月が綺麗でしたね

@kuramori002

月が綺麗でしたね

 あの頃、ぼくは無知だった。

 まぁ、今が博識かと問われたとして、自信を持ってイエスとは言えないけれど。

 とにかく―――、あの頃の、中学生のぼくは無知だった。



 あの時、先輩に会ったのは秋の夜道だった。

 部活帰り、白い光につられて道端の自販機でお茶を買おうとしていたら、背後から日に焼けた細い腕がぬっと伸びてきた。

 手首に通したヘアゴムを揺らしながら、その手はぼくが押そうとしていたのとは違うボタンを、ためらう素振りもなく押した。

「いや、何してるんですか、先輩」

 振り返らずにそう言うと、

「お、よくあたしだって分かったな」

 彼女は正面に回り込んで、取り出し口からサイダーを取り出す。

「こんな失礼なことするのはあなたくらいです」

「大丈夫? ちゃんと友達いる?」

「先輩の友達の基準おかしくないですか?」

「そう? 気兼ねなくじゃれあえるのが友達でしょう? で、」

 と財布を取り出す。

「きみは何飲むの?」

「あ、緑茶を」

 ほいほい、と先輩は硬貨を入れ、出てきたお茶を投げて寄越す。

「おごってあげよう」

「うわぁ、感動で涙が出そうです」

「胸、貸してやろうか? ん?」

「ったく、なに言ってんすか」

 腕を広げる先輩からちょっと目を逸らす。

「ちぇー、つまらん奴め」

 じゃあちょっとお借りします、とでも言えばドン引きだろうに。

「部長職はどう? うまくやってる?」

 塾帰りだと言う先輩と一緒に歩き始めたところで、そう尋ねられた。

 夏の大会が終わって三年生が引退して、代替わりしたところだった。

「まぁ、なんとかやってる……と思いたいところです」

「あたしでもできたんだから、きみもできるよ。大丈夫大丈夫」

 そんなことを言って背中を叩いてくれるけど、正直に言えば不安でいっぱいだった。

 少し向こうの点滅する街灯を見つめながら、なんとか返事を紡ぎ出す。

 先輩に心配されないように……と思ったのに、どうにも嘘はつけなくて、

「―――いやぁ、先輩は一見ちゃらんぽらんですけど、みんなに慕われてるし、意外にしっかりしてますし」

 冗談めかして言ったセリフは本心で、その先には「ぼくは違う」という自虐が隠れていることを、このひとは気づいてしまっただろうか。

「まったく、素直に褒められないのかね……」

 しばし、無言になる。

「土手の方から行かない?」

 誘われて、大通りをそれる。少し遠回りになるけれど、特に気にするほどでもない。

 土手へ登る階段の手前で、先を歩いていた先輩は急にこちらを振り返った。

 顔が薄明かりに照らされている。

「自信の無さは、あんまり表に出すんじゃないよ」

 どうやら、バレていたらしい。

「すみません」

「とにかく、皆の前に立つときは堂々としてな。弱音は、特定の誰かにだけ吐けばいい。例えばあたしとか」

「先輩、もう部活こないじゃないですか」

「電話していいよ」

 気軽に言ってくれる。

「受験生の時間を奪えませんって」

「気にしない気にしない! でも、落ちたら責任とってよね」

 先輩は笑うけどぼくは笑えない。大体、どうやって責任を取るんだ。

「なんで電話しにくくなるようなこと言うんですか!」

「冗談だよ、じょーだん。たかだか、三十分か一時間ぐらいきみの愚痴をきいたぐらいで合否は変わらないって。とにかくさ、なんつーか、弱音を言ってもいい相手が居るってだけで頑張れる気がしない?」

 そう言って小首をかしげる先輩に、ぼくはなんだか救われたような気持ちになった。

「―――確かに、そうかも知れませんね。ありがとうございます」

 お礼を口にすると、

「へっへっへ、なんかちょっと恥ずかしいやりとりをしちゃった気がするぜ」

 そんなことをつぶやきながらぼくに近づいてくる。

 先輩の小さな顔が目の前にある。息遣いさえ聞こえてきそうだった。

 ―――と、

「てりゃあッ!」

 急な掛け声とともにぼくの腹を殴り、そのまま踵を返すと階段を駆け上がっていく。

「なにするんですか、いきなり!」

「溢れ出る青春ドラマ感に耐えられなくなったー!」

 こちらに背を向けたまま、川の方へむかって叫ぶ。

 めちゃくちゃに身勝手だ。

 ぼくはその背中を追いかけて、階段を一段とばしで駆け上がる。

 土手の上で、先輩の隣に立つ。

 視界が開けて、川面にうつる星々と月が見えた。

 視線を上に動かす。

 夜空の満天の星と、大きな満月が目に飛び込んできた。

「先輩」

「ん?」

「月が綺麗ですね」

 思わず、そんな感想を口にした。

 ―――その、途端、

「は? え、ちょ、きみ今、なんて言った?」

 なぜだか急に先輩が慌てだした。

「え、だから、月が綺麗ですねって」

 今度は先輩の顔を見ながら言う。

「ちょ、待ってなになになに急に! 近い近い近いって! あたしだって心の準備が!」

 いったい、何を騒いでいるのだろう?

