ルナ

第48話

 神話の時代。南都ナンバークから海運で様々な物資を王都へと運びいれた大規模な港町クランズハーゲン。

 しかし、それも海運の廃れた今となっては、かつての賑やかだった港町の面影は無い。今はただ、無駄に大きな岬の灯台と初夏のマス漁だけが有名な、なんの変哲も無い小さな港町である。


 そんな港町で、一人の少女の噂が広がったのはもう五年以上も前のこと。


 それは、岬の灯台に一人の孤児が住み着いた事から始まった。その孤児は名前をルナと言う。恐らくは近隣の村か集落から流れ着いたのであろう。だが、彼女はその経緯を一切語らなかった。


 ただ、想像はつく。


 この地方の漁は大抵が家族単位で行われ、多くの場合は夫婦揃って海へと出る。その為、一度事故が起こると両親が海から帰ってこないまま丘に子供だけが取り残されることも多かった。普通なら親戚や近所の大人達が親の代わりに面倒を見てくれるのだが、不幸なことにこの少女には周りに頼れる大人がいなかったのだろう。


 つまるところ、この地方では孤児など、さほど珍しい存在ではない。孤児院などという慈善施設も有るにはあるが、ルナのように孤児が空き家や公共の施設などに住み着いてしまった場合には、周りの大人が出来る範囲で食料や衣類をその孤児に提供して、町や村ぐるみでその孤児を育てて行く。それがごく普通の事であった。


 赤い縮れた髪に、大きな黒い瞳。それはこの地方ではありふれた容姿。孤児であった彼女も、最初から何かが変わっていたわけでは無い。

 灯台守の男は、ルナの事を孫のように可愛がっていたし、彼女も同年代の子供達と直ぐに打ち解けて、毎日のように野原を駆け回って遊んでいた。そして何よりルナには天性の愛嬌があった。

 だから彼女は町の誰からも声をかけられたし、その生活で何かに困るということは一切無かった。


 少しお転婆で愛嬌のある少女。それが大人達の彼女に対する一般的な評価であった。



 しかし、その評価は少しずつ変わって行く。その変化は、まず子供達からであった。


 ある日の朝、ルナとよく遊んでいた漁師の息子エバンが、可愛がっていた猫を事故で亡くしてしまった。母親は息子がさぞかし落ち込んでいるものと思い言葉を尽くして慰めたが、思いのほかエバンはケロッとしている。そんなエバンを不審に思った母親だったが、その日は朝から夫と共に漁に出なくてはならず、取り敢えずエバンと猫を埋葬する約束だけをして家を出て行った。


 そこまでなら、なんの変哲も無い家庭でのよくある話であったのだが……。


 母親が少し漁の時間を早めに切り上げて家に帰ってみれば、なんと驚いたことに家の中では死んだはずの猫と楽しげにじゃれ合う息子の姿があったのだ。


 慌てた母親が、エバンに事の次第を尋ねると、息子は「生き返った」としか言わない。エバンの両親は唖然として顔を見合わせた。しかしそんな体験をしながらも、彼らはごく普通の漁師である。不思議な事もあるものだと、その奇跡を知人に話しはしたが、その原因を突き止めようなどは思ってもみなかった。


 ましてや、その時知人にした話が後の聖女ルナの誕生に繋がるとは、これっぽっちも思ってはみなかったのである。



 こんな田舎の町に何か特別な出来事が起こったとしても、それはこの町だけでの話。そして、それがこの世界に暮らす大多数の人々に共通する認識。だから、たかだか猫が生き返ったなどと、勘違いの一言で片付けられそうな噂話も、簡単に町中には広がらない。それが普通なのだ。

 しかし、今回はそうではなかった。その日以降、生き返った猫の話をきっかけにしてこの町では別の似たような話がちらほらと囁かれる様になって行く。例えば、それは蝶であり、鳥であり、はたまた家畜の羊であった。


 だが、この時点ではそれはただの噂。いわば都市伝説的な根も葉も無い造り話。そう大人達は解釈していた。


 ある一人の女性を除いては……。

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