第2話 穴くぐり

「この神社には平安時代の昔から、穴くぐりという神事があります」


 旗を持った旅行会社の人がそう説明してくれる。

 小林正志こばやしまさしはその説明にうんうんと楽しげに頷いた。

 正志がツアー旅行に参加するのは何年ぶりだろう。世の中はなかなか以前と同じようにはならないけれど、こうして少しずつ平常が戻ればいいと思う。


 このツアーの参加者は全部で十人で、貸し切りバスには余裕があった。旅費は多少割高だけれど補助金もあって、結果的にお得な旅行になっている。

 目的地の神社は都内からはさほど遠くない。由緒正しい神社なのだが、交通の便が悪いのが難点か。バスが通るのもぎりぎりという狭い山道を超えると、意外と広い平地に小さな集落が見えた。

 家の数は本当にパパっと見て数えられるくらいの小さな山村だが、どの家も意外と新しい。古民家みたいな風景を期待したらがっかりしていたかもしれない。

 正志はただ田舎の空気を楽しみたいだけだったので、清潔感のある村の風景が気に入った。村の家々を通り過ぎると、目的の神社がある。


「今日はその穴くぐりの神事を皆様に体験してもらいます。穴には一人ずつしか通れません。本日は安全のために十分間に一人というゆっくりなペースでくぐっていただくことになります」


 参加者の数人が「えー」という不満の声を漏らした。時間がかかるのは最初から分かっていたことなのになぜこうも人は我儘になれるのだろう。

 だが幸い不満の声はすぐに静まった。それは穴くぐりの穴を見たからだ。

 神社の裏手に巨大な岩が一つあった。その岩の中央に大きな穴が開いている。大きなと言っても、人が這ってギリギリ通れるくらいの大きさだ。その穴が巨大な石の中央、つまり地表から二mも上に開いている。

 穴までは木で作られた梯子が置いてあり、非日常的な風景に全員息をのんだ。


 岩の向こうには建物がある。真っ暗な穴を通った先は神の国を模した部屋。この神事体験が今回のツアーの目玉企画だった。

 順に並んで最初の一人が穴の中に消えていった。正志は五番目だ。待ち時間も長い。

 飽きさせないようにしゃべり続けている旅行会社の人も大変だなあ。気楽にそんな感想を持ちながら、聞くともなしに話を聞いた。

 平安の昔はこの穴を通って本当に神の国へ行った人がいたという。

 もちろんただの伝説だ。

 若く美しい女性が毎年ひとりこの穴をくぐり、神に気に入られたものだけが遥か異次元にある神の国へと行ける。それは名誉なことであり、残された家族は泣きながら神に感謝をささげた。

 考えようによっては恐ろしい伝説だと思う。


 正志の順番になった。暗い穴の奥には全く明かりも見えず、ただ狭い穴の中を前へと進むしかない。

 すごく長い時間だったように感じたが、穴から出て時計を見ると五分くらいしかたっていなかった。そして穴から出るとそこは金屏風の置かれた煌びやかな部屋。これが平安時代の人が空想した神の国なのだろう。

 もっとも観光のためにか、比較的新しい調度で飾られている。


 真っ暗な穴を通るのも、美しい金屏風の部屋で過ごすのも、非日常を味わえて満足のいく体験だった。そのまま神社の社務所に泊まり、翌日は村人が育てているブドウの収穫体験。試食で食べたブドウはスーパーで買うものよりもずっとおいしく思える。さらには収穫の報酬だと、持ち帰り用のブドウまで貰えた。

 初日には少し聞こえていた文句の声も今は消え、帰る頃には九人全員が心からこの旅行に満足していた。


 楽しい時間はいずれ終わる。帰りのバスに揺られながら正志は、明日からの仕事のことを少しでも忘れようと目を閉じるのだった。


【了】

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る