おばあちゃんと龍

@TAPETUMSHIMON

【序】




薄闇がゆれる。


その中を墨で黒く汚した木の小舟が静かに進む。


黒衣に身を包み櫂を操る若侍の荒い息遣いだけが波間に消えていく。


間もなく、夜が明ける。


夜半に屋敷を出立してからどれくらいか。


この時分の波はすでに冬の力強さで、思ったより進めていない。


あとどれくらいで巽島に着くだろうか。


神宮寺の住職は浜で待っていてくれるだろうか。


この子を無事に届けることができるだろうか。


二十四で夫を亡くし御館様にお仕えしてから生まれ年の辰年をさらに二度迎えた。

汗と波しぶきでじっとり湯気を立てながら櫂を操っている三郎太を含め7人もの乳母を務めた。その最後の御子が、今この腕の中に死んだように眠っている幼子、五十日の祝いをすませたばかりの七郎太様。

「死んだようだなんて縁起でもない」

思わず声に出してしまった。

「いかがいたしましたか、常盤殿?」

朗らかな若い声を暗闇に潜めて三郎太がたずねた。

常盤と呼ばれた女御は頭まですっぽりかぶっている、雨風除けの油を引いた厚手の黒い毛織物をずらし、抱いた赤子を波風から守るようにそっと巻きながら顔を出した。年の頃は四十過ぎだが、自分の子を入れ十人の子供に乳をやり、育てたその顔は穏やかながら芯の強さがうかがえる。子ども相手によく笑ったであろう目元には、深いしわが目じりの延長にあり、目の大きな印象を与えている。

「三郎太殿、少しうつらとしておりました。お疲れでしょうに申し訳ございません。」

「さすが、我等が乳母殿は肝が据わっていると見える。このような時にもうたた寝できるとは。」

黒頭巾が必要ないほど真っ黒に日焼けした顔から人懐こい瞳と白い歯がちらと覗いた。笑いながらも三郎太と呼ばれた若侍は波に合わせて櫂を動かし続けた。


そう、先の紅白合戦で我ら紅方の総大将が身罷り、一族が海へと追われたとの知らせが来てから一月あまり。

まるで花桃の様に紅白の血もまばらにまじりあったこの北の地まで、まさかその波が押し寄せてこようとは。

昨日まで共に鴨を狩り、酒を酌み交わし、琴や笛を奏じ合って、老いも若きも分け隔てなく語り笑い合った義理の親子兄弟が、弓刀を取り、殺し滅ぼすものと、あがき戦うもの、逃げるもの、運命を受け入れ自ら死にゆくもの、と、一瞬で割れた花器の欠片のようにカッと散ってしまった。

御屋形様は奥方様の親兄弟に刃を向けるのを人道に外れるとして、元服を済ませた上の子らと共に自刃されるおつもりだ。

「その代わりに七郎太だけは寺に預け、一生をかけ一族の弔いをさせて因果を断つ。」

昨夜、広間に皆を集め、そう言葉にされた巌の表情に誰も何も言うことはなかった。親方様が梅の紋付きをただ無言で引き千切った瞬間、それまでの声無きすすり泣きが破裂して老若男女を問わずこの世の終わりと大号泣となった。

己共の命を懸けたそのお心が義父に通じなければ未来に禍根を残すものとして、寄る辺ない赤子の命などたやすく奪われるだろう。

念のためと、闇に乗じて館を出立し浜までは蹄に布を巻いた馬に乗り、用意してあった小舟に乗り込もうとして最後にお屋敷のある山を振り返った時、空が赤く染まっているのが見えた。

「七郎太を無事に送り届けたら戻ってこい、共に逝こう」

そう笑って三郎太を送り出した御屋形様。初めから三郎太も生かすおつもりだったに違いない。


それとも、義父方の夜襲か?

