もくれず車庫に行き、軽自動車に乗って発進させた。

 続いて、東が表に出てくる。去っていく軽自動車を見ると、東は大きく舌打ちした。

「どうかなさったんですか?」

 そう声を掛けると、東は振り向いて驚いたのか、少しのけ反るようなしぐさをした。

「ああ、古瀬さん。お見苦しいところを、すみません」と小さく頭を下げた。

 そして声を潜めて話を続ける。

「まあ、夫婦喧嘩と言えば夫婦喧嘩なんでしょうが……。義捐金の返還のことで、ちょっと夫婦で揉めておりまして」

「まだ、何かあるんですか?」

 義捐金返還の超過分は、自治会長と会計である東が負担することで決着したはずで、今さら何があるのだろう、そのようなことを東に問うと、

「返還した人には、内密にとお願いしたんですが、やはり『自分が封筒に入れた額よりも大きな金額を請求したら、言い値でもらえた』と吹聴してまわった人間がおるようなんです」

 人の口に戸は建てられない。そうなるのもやむを得ないだろう。

「まあ、それ自体はええんですけど、今度は、『うちは不幸に遭った大山田さんとその息子さんの支援のためにお金を出した、そんな詐欺師のところに自分のお金が行ったのは納得できんから、うちにも返してほしい』と言い出す者が現れて……」

 同じ気持ちは、一万円を封筒に入れた美咲にもあった。しかし、事情を知っている美咲としてはほかにどうしようもないことは明らかだったので、何も言わないことにした。もちろん返還も求めていない。

「その言い分はもっともです。お金を返すしかない。で、自治会長さんにこれ以上ご負担してもらうわけにもいかんし、もううちでかぶるしかない、と。最初の返還ぶんには、女房もしぶしぶ賛成しとったんですけど、さらに追加となると、承服できんと言うてきまして……」

 言いながら、東はがっくりと肩を落とした。東の額には深いしわが刻まれていて、ここ数週間で一気に老け込んだように見える。

「さすがにそんなことにまでなると、一度役員の皆さんで集まってご相談されてはいかがですか?」

「いや、もうええです。納得いかんという人に好きなだけ金を握らせて、黙っといてもらうんがいちばん気苦労がないです」

 先ほど出て行った東の配偶者は、それでは納得するまいと美咲は勘ぐる。しかしそれは家庭内のことなので、口出しすべきではないという気がした。このトラブルにこれ以上巻き込まれたくない、という気持ちのほうが強かったが。

「こんなことになっとるの、どうかご内密に願います」東は頭を下げた。

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