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 午後四時過ぎ。

 自室に戻ってパソコンに向かい、午前中にサボった作業をしていると、家の固定電話が鳴り始めた。美咲は急ぎ気味に階段を下りて受話器を持ち上げた。

「もしもし、古瀬です」

「どうも、こんにちは。お世話になっております。自治会長の五島ですが、書記の古瀬敏子さんはおりますでしょうか?」

 昨日の役員班長会議での五島の姿を思い出した。いかにも気の弱そうな男性だったが、電話の声だけだとさらに弱々しく聞こえる。

「まだ帰ってません。たぶん一時間以内には帰ってくると思いますけど」

「ああ、そうですか。あの、では敏子さんに伝言をお願いします。本日午後七時から、集会所で自治会の緊急で役員班長会議を開催することになりました……。是非参加いただきたいんですが、なにぶん急なことなんで、無理なようでしたら欠席していただいでもかまいません、と」

「はい、わかりました。……でも自治会長さん、会議なら昨日やったばかりじゃないですか。何か、不備でもあったんですか?」

「いえ、そうじゃなくて、今朝の殺人事件のことで、住人に知らせておくべきことがあるんじゃないかと、複数の役員から申し出があったもんで。でも、こんなことは初めてだから、まあとりあえず集まって現状わかってることだけでも役員の中で情報を共有しとこう、みたいなもんです」

「私も今朝、現場にちょっと行ってみたんですが、やっぱり第一発見者は会計の東さんなんですか?」

「えっと、それも含めて、会議で皆さんお知らせしようと思っとります。東さんも必ず出席されますけん」

 きっと、緊急の役員班長会議を開くよう自治会長に申し出たのは東なのだろう。

「わかりました。今日の七時ですね。母に伝えておきます」

 まもなく帰宅した敏子に、美咲が自治会長からの電話の内容を知らせると、

「いったい、何じゃろ。めんどくさい。自治会がなんぞややこしいことせんでも、あとは警察に任せときゃええじゃろ」と言った。

「まあ、わからないことばかりだし、何か新しい情報もあるかもしれないし、行ったほうがいいんじゃない? 私ひとりで行ってこようか?」

「正式な役員は私じゃけん、あんたひとり行かすわけにもいかんじゃろ。ご飯炊いて、とりあえず下ごしらえだけしとって、帰ってから焼いたらええわい。七時からじゃね?」

 敏子はそう言って、エプロンを着けると台所に入った。

 間もなく米を研ぐ音が聞こえてくる。

「そういや、三時すぎくらいだったかな。警察の人が聞き込みに来たよ」敏子の背中に向かって言う。

「そう。ほんで、なんて?」

「昨日の夜はどこにいたか、とか怪しい人物を見なかったとか。心当たりはないって答えると、また来ます、みたいなことを言ってた。お母さんからも何か聞きたそうにしてたから、明日にでも来るんじゃない?」

「私んとこ来たって、犯人逮捕につながるようなことにはならんじゃろ。警察もご苦労様やねえ」

「やっぱり殺人事件となったら、警察は真面目に動くんだね。お父さんが失踪したときは、ぜんぜん探してくれなかったんでしょ?」

 米を研ぐ音でそれが聞こえなかったのか、敏子は何も答えなかった。


 集会所の表に着いたときは、午後七時を十分ほど過ぎていた。九月の空は西側が夕焼けていて、日没してもしばらくはじゅうぶんに明るい。

 死体発見現場である集会所のとなりの中央公園は、まだ黄色いテープが入口に張ったままで、制服の警察官が立っていた。朝に見た県警のワンボックスカーもまだ停まったままで、青い作業服のようなものを着た警察官が数名、公園のなかで何か作業を続けている。

 そして、集会所のすぐ近くに、緑ナンバーの高級車が一台停まっている。タクシーではなくハイヤーのようだ。そのハイヤーのそばには、テレビ局の記者らしい女と、大きなカメラを肩に担いだ男がいた。

 記者の女は、美咲と敏子の姿を見つけるとすぐに駆け寄ってきて、

「あの、すみません。近隣住民の方ですか?」と無遠慮に言った。

「ええ、そうですけど……」

 敏子が美咲の手をつかんで、

「行くよ」と強引に引っ張った。

 さすがに記者は集会所の中までは入ってこなかった。

「ああいうの相手にしとったら、キリがなくなるよ。テレビなんかに映されたら、恥ずかしい」靴を脱ぎながら敏子が言った。

 集会所の大部屋に入ると、自治会長の五島と会計の東、一班班長の佐伯の三人しか居なかった。

「どうも、こんばんは」と美咲が言うと、

「こんばんは」と三人が返す。

「これだけしか来とらんのですか?」敏子が遠慮なしに言った。

「防犯の佐藤さんは、十五分ほど遅れる言うてさっき連絡があったんで、じきに来るでしょう。班長の方々は、まあ昨日の今日じゃけん、あまり来んかも」

 集会所の玄関が開く音がした。そして佐藤と、続いて八班の福井が入ってきた。

 こんばんは、と互いに軽く頭を下げる。

 時刻はすにで午後七時十五分。これ以上待っても人が増えることはおそらくない。

「それでは、緊急の役員班長会議を開始したいと思います。皆さま急なことで大変申し訳ございません」五島が座ったままで言った。

 普段は自治会長は起立して会議の開始を宣告するが、部屋のなかは五人しかいない。その必要はないと判断したのだろう。

「今日お集まりいただいたのは、ご存知のとおり、となりの公園で男性の遺体が発見されたことについてです。警察の捜査が進んでおるようなんですが……。第一発見者は、こちらの東さんです」

