令嬢と魔法師団長 5

 アルマニアがそんな風に吐き気も忘れて思考の渦の中にいたのは、きっと時間としてはそう長くはないものだった。けれど彼女は、これまでの人生の中で最も頭を使い、最も真剣に思い悩み、そしてとうとう、己が定めた答えを出す。

「…………オートヴェント団長を、助けて」

 アルマニアにしては驚くほど小さくなってしまった声で、しかし彼女は確かにそう言った。万を犠牲にしても救うべき一なのだと、そう決定した。

 それを受けて、アトルッセが激しい抗議の叫びを上げるのが聞こえたが、アルマニアはもう惑わされない。思考し、選び、口にしたのだ。後戻りをしようなどとは考えないし、できようはずもない。

「良い覚悟だ、公爵令嬢。……だが、まだ甘いな。選んだのはあんたなんだ。それなら、万が一の逃げ道も用意するなよ。判るだろ?」

 容赦のない言葉に、アルマニアは唇を強く噛んでから、ヴィレクセストの目を真っ直ぐに見つめて、今度はよりはっきりと、強く響く声で言葉を紡いだ。

「アトルッセ・オートヴェントを助けなさい、ヴィレクセスト」

 今度こそはっきりと告げられたそれに、ヴィレクセストが一歩を踏み出し、牢の中へと入ってくる。

「任せろ」

 アルマニアの肩をぽんと叩き、ただひと言そう告げた彼が、アトルッセの前に歩み出て口を開く。

「……光は朝を照らし 闇は夜を覆う 輪廻を巡る命の輝きはそらへ 落ち行く命の受け皿は奈落へ 白と黒の狭間を我が手に 光と闇の切れ間をここに 祝福と怨嗟の境界を足元に」

 アルマニアには聞き慣れない音色で紡がれるそれは、ヴィレクセストと出会いたての頃、彼が雷魔法を使ったときと似た雰囲気を纏っている。だが、そのときよりもずっと肌を刺す緊張感は強く、アルマニアは今彼が行使しようとしている力の強大さを悟らずにはいられなかった。

「我は祈りを以て願いを叶えるもの 我は呪いを以て望みを満たすもの ならばこの手は理を握り この足は理を踏み越える」

 まるで讃美歌を歌い上げるように詠唱するヴィレクセストを中心に、彼の足元から白と黒が入り混じった不思議な光が溢れ出して、重力を失った羽のように舞い上がった。

「祈り 願い 呪い 嘆き 奇跡を満たす強き陽射しよ 奇跡を運ぶ柔らかな月光よ すべての命を御するただ一人の名において 彼の者の歩むその先を遮らせたまえ」

 詠唱を重ねるごとに、溢れ出した白と黒がヴィレクセストの周囲を踊るように漂い流れていく。それらを従え佇む彼に、アルマニアはどうしてか、天上にいるという神々の姿を見た気がした。

「……我が主よ、どうかこの咎を我が身に」

 誰にも聞こえぬほどの小さな呟きを以って詠唱を終えたヴィレクセストが、アトルッセに向かって手を翳す。

「――“私がその未来レ・シェルファを否定するス・メセスト”」

 瞬間、一際大きく溢れ出した白と黒の光が、涼やかな陽光にも暖かな月光にも似た音を奏でながらアトルッセへと流れて、まるで慰撫するように彼を包み込んだ。すると、二色の光の粒子が触れた場所を起点として、まるで時が遡るようにして、アトルッセの骨や肉、臓器が再生されていく。

 それはまさに、奇跡のような光景だった。失ったはずの腕が、脚が、無から作り上げられていくのだ。骨が生まれ、それを肉が覆い、皮膚が隠していく。元となる物は何もなく、ただ空気中で物質が生まれ、アトルッセの一部として成っていった。

 そうして見る見るうちに本来の姿を取り戻したアトルッセは、騎士や戦士と呼ぶにふさわしい立派な体躯を持つ、臙脂の髪をした美丈夫だった。先ほどまでの姿からは想像がつかなかったが、なるほどこれならば、魔法師団の団長だったという話も納得できる。

 奇跡を終えた白と黒の光がゆっくりと消えていくなか、ヴィレクセストが最後の仕上げとばかりに、アトルッセを繋ぐ鎖を魔法で破壊する。

 と、それと同時に、鬼の形相をしたアトルッセが飛び出し、ヴィレクセストを押しのけてアルマニアに掴みかかった。

「貴様! 民の命をなんだと思っている!?」

 そのまま殴りかかるのではないかと思えるほどの勢いで胸倉を掴んできたアトルッセに、アルマニアが僅かにたじろぐ。いつもはこうなる前に助けてくれるヴィレクセストは、その場から一歩も動かず、ただアルマニアのことを見ているだけだ。それがまた、アルマニアの動揺を誘った。