「どうしたんですか?」

「どうしたもこうしたも……ん? ちょっと待って―――えっと、もし無粋だったらごめんだけど、その、きみどういう意味で言った?」

 どういう意味と言われても困ってしまう。

 ぼくは空を指差して、

「いや、だからさっきから言ってるじゃないですか。あの満月が綺麗ですねって話ですよ」

「あ―――……うん、そうか。そうだね」

 先輩は急に肩を落とす。

 テンションの上がり下がりが激しい。やっぱり、受験勉強で疲れているのだろうか。

「あの、どうかしました?」

「どぉーもしませーんよーだ、まったくこの馬鹿!」

 急になじられる。いったいなんなんだ。

「あーもー、あたしは悲しいよ。さ、帰ろ帰ろ」

 そう言って歩き出す。

「え、あ、はい」

 それを、ぼくは慌てて追いかける。


 ―――そんな感じで、あの日は帰路についた。



 夏目漱石の(本当かどうか定かではない)例の逸話を知って、ぼくがひとり悶絶したのは、それから数年後のことだった。



 そして―――今。

 沢山のひとが集まる結婚式の二次会。

 新郎友人が集まるテーブルから離れ、ビュッフェ形式で並べられた料理へ歩き出すぼくの耳元で、

「よぉ、久しぶりじゃん」

 と、誰かがささやいた。

 振り向くと、そこに先輩がいた。

 中学の頃の面影はありつつも、すっかり大人びた風貌だ。

「え、うわ、久しぶりですね! 新婦のご友人だったんですか?」

 などと、白々しく驚いてみせたものの、実のところ、披露宴の座席表を見たときにすでに気がついていた。

 自分から話しかけなかったのは、もしぼくのことを覚えていなかったら……と不安になったからだ。

 なにせ、あの頃からもう十年以上の時が過ぎてしまっている。

 あれから、中学、高校、大学と日々を過ごし、今は働いている。

 いく人かの女の子と付き合い、そして別れた。

 それでも―――いや、それなのに、と言うべきか。ぼくの心の片隅では、あの日の満月が仄かに光り、あの頃の瑞々しくも苦々しい感情が、確かにあったのだということをひっそりと主張し続けていた。

「きみと会うの何年ぶりだろうね? 懐かしいな、中学なんて大昔なのに、昨日まで一緒に居たような気がするよ」

 そんなことを言う先輩にうなずきながら、プチケーキをひとつ手元の皿にうつす。

 すると先輩は、

「わ、それ美味しそう!」

 ひょい、とぼくの皿から取り上げてお行儀悪く口へ放り込んだ。

 まったく、中身は変わってないな、このひと。

「む、今、笑ったでしょう?」

「笑ってませんよ」

 と言いながらもぼくの口角は上がっている。

「昔っからきみは失礼なやつだよね。先輩に対する敬意が感じられない」

「えー、尊敬してましたよ」

「ほんとにぃ?」

 騒がしい席には戻らず、手近な壁に寄りかかってぼくたちは話す。

「そう言えば―――」

 なるべく、自然になるように切り出す。

「そう言えば、先輩は覚えていますか? 土手から一緒に月を見たのを」

 一瞬、先輩が固まった気がした。

「―――ああ、そんなこともあったような気がするね」

 この態度……、確実に覚えているよな、やっぱり。

「あの時の月は、とても綺麗でしたよね」

「……うん、そうだね」

 ぼくの顔を見ずに、騒がしい会場に目を向けながらうなずく。

「今も―――ひょっとしたら綺麗なんじゃないかって、ぼくは思ってるんですけど、先輩はどうですか?」

「へあ?」

 素っ頓狂な声を出された。

「ええと、んん? またか? またなのかきみは? もしかして?」

「今度は違いますよ。ちゃんと知ってます」

 何を、とは言わないが。

「へー、ふ―――ん、へ―――」

 感心したような呆れたような態度で先輩がぼくの顔をしげしげと眺め回す。

 この反応は予想外だ。

「ったく、なかなか面白い文句を言うようになったもんだねぇ?」

「恐縮です」

 だんだん恥ずかしくなってきた。

「今更、赤くなってんじゃないよ、馬鹿」

「すみません……えっと、それで、その……?」

 おずおずと顔をうかがう。

「最後までびしっとしてなさいよ」

 ばし、と肩を叩かれる。

「まぁ、でも、そうね、頑張ったんじゃない? きみにしては。だから―――」

 先輩はぼくの正面に立ち、

「だから、月が綺麗かどうか、一緒に確かめるくらいは付き合ってあげてもいいかな」

 そう言って、にやりと笑った。

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