義父、あの老猿のごとき小男の口の左端をつり上げる冷たい薄ら笑いが一瞬脳裏を横切った。


思わず子を抱く腕に力が入っていたのか、七郎太がぐずりはじめてしまった。

「ゔ~ ぶぁ~ん ゔぁ~ん 」

今は波音に紛れる程の鳴き声だが、奇数番生まれの男子の習いで、すぐに大波にも負けぬくらいの大音量になるのは目に見えている。

 (もう一度寝かしつけなくては)

潮の香りで鈍った鼻に頼ることなく、すかさずおしめの隙間から片手に余るほどのすべすべとしたやわらかいおしりに触れてみる。

(大丈夫。ではお腹が空いたのか)

潮風が入り込まぬよう固く合わせた胸元をあいた右手でかき開き、すでに赤子が吸いやすい形に変わった乳首をふくませてみる。寝ぼけているのか2・3度痛いほど歯のない歯茎で噛んできた。

「っつ、わこ様ちゃんと吸ってくださいまし。はい、ちゅっちゅ…」

もう一度くわえさせ、いつものようにあやしてみるが、どうしたことかプイと横を向き、小さな体で力いっぱいのけ反ったかと思うと、大きな声で鳴き始めてしまった。

「〝アア~ン!ッゥア~ン!!ア~ア~アア”ア~イ!!!」


“ビュィーッツ・カッ!!!”

風をつんざく音・船の縁に何かが刺さる音。

矢が射掛けられた!

「常盤殿、伏せてください!」

三郎太が叫んだ。

“デューッ!ビューッ!ビュイーンッ!”

此方の射手を懸念してか、灯りも点さず、声も立てず、暗闇の中からただ矢だけが殺意となって降り注ぐ。

船底に寝かすように覆い被さり、ぎゅっと抱きしめているうちに七郎太は泣き止んだ。と同時に矢雨が止んだ。

身を低くそれでも流されぬよう櫂を執っていた三郎太が抑えた声で素早く告げた。

「大丈夫ですか?」

「はい、そちらは?」

「ははは、こう暗くては千に一つと当たりますまい。」

「でももうじきに明け始めますよ」

新月の真黒な空が藍色、さらには白い線が空と海を別ちはじめている。

「はい、しかし後ろを見てください」

振り向くと舳先の向こうにチラチラと小さく灯りが揺れている。

あれはきっと、約束通りに、親方様と幼馴染で懇意にしている神宮寺の住職が島の浜辺にこの子を迎えに来ているに違いない。

「もう、泳いでも二,三町といったところでしょう。一気に漕ぎきります。」

つとめて明るい声でそう言いきると、すっくと立ち上がった。

その刹那、どこからか“ビンッ!”という音が響いた。一呼吸の間もなく

“ドゥンッ!”

“ぐぅぶっ!”

胸を射抜かれた若い身体がのけ反り一瞬止まる。

「三郎っ!?」

目を剥いて、返事はなく、大木が打ち倒される如くにゆっくりと宙を仰いで背中から海へと落ちていった。

“ザッパンッ!”

落ちた姿勢のまま水面に留まり胸の息をゴボッと吐き出すと牽かれるように海の底へ静かに消えていった。

「やぁっ!」

という声が波の向こうから聞こえた。

(ぉああ、三郎!!!この子、七郎だけはなんとしても・・・)

我が子同然の若者が目の前で殺されたのに声は出せない、こらえきれない気持ちを押し殺して叫んだ。

(ぅううぉおおぉおぉぉ………畜生!!!考えろ!)

舟を漕いでもまた狙い撃ちにされるか、すぐに追いつかれるだけだろう。島育ちで、嫁に行くまでは海女のように毎日海に潜って栄螺や鮑、海栗などを取っていた。3町泳ぐぐらいわけはない。まだ薄闇の波間に紛れるうちに。

赤子にはこの水温は無理だ。

(どうする。)

麻痺した右脳に代わり左脳が動きだし、一呼吸の間に為すことが決まる。船底にひいてある幅1長3尺ほどの厚い渡し板を一枚選ぶ。被っていた油引きの波除を脇に置き、帯締めを外し結び目を前にしてぐいぐいぐいと緩める。息を吐き腹を細めて一気にずり下す、これも乳母の技の一つ。底のない桶ができた。するりと外した腰ひもで底板にそれをしっかりと括り付ける。それに波除けをかぶせて、いつの間にかしんと寝いっている七郎太をおくるみごとそっと置き、息ができるほどの隙間をあけながら4隅を結び、最後に帯締めで底板に固定した。

(いざ)

腕を伸ばせるだけ伸ばして出来立ての小さな船を島に近い方の波間に置いた。着物を脱ぎ、肌襦袢一枚になる。音を立てぬように後ろ足から入水しようと腰を上げた時、大波が船を揺らした。もんどりうって頭から海へ落ちてしまった

“バッシャンッ!”

大きな波しぶきまで上がってしまった。海面へ顔を出し少し肺に入った塩水でせき込みながら大きく息をつく。

(あの子はどこ!?)

