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「それでは、ほかに発言する人がいないようであれば……」

 自治会長がそう言って、本日の役員班長会議の閉会を宣言しようとしたとき、美咲の視界の端に挙手する手が見えた。

 最年少の福井優里亜が、再び発言する機会を求めている。

 自治会長が、どうぞ、と言って指名する。

「あの、八班の福井です。発言させていただきます」

 美咲も手を止めて、福井のほうを見た。福井は黒のサマーニットにジーパンをはいている。

「あの、こういうことを言うのは問題あるとは思いますが……、この自治会って意味あるんですか?」

 美咲を含む一同はそれを聞いて、最初は福井の意図を理解できずにぼけたような表情をしていたが、やがて誰もが困惑の色を浮かべた。

「えっと、それはどういうことですか?」自治会長が言う。

「うちが班長になったということで、私も四月から役員班長会議に出席してますけど……。みなさん本音では、役員も班長も厄介ごとだと捉えていて、誰もやりたがらないですよね。くじに当たったら、本当に残念そうにして」

「ええ、まあ。そうですが……」と誰かが言った。

「でも、会議で話し合われることは、さっきみたいに役所や公的機関の下請けみたいなことばかりで。ゴミ出しで問題ある人がいて、それを指摘するのは自治会の役目なんでしょうか。それは市役所なりクリーンセンターなりの仕事じゃないんでしょうか。行政の怠慢を、こっちに押し付けられていて、しかもそれによって住人どうしが対立するなんて、おかしいと私は思います」

 美咲は役員や班長の顔を見回す。怒りを浮かべている人もいれば、苦笑するだけの人もいる。

「それに、自治会に入るメリットって、何なんでしょう。最近、新しく引っ越してきた人のなかには、たしか入ってない人もいますよね? 少額とはいえ自治会費を負担して、メリットはほとんどないのに、役員や班長をやらなければならない負担だけは回ってくる。本当に、自治会っていうのはこれ以上継続する必要があるんでしょうか?」

 それは誰もが密かに思っていることだった。しかし、誰も言い出すことができない。住人の誰もが、年度末のくじ引きで役員や班長にならないことを祈りながらハラハラしている。自治会は住人の負担にしかなっていないのだ。

 自治会を解散するにしても、誰が決めてどうやって解散を決議するか、そのやり方は誰も知らない。惰性で続けているだけだった。

 役員班長会議の内容を報知するための回覧板もどれほどの意味があるのか、文書を作ってる美咲でさえ疑問に思うことがある。きっとほとんどの家庭で、回覧板の中身などろくに見ずに日付と署名だけして次に回しているに違いない。

「あの、すみません。発言してもよろしいでしょうか」水上が挙手をした。

 水上はほとんど丸刈りに近いような短髪をしていて、肩幅がしっかりとした体形をしており、半袖のTシャツから出ている二の腕は、明らかに平均以上に太い。

「どうぞ」自治会長が水上のほうを向いて言った。

 水上は座ったまま話をする。

「五班の水上です。私と妻は警察官をしておりまして、私は署の交通課、妻は警務課に所属しております」

 美咲は五班班長の水上が警察官であることは、母から聞いて知っていた。勤務の都合があるのか、役員班長会議には、夫婦が交代で出てきているようだった。

「いちおう行政側に身を置くものとして、今のご意見に少し申したいことがございます。……おっしゃるように、本来行政が担うべき任務を、自治会にご負担いただいているのは、まさにその通りだと思います。自治会だけでなく、防犯協会や交通安全協会など、民間の活動があってこそ、我々も安心して任務に専念できておるのです。この自治会にも、防犯担当の役員様がいらっしゃいますが、自治会と地域の交番や駐在所と連絡を密にすることによって、犯罪防止が達成されておると確信しております」

 それを聞いて、防犯担当役員の佐藤が軽く肯いた。そして、

「四月に駐在さんがやってきて、ここ一年間の住人の移転や、カーブミラーやガードレールの破損などを聞いて行かれました」と言った。

 水上が話を続ける。

「自治会を解散するとなると、防犯の効果を維持するには、警察が直接住人の状況を把握しなければならなくなります。もちろんそれはプライバシーの懸念も出てくるでしょう。市役所やほかの役所のことは私はわかりませんが、自治会が存在するということは、全体としてみれば効率が良くなっていると、考えるべきだと私は思います。役員や班長の皆さんはご苦労の多いことだと思いますが、やはり維持するべきだと思います。そして、どこかよその国では、こういう諺もあるようです。『なぜ壁が築かれたかわかるまでは、壁を取り除いてはいけない』と。非合理に見えるシステムでも、撤廃しても問題ないと証明されるまでは、維持すべきなのです」

