深淵を覗くとき◆3分で読む不思議な穴の物語◆

安佐ゆう

第1章

第1話 プロローグ

 目覚めた時、男は真っ白な部屋の中にいた。

 窓も扉もない、ましかくの部屋。天井も床も白くて、しばらくすると自分が立っているのか寝ているのかも分からなくなってくる。

 男は視線を落とし、自身を見ようとした。

 体はちゃんとある。手も、足も。服はシンプルな白いシャツとズボン。それ以外は何も持っていない。

 ――いったいなぜこんな場所にいるのか。

 いくら考えても、紡ぎ始めた思考はすぐにほどけてしまい、自分が誰かすら思い出せそうにない。


 このままここで、ぼんやりと過ごすのもいいような気がする。

 そのとき、何かが目の端に映った。ただ真っ白いだけだと思っていた部屋の壁に、染みのような小さな黒い点。近寄ってみると染みと思ったものはちいさな穴だった。


 男は穴を覗いた。

 穴の向こうには、少し老いの見えはじめた女性が椅子に座っている。

 ――あれは……。

 それは男の母親だった。

 ズキン。

 焼けるような痛みが左腕に走る。男が慌てて腕を見ると、シャツは破れ肩から肘にかけて酷い擦り傷ができていた。

 男はひるんで、穴から後ずさる。穴から離れると、さっきまで覚えていたはずの大切な人のことが朧にかすむ。それと同時に腕の痛みが少し引いた。

 ――穴から離れよう。

 けれど何故か、男は穴を覗かずにはいられない。

 痛みをこらえながら目を寄せた。

 今度は穴の中に三十くらいの痩せた女性が見える。

 ――なぜ今まで忘れていたんだろう。あれは妻だ。

 ズキン。

 さっきよりももっと酷い痛みを左足に感じた。足は奇妙に折れ曲がって、激痛に男の顔がゆがむ。

 けれど男はそのまま穴を覗かずにはいられなかった。

 穴の向こうでは妻が泣いている。何がそんなに悲しいのか。男の胸もまた張り裂けそうになる。いつの間にかシャツは無く、体のあちらこちらに青あざができていた。

 痛みをこらえて穴に向かい、たった今思い出した妻の名を呼んだ。

 ズキン、ズキン。

 一度名を呼べばまたどこか、体が痛む。穴から遠ざかれば痛みは引く。

 葛藤するも、結局は穴に惹かれてしまう。


 穴の向こうから声が聞こえてきた。

「ねえ、パパ。まだねんね?」

 ――ああ、この声は誰だっただろう。愛おしい声。

 押し寄せる痛みと戦いながら男は穴を覗く。声の主が妻に歩み寄り、もう少しで男のところからも顔が見える。

 もう少し。もう少しで顔が。

 全身の千切れるような痛みと戦いながら、男は穴を覗く。


 ◇◆◇


 穴の向こうにあるのは痛みと、そして何かとても大切なもの。

 声を出せば届くかもしれない。

 手を伸ばせば、あるいは向こう側に行けるのかもしれない。

 そんな、不思議な、穴。


【了】

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