目の前の波が下がると一つ前の波頭に黒い塊が浮かんで揺れているのが見えた。思い切り水をけった。あと一かきで板の端に手が届く。

“ビンッビビンッビンッ!!!”

“カッカカッ!”

殺意に満ちた無機質な音がすぐ後ろに響いた。振り向くと此方には射手はなしとみたのだろう、2つの松明が恐ろしげに揺れながらゆっくりと近づいてくる

「やったか!?」

荒々しい男の怒声が間近に聞こえる。

思い切り息を吸い込み潜って船の横を蹴り一気に距離を詰める、板に手がかかった

(よしっ!このまま)

顔を上げ、これが最後と息を吸いに吸い込んだ。

「舟は空じゃぁ。」

松明が海面近くを探るように大きく舟の左右で動く。

「あそこじゃぁ。一人泳いでおるぞっ!」

松明の灯りが一つ大きくなった。

(見つかった‼︎)

“ビュッ!ドゥッ!ビュッ!ドゥッ!”

太もものすぐ脇に矢が飛び込んでくる。

(この子だけでも)

体を起こし、水を蹴り上半身を思いきり水面に出し、浮いた体が沈み込むその反動で小さな板舟を命を限りと押し出した。

グンと先を持ち上げた板舟は一気に波を切った。

(とどけ、とどけ!とどけーっ!!!)

強い願いの勢いのまま波間を滑り降りる板舟は黒い小さな塊を乗せ、ひる子流しのように波を越え、波に乗り静かに視界から消えていった。

(最後に一目だけ)

そう思ってもう一度軽く沈んで勢いをつけ、荒波の海面に身体を起こしかけた瞬間

“ズンッ!”

うなじに殴られたような衝撃。とっさに右手を首の後ろ大頸の辺りに当ててみると、矢が刺さっている。波越しで力をそがれて首を突き抜けなかったのだ。身体から異物が出ている違和感で、反射的に引き抜いてしまった。冷たい海の中で首の周りだけが生暖かい。


(あぁぁ、とどけ、とどけ!とどけ…生きて!!!)

海に沈みながら常盤はそれだけを最期の神頼みと命の限りただ願った。


海の上では常盤たちの乗っていた小舟が松明を一つ投げ入れられて、燃えていた。

(ああ寒い)


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

九歳で初めて一人で鮑を取った時もこうだった。

大好きな母が、このごろ晩になると囲炉裏の前で

「目が遠くなった遠くなった…」

藁で縄を編みながら節を付けて繰り歌みたいに口ずさんでいた。

そんな母に何かしてあげたくて「何かいいものはないか」と物知りの和尚さんに聞いた

「眼に効くのは[黒鮑の肝]中でもアラメやカジメの岩場にいる6寸越えの[大黒の肝]が一番。」

「【オオグロ】ってどこで獲れるの?」

「それが、いつもは到底人の手の届かない深い深い場所におるのだが、大潮の時にだけ水面近くまで上がってくるのじゃ。」

「次のオオシオはいつ?」

「ちょうど今夜は満月じゃから、今日あたりは上がって来とるかもしれんな。ただし、それでもおぬしのような子供にはちと深すぎるがな。」

聞いたその足で島の南側の一番端の浜辺にある大きな岩場を目指した。

半時ほど急いで浜辺に着くなり、肌襦袢だけで飛び込んだ海は春なのにまだ水が冷たい。

岩場を泳いで回り込むとすぐ取れそうな深さに栄螺や海栗が見える。だけど狙いは[大黒]。いつもより深く潜ると岩場の下が棚になってその下のくぼみに鮑の貝殻だけが集まったのかキラキラと輝く場所があってその中に黒くて大きな塊が見えた。

(あった!)

一度息継ぎに上がると、風が少し強くなってきている。そういえば波も大きく強くなっている。これ以上になると引き波で沖に流されて帰れなくなる。

(急がなくちゃ)

ゆっくり吸って吐くを三回繰り返し、最後に大きく吸って、さらに吸ってから思い切り潜った。

さっきより波が強い。

流されないように両の手で岩に取り付きながら頭から獲物に近づいていく。

くぼみに半身を突っ込むようにして右手を伸ばす。

あと少しで届かない。

岩から手を放し体の向きを変えてから両手両足で水を思い切り掻いた。

身体中をうんと伸ばした。

そしてがっちりと掴んだそれは、8寸はあろうかという特大の[大黒]だった。

その時、少し強い波が来た。

岩場に当たって帰る波に小さな身体が引きずられてガリガリと尖った岩棚に首の後ろを打ち付けられた。

思わずゴバッと息を吐き出してしまった。

冷たい海の中でうなじの下だけが生暖かい。それでも自分の顔より大きい[大黒]を決して話すまいと両の手で握りし水面を目指した

(息がもたない)