 その演説を聞いて、部屋のなかは静かになった。それなりの説得力を誰もが感じたようだった。

「まあ、たいへん言うても一年の辛抱じゃけん。がんばりんさい」副会長の三田が言った。

「まあ、そうじゃね。今回やりゃあ、五年は楽できるんじゃけん。五年後は私は死んどるかもしれんけど」もう一人の副会長の鈴木が言った。

 それを聞いて一同が笑った。

「えっと、福井さんのご指摘も一理あるでしょうけど、とりあえず今すぐに決めるべきことではないと思います。とにかく今年度の役員班長は我々が務め上げなければいけないでしょう。長期的な課題として承る、ということでいいんじゃないでしょうか」五島が言った。

 その発言は、いわゆる「先送り」というやつなのだろうと美咲は思った。自治会長としてはそれがもっとも無難な選択なのだろう。

「わかりました。出しゃばったことを申し上げました。すみません」

 福井は丁寧に頭を下げた。

「では、これで役員班長会議を終えますが、よろしいでしょうか」

 異議なし、という複数の声が上がった。

 会議は散会となったが、集会所から去る人は少なく、引き続き集会所内に留まってそれぞれ気が合う者どうしで会話をしている。

 美咲は回覧板の文書の作成を続ける。

 誰かわからないが、女の声が水上に、

「あなたお巡りさんじゃったん? 知らんかったがね」などと気安く声を掛けている。

「まあ、いちおう。白バイ乗りの交通違反取り締まりをしてるので、市民の皆さんの嫌われ役ですよ」と水上が自虐的に答えた。

「うちの息子もこの前、一時停止で捕まったばっかりじゃ。わっはっは」

「是非交通ルールとマナーを守った安全運転をお願いします」

 自治会長の五島と副会長の鈴木が、給湯室から現れた。ふたりとも手にはお盆を持っていて、麦茶の入ったコップが乗っている。

「お疲れ様でした、どうぞ」と言ってそれを配る。

 美咲の前にも五島がやってきて、

「いつもお疲れ様です。私らもう年寄りで、コンピューターはぜんぜん使えんけん、古瀬さんが頼みです。お世話になっております。どうぞ」とコップを置いた。

 美咲は手を止めて、ありがとうございます、と言った。

「お菓子もありますので、欲しい方はぜひ召し上がってください」と鈴木が言った。

 集会所に常備している菓子は住人から集められる自治会費で購入している。住人で集会所の利用者は誰でも食べてよいことになっている。昔は集会所で将棋や囲碁をする集まりがあったようだが、最近は集会所を利用する人はほとんどいなくなったため、菓子を食べることはは役員や班長の数少ない役得となっている。

 美咲は立ち上がって、クッキーをかじっている自治会長の近くまで行った。

「次の回覧板、これでいいですか?」と言って、ノートパソコンのディスプレイを五島のほうに向けた。

 本来の書記役の敏子もやってきてディスプレイを覗き込む。


***


 月 日


自治会長よりお知らせ。


①市のクリーンセンターより、第二新光集落のゴミ収集車から分別がされていないゴミが多く見られるそうです。分別を徹底するようお願いします。分別方法は、市のホームページ等を確認するか、衛生担当役員までご確認をお願いします。


②ゴミ出しは必ず当日の朝にお願いします。前日の夜に出すと、カラスや猫がきてゴミ置き場が散らかる原因となります。


③感染症予防のため、手洗いやマスクの着用に引き続きご協力ください。


以上


***


「①の『衛生担当役員までご確認』というのは、私が勝手に付け加えたんですけど、問題ないでしょうか」と美咲が言った。

「ああ、問題ないじゃろう。みんなとりあえず分別の仕方は知っとるわけじゃし」五島は衛生担当の玉木に確認せずにそう言った。

「日付のとこは今のところ空欄にしてますが、どうしましょう。たぶん実際に回覧板を回すのは、今月の末か来月の頭くらいになると思いますけど」

「うーん、九月の末日でええんじゃないじゃろうか」

「それで問題ないじゃろう」敏子が言った。

「じゃあ、九月三十日にしときますね。いつものように、各班分八枚でいいんですよね?」

「はい、お願いします」五島は小さく頭を下げた。

「じゃあ、明日か明後日くらいに印刷して、広報担当さんまで届けますので」

「ありがとうございます」

「私も一枚いただきます」美咲はそう言って、机の上のザルに置いてあったクッキーを手に取った。

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