 五島は東を手のひらで示した。

「いったい、どういう状況だったんですか?」佐藤が問う。

「えっと、朝の五時前くらいだったかな。夏のうちは、毎朝四時半くらいから犬の散歩に出ることにしとるんじゃが、うちは七班で、家があるんが一番端っこでしょう。だから、集落を一周するように回ってから、公園でちょっと犬と遊ぶことにしとるんです。で、公園に入ったら、真ん中に紺色の何が落ちとって。最初はどっかの洗濯物の飛んできよったんかなっと思ったんじゃけど、犬がやたら吠えよってのう。近寄ってみたら、人間じゃった。とりあえず呼び掛けてみても返事がなかって、ように見てみると、首のあたりに傷があって……。こりゃ死体じゃいうことで、急いで家に帰って一一〇番に通報したんじゃ」

「携帯はお持ちじゃなかったんですか?」佐藤が尋ねた。

「犬の散歩に行くだけじゃけん、毎日持って出とらん」

「血は出てなかったんですか?」美咲が言った。

「今から思うたら、なんかちょっと臭かったとは思うたんじゃけど、昨日の晩は大雨が降っとったんじゃろ? じゃけん、血は流れてしもうたんじゃないかな」

 一同が話の続きを促すように東を見る。

「警察に電話をして、十五分くらいじゃろか。パトカーが二台やってきて、いろいろ聞かれて……。そしてその後、私も警察署について行かれて、ひょっとしたら私が疑われとるんか知らんけど、取調室みたいなとこで、何度も同じ質問されて、結局二時間くらいはいろいろ聞かれて、ちょっと疲れてしもうた」

「被害者の男は、どんな人でした?」五島が東に訊く。

「いやあ……、それがあんな人間の死体を見るんは初めてじゃけん、直視できんかったんですよ、情けない話。とりあえず若い男のようでしたけど」

「首に傷があったんですね?」

「ああ、それは間違いないです。傷口が紫色になって……」

「いちおう確認ですが、きのうの夕方、ここで役員班長会議をやりましたけど、その時に公園に死体があった、なんてことはなかったですよね」佐藤が言った。

 皆が肯く。

「じゃあ、被害者が殺されたのは、夕方から東さんが発見するまでのあいだ……。たぶん、夜から朝までの時刻ですか」

 美咲はそこで初めて、自分以外の誰もが犯人の可能性があるのではないか、ということを考えた。夜中のうちにアリバイのある人など、ほとんどいないに違いない。被害者がいったい何者かはわかっていないが、犯人はこの集落の住人である可能性は排除されないし、今この集会所の中にいる誰かが犯人である可能性も、ゼロではない。

「で、今日は何のための集まりなんですか?」福井が高い声で言った。

「ああ、そうじゃった。えっと、とりあえず住人に戸締りをしっかりして、警察の捜査に協力するよう、呼びかけるために臨時の回覧板を作ってもらおうと思って。その内容を決めようと」五島が答える。

「え、そんな」美咲は言った。

 両方の手のひらを五島のほうに向けた。

「今日、パソコン持ってきてないですよ」

「ああ、そうじゃった。言うの忘れとりました。すみません」五島は頭を下げる。

「いや、まあ内容だけ決めてくだされば、家に帰ってから作りますけど、……お母さん、メモ帳か何か持ってきてる?」敏子のほうを向いて言う。

 敏子はポケットから小さなメモ帳を出した。美咲は小さくうなずいた。

「……でも捜査に協力するって、うちにも昼にカッターシャツ姿の警察官が来ましたけど、皆さんの家にもすでに来ましたか?」

「来ました」と佐藤が言った。

「うちも来ました。昼過ぎくらいだったかな」福井が言う。

「うちは来てないね、だって私、言うべきことは全部警察署で言うたはずじゃけん」東が言う。

 美咲が佐藤と福井に、やってきた警察官の風体を聞くと、やはり身長の高いがっちり体型の男だったという。美咲の家に来た男と同じ人物のようだ。

「正直言うて、ちょっと感じ悪かったね。あのおまわりさん。威圧的というか、こっちを疑ってるというのがバレバレで。できればもう来てほしくないんじゃけど。最初見たときはヤクザが来たんかなと思った。駐在さんとはえらい違いじゃ」佐藤が言う。

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