令嬢と魔法師団長 2
静かな声に、ヴィレクセストは振り返らない彼女を見た。
「良いのか。とてもじゃないが、使いものにならないと思うが」
「それを判断するのは私よ。貴方ではないわ」
はっきりとした声で紡がれた言葉に、ヴィレクセストが僅かに目を開いてから、少しだけ困ったような複雑な顔をして頬を掻いた。
「また喋り過ぎたかね、俺は」
「さあ、それが判明するのは、これからだわ」
その言葉を受け、小さく息を吐き出したヴィレクセストが、彼女の望みに応えるべく魔法を発動させる。複数の魔法展開を経て放たれた光の紐のようなものが、牢と廊下とを隔てている金属製の柵に絡みついたかと思うと、鍵も何もないのに固く閉ざされていた扉が、かちゃりと音を立てて開いた。
それを見たアルマニアは、こくりと唾を飲み込んでから、自分を迎え入れるように開かれたそこに足を踏み入れる。
瞬間、全身を舐るように漂った酷い悪臭に、彼女は口と鼻を手で覆い、大きくえづいた。吐しゃ物と排泄物と、それから肉が腐ったような臭いと。あらゆる悪臭を詰め込んだような、嗅ぐだけで病気になってしまいそうなほどに酷い臭いだ。
ここに来たときから、これだけ酷い環境にも関わらず不快な臭いひとつ漂ってこないことが疑問だったのだが、単に廊下と牢とが空間魔法によって隔てられていたからなのだと、アルマニアは身を以って知った。
これまでに経験したことがないほどの悪臭に晒されたアルマニアは、とうとう堪えきれなくなって、その場に膝をついて胃の中のものを床へとぶちまけた。後から後からせり上がってくるものが喉を通って吐き出され、しかしそれでも一向に収まる気配がない吐き気に、目端に滲んだ生理的な涙が落ちる。
それでも、ヴィレクセストが牢に踏み入ってくる気配はない。そしてアルマニアも、彼に助けて貰いたいなどとは思わなかった。
と、そのとき、ふと小さな衣擦れの音がアルマニアの耳を掠めた。
はっとした彼女が未だ残る吐き気を抑えてなんとか顔を上げると、その視線の先で、アトルッセ・オートヴェントがこちらを見ていた。
いや、正確には、見ていた訳ではない。今初めて見えたその顔に嵌まっていたのだろう両眼は、無惨に抉り取られており、見えるような状態ではなかったのだ。
だが、それでもアルマニアは、彼が自分のことを見たと思った。
「…………アトルッセ・オートヴェント団長、ね?」
彼の凄惨な姿と環境、これまでに起こったのであろうことに対する怖気と吐き気を堪え、覚悟や矜持を搔き集めて意地と根性で常と変わらぬ声を出そうと努めたアルマニアだったが、その声は僅かに威厳を欠いてしまった。しかしそれでも、最低限の体裁は保てただろう。それにどれだけの意味があるかは判らないが、アトルッセを前にしたアルマニアは、そうすることがひとつの誠意であると思った。
果たして、アルマニアのその言葉にアトルッセは息を呑んだかと思うと、枯れ木のような身のどこにそんな力があるのか、鎖ががしゃりと音を立てるほどに激しく身体を揺らして、何事かを叫んだ。
だが、明確な意志を感じさせるその音は、言葉にはならない。そこでようやく、アルマニアは彼の舌が根から切り落とされていることに気づいた。
「…………ヴィレクセスト」
牢の外に控える唯一の家臣の名を、アルマニアが呼んだ。その意図を悟ったヴィレクセストが、しかし静かな声で言う。
「無理だ。この世界の回復魔法では、欠損したものを蘇らせるほど高度なことはできない。どんな天才魔法師も、魔法自体の限界は超えられないのが理だ」
きっぱりと言い切った彼に、アルマニアはきつく唇を噛んでから、アトルッセに向かって言葉を続けた。
「私の名は、アルマニア・ソレフ・ロワンフレメ。幻夢の賢人、ノイゼ・モンテナルハが集めたレジスタンスへの手土産として、貴方を助けに来たわ」
その声に、アトルッセが再び何事かを叫ぶ。その音にはやはり確固たる意思や信念のようなものが宿っており、それ故に彼女は、己の拳をきつく握った。
他の囚人たちは待遇こそ劣悪だったものの、身体的に傷つけられたような痕跡はなかった。だというのに、彼だけが、異常なほどにその肉体を痛めつけられている。
この違いは、一体どこから来るのだろうか。
そも、ここの囚人たちは等しく、魔物を製造するための貴重な検体の筈だ。だからアルマニアは、彼らはもっと大切に扱われているものだと思っていた。だというのに、囚人たちは監獄本来の環境そのままに放置されており、アトルッセに至っては、肉体を著しく損傷させられてさえいる。
この事実に加え、監獄をよく知るノイゼがアトルッセに寄せていた信頼と、ヴィレクセストの言葉とを考えれば、自ずと答えは出た。
「……人を魔物へと変えるのに、健康な肉体は必要ないのね。必要なのは、魔物化したあとに上手く操れるよう、精神を掌握することなのだわ」
静かに落とされたその解に、アトルッセが驚いたようにはっと息を呑んだ。
それを見て、アルマニアは己の答えが正しいことを悟る。賢人たちが成そうとしている秘術において、人間であった頃の肉体の状態は関係ないのだ。アトルッセのように人としての生活が送れないような状態の者であっても、魔物化すれば、強靭で正常な肉体へと変化するのだろう。そして、魔物化した人間たちを意のままに操るためには、あらかじめその心を壊してまっさらにする必要があるのだ。
であれば、ノイゼが強い信頼を置くアトルッセに対して、ヴィレクセストが手遅れだという判断を下したのも理解できる。それと同時に、アルマニアはとうとう確信した。
やはり、そうなのだ。
「……ヴィレクセスト」
「なんだ、公爵令嬢」
いつもの調子で返ってきたその声に、アルマニアはゆっくりと振り返って、背後に控える彼を見た。
「彼もまた、王の器なのね」
確信を持って紡がれた言葉に、ヴィレクセストが一度だけ瞬きをしたあとで、その目をすっと伏せる。
「ああ」
彼にしては感情が薄い不思議な音色で返された答えに、アルマニアはきつく拳を握った。
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