「帝国の貴族である貴様にとってはこの国の民など路傍の石に過ぎぬのかもしれんが、俺にとっては何よりも守るべきものなのだ! 万のそれを踏みにじって俺一人を助け、それで俺が感謝にむせび泣き膝をつくとでも思ったのか!? 民の屍の上に得られた生に、この俺が喜ぶとでも思ったのか!?」

 アトルッセの濃い橙色の瞳が怒りと憎しみに染め上げられ、アルマニアを呪うように射貫く。真正面からそれを向けられた彼女は、血の気が失せた顔で、しかしそれでも、震える唇を必死に開いて音を吐き出した。

「……ち、がうわ。私は、」

 私は選んだだけだ。悩み、考え、自らの意志を以て、選択を成しただけだ。そこにこの国の民を踏みにじる気持ちなど欠片もなく、己の手で切り捨てたそれらの重みを深く理解した上で、全てを背負って立つ覚悟でアトルッセを取っただけだ。

 そう口にする筈だった。口にしなければならなかった。だが、初めてその手で成した事実はあまりに重く、向けられた感情の塊はあまりに激しく、それらが鉛のように心に沈み込んで、正常な思考と精神を妨げる。

 渦巻く感情に次の言葉を出せずに止まった彼女に向かい、アトルッセは一層の憎悪を湛えて吠え立てた。

「何が違う!? 貴様がやったことは、ただの無差別な大量虐殺ではないか!」

 この上なく激しい怒りと、そして絶望的なまでの悲嘆に満ちたその声に、アルマニアが思わず息を呑む。

 知っていた。アルマニアが選んだそれは、こうして責められるべき選択であり、彼女のちっぽけな一生をかけても到底償い切れぬ罪であることなど、判っていた。それを知り、それでも覚悟を決めたからこそ、選んだのだ。その筈だった。

 だが、現実はこんなにも重い。自分は間違っていないと確信していてさえ、選択の結果はアルマニアをこんなにも責め立てる。現実として結果を引き出す前の覚悟を嘲笑うかのように、アルマニアの心を侵して足元をぐらつかせる。

 その身に圧し掛かるこの上ない重責に、アルマニアの目にじわりと水の膜が溢れ、その視界が僅かに滲んだ。泣いてはいけないと必死に己の叱咤すれども、ぎりぎりのところでかろうじて立っているだけにすぎないその心では、それを止めることはできない。

 そしてとうとう、目端に及んだそれが零れ落ちようとした、そのとき。


「――“領域固定:流光断絶”」


 ヴィレクセストの静かな声がそう紡いだ瞬間、世界が止まった。

 比喩ではない。言葉の通り、アルマニアとヴィレクセスト以外の全てが、時の流れから置き去りにされたように止まってしまったのだ。

 突然起こったそれにアルマニアが何かを思うよりも早く、堪えきれなかった涙が彼女の頬を伝い落ちる。あれだけ必死に押しとどめようとしたそれは、一度ひとたび零れてしまえば、タガが外れたように後から後から溢れ出してしまった。

 そんな彼女に向かって、ヴィレクセストが口を開く。

「王はそんな姿を晒さない。理解したなら無様を正せ、公爵令嬢」

 短く告げられたそれに、アルマニアが目を見開く。そして彼女は、与えられたこの時間の意味を正しく理解した。

 ぎり、と歯を食いしばったアルマニアが、服の袖で乱暴に顔を拭う。無作法極まりない行為だが、今の彼女にはこのくらいがちょうど良かった。

 それでも溢れてきそうになる涙に、彼女は今以上に強く、それこそ歯が折れるのではないかと思うくらいに強く食いしばって、必死に抗う。そうして無理矢理に涙を収めた彼女は、次いで三度大きく深呼吸をしてから顔を上げた。

 謝罪と感謝と、そしてもう大丈夫だということを伝えるためにヴィレクセストへと視線を向けたアルマニアは、しかし目にしたそれに思わず驚きの表情を浮かべてから、どうしようもないものを見るような柔らかな苦笑を浮かべて、別の言葉を選んだ。

「……貴方だって人のことを言えないわ、ヴィレクセスト」

「…………知ってるから放っとけ」

 返ってきた言葉にまた苦笑を零してから、アルマニアがヴィレクセストに向かってこくりと頷く。それを受けてヴィレクセストがぱちんと指を鳴らせば、その音を合図とするように再び時が流れだした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る