その時、目の前に大きな白い生き物が現れた。不思議な色の優しい目の中でキラキラといくつもの光が瞬いていた。その目を見つめていると全然怖くなかった。

勇気が湧いてきて足を力いっぱい掻いて水面に顔を出した。

立ち泳ぎのまま大きく息を整える。[大黒]を自分の白い腹にギュッと押し付けると、鮑はキュウッと吸い付いてきた。それを左手で抑えたまま右手で帯を緩めて、それごとしっかりと胴に巻き直した。

自由になった両手で上半身を水面にグンと伸ばして浜辺を探すと、水中では全く気がつかなかったけど、引き波でだいぶ沖に流されてしまっていた。

(大きな鮑。亀の前後ろみたいになっちゃった。おかに戻れるかな)

するとどこからか低くて美しい声が聞こえた


))大丈夫・一緒に行こう((


そうして先導するようにゆっくりとその真っ白な黒白(くじら)は泳ぎだした。

波を切るように進む大きな体の後ろをついていくと見えない力で引っ張られているように楽に泳ぐことができた

(これなら帰れる)

お腹の鮑が邪魔でうまく泳げず、いつもより時間はかかったけど何とか浜辺にたどり着いた。砂底に足がついてきたところでとなりの黒白に声をかけた

「はぁ、はぁ‥ありがとう、黒白さん。でもあなたは真っ白ね。」


))名前を付けて((


「名前?!あたしがつけていいの?じゃあ、【シロ】!」


)))シロ(((


「あたしは常盤(ときわ)、トワって呼ばれてる」


))トワ((

水から上がると、腹の[大黒]の重さがズンと増したように感じた。

来た時に脱ぎ捨てたままの蛇の抜け殻のような着物の前まで来ると思わずしゃがみこんだ。

波打ち際ギリギリに見える白い頭に向かって

「シロ、ほんとにありがとう!また来るね!」


))トワ・待ってる((


着物をさっと羽織って、水の中のあのキラキラっした瞳に向かってにっと白い歯を見せると、家に向かって踵を返した。まだ明るい空に白い満月が静かに透けていた。


 そのあとすぐに鍛冶の腕を認められた父と共に一家で本土の御屋形様のところに移ることになってしまい、それきりあの岩場に行くことはなかった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


もう寒さも感じなくなった海中を漂いながら遠い記憶がよみがえった。



))トワ・大丈夫・一緒に行こう((


(ああ、忘れていた。あなただったのね、真っ白な黒白(くじら)さん)


))待ってて・トワ((


 白くて大きい身体から 懐かしく美しい声が聞こえた。


(シロ…)



「うああああっつ!」

自分たちの船の三倍以上はある大きな生き物に船の周りを回られて、四人の武者は弓を射ることも忘れて恐れおののいていた。白い巨体が跳ねた。

“バッシャーンッ!”

頭から冷たい海水をざっぱとかけられ、先刻までの強者面も威勢も何処かへ消え去り

「ふ、ふ、鱶(ふか)だ~!」

「逃げろ!」

「船を沈められる!」

「喰われるぞ!」

口々に叫ぶと一斉に櫂を取り一心不乱に逃げ出した。


(愚かな山猿ども、今このあたりに鱶なぞいるものか)


すぐ脇をブスブスと焦げ臭い水蒸気をはぜながら小舟が沈んでいった。見送った右足の先に何かが触れた。目を見開いたままの三郎太の亡骸だった。


(みんな沈んでしまう。七郎太。あの子だけは)


「久後の血だけは残したいのだ。頼まれてくれぬか。」

日に焼けた御館様の昨夜の顔が頭をよぎった。


(あああぁぁぁ、あの子だけは届けなければ)


不思議と力が戻ってきた、海面を目指し掻き上がろうとした その時


))わかった((


またあの美しい声。


その方へ顔を向けると、大きな口が静かに開いて迫って来るのが見えた。


(私を食べてもいい。代わりにあの子を浜に運んで!生かして・・・)


白く大きな影は首のまわりに漂う血の匂いに引かれるようにぬっと向かって来た。

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