令嬢と不落の監獄 8

「お嬢様! アルマニアお嬢様!」

 聞き慣れた声に名を呼ばれ、アルマニアははっと目覚めた。そして目に入った光景に数度瞬きをする。

 見慣れた天井、懐かしい香りに、アルマニア好みの柔らかさで身体を受け止めてくれるベッド。ここは――

「ああ、ようやくお目覚めですか。まったく、役立たずなのは仕方ないとして、せめて自力で起きるくらいのことはしていただけませんかね」

 心底嫌そうな声が棘のある言葉を吐いたのが聞こえ、アルマニアは慌てて身体を起こして声の方を見た。

「…………ヘレナ……?」

 半ば呆然とした様子でアルマニアがそう呼んだのは、ロワンフレメ公爵家に仕える使用人、ヘレナ・アーセットだった。恰幅の良いこの初老の女性は、アルマニアが生まれたときからずっと、乳母として専属メイド長として、アルマニアを支えてきてくれた人だ。

 幼い頃に母を亡くしたアルマニアは、ヘレナを第二の母のように慕い、ヘレナもまた、ときに優しくときに厳しくアルマニアに寄り添ってくれた。

 そんなアルマニアが信頼する彼女が、明らかな軽蔑の目をアルマニアに向けている。一体どうして、こんなことになったのか。

 全く状況を飲み込めずに困惑するアルマニアに、ヘレナは眉根を寄せて大きな溜息を吐き出した。

「お着替えのお手伝いをいたしますから、呆けていないで早くベッドを出てください。今日は皇后陛下にお会いするご予定なのでしょう? お待たせするなんてもっての他ですよ。これ以上家門を傷つけるような真似はなさらないでください」

「ま、待って、ヘレナ、一体何の話をしているの? それに、ヴィレクセストはどこ?」

「はい?」

「そうよ、私、ザクスハウル国の大監獄にいたのよ。それがどうして、私の家にいるの? ねぇヘレナ、深い藍色をした長髪の、とても整った顔立ちの男性を見なかった? 私、早く彼の元へ行かなくちゃ」

 焦りも露わに言ったアルマニアに、ヘレナが思い切り顔を顰めてから、手に持っていたドレスをアルマニアへと押し付けた。

「妄想も大概になさいませ! これ以上は付き合っていられません! 早くお着替えのご準備を!」

「違うわヘレナ! 私は、」

「サヨ様に皇后の座を奪われたのがショックだったのは判りますが、これ以上恥を晒すのはおやめください! サヨ皇后陛下は、お嬢様と違ってとても素晴らしいお方です! そうやって身の丈に合わない皇后の座をいつまでも羨んで、ロワンフレメ公爵閣下のお顔に泥を塗り続けるおつもりですか!?」

 怒鳴るように叫んだヘレナに、アルマニアが目を丸くする。

 ヘレナの叫びが何度も頭を巡り、そして、アルマニアはどうしてかカラカラに乾いてしまった喉で、掠れた声を絞り出した。

「…………私と違って、サヨが、素晴らしい……?」

 ほとんど呟きのような大きさで零れたそれに、ヘレナは目を見開いたあとで、アルマニアの頬を張り飛ばした。ぱしんと乾いた音が部屋に響き、驚きに目を丸くしたアルマニアが無意識に頬に手をやる。皺が目立ち始めてきた手でぶたれたそこは、じんじんとした痛みを訴えてきたが、アルマニアはぶたれた箇所よりも、胸の奥の方がずきずきと痛むのを感じた。

「皇后陛下のお名前を呼び捨てにするなど、恥を知りなさい! ヘレナはお嬢様をそのような礼儀知らずにお育てした覚えはございませんよ!」

 怒声を浴びせてくるヘレナの顔をゆっくりと見上げたアルマニアが、ヘレナの表情を見て青褪める。

 彼女の口振りは、アルマニアのためを思って厳しくしているのだと言いたげだった。実際アルマニアも、訳が判らないなりに、ヘレナがこうして怒ったり酷い言葉を吐くのには何か意味があり、アルマニアのための行動なのだろうと思っていた。

 だが、アルマニアを見下ろす彼女の顔を見て、そんな考えは呆気なく崩れ去った。

 ヘレナの歪んだ顔に滲むのは、疑いようもない憎悪と軽蔑と愉悦だ。その目はまるで汚いものを見るかのように濁った色をして、その口は無様になじられるアルマニアの姿に歪な笑みを浮かべている。

 そして唐突に、アルマニアは思い出した。

(……ああ、そうだ、そうだったわ……。私はあのとき、ベルナンド皇太子殿下に婚約破棄を言い渡されて、国外に追放されそうになって……、けれど、サヨが私を許すように殿下に縋って、私と一緒に殿下を支えたいと言って、それで、私は許されたのだったわ……)

 そのときの記憶が、まるで走馬灯のようにアルマニアの脳内に流れ込んでくる。

 半分泣きながら皇太子に縋り、アルマニアの罪を許すようにと懇願する小夜と、少し離れた場所から黙ってそれを見ていることしかできなかったアルマニア。そして、そんなアルマニアに憎悪の目を向けながらも、小夜に甘い言葉を紡いで、アルマニアを許し皇后を補佐するための皇妃として迎えようと約束した皇太子。

 思い出すだけで、アルマニアは恥ずかしさと不甲斐なさでいっぱいになった。

 散々自分を貶めてきたアルマニアを見放したりせず、それどころか心から愛し、アルマニアのために皇太子に救済を願った小夜のことは、あっという間に国中に知れ渡った。そして、皇族や貴族、そして国民たちから、まさに名実ともに素晴らしい聖女であると讃えられた彼女は、この一件を最後の一押しとして、次期皇后の座を約束された。

 そしてその出来事からひと月後、皇太子の父たる皇帝の容体が急に悪化し、賢帝と讃えられた彼は、そのまま帰らぬ人となってしまった。

 崩御した父に代わり、ベルナンド皇太子が新たな皇帝として即位し、それと同時に小夜が皇后として立ったのが、ふた月前のことだ。

 本来であれば、帝国の太陽たる皇帝の即位は唯一無二であるべきであり、皇后と同時に戴冠式を行うなど異例のことだったが、新皇帝たっての願いで、小夜は特別に皇帝と共に戴冠式を受け、そのまま婚礼の儀までも執り行うこととなった。歴史に例のない試みであったが、民や議会からの反対はないどころか、聖女という特別な存在を帝国の母として迎えるのだから、それくらいのことはして然るべきという意見がほとんどで、この特殊な戴冠式と婚礼式は滞りなく厳かに華やかに執り行われた。

 だが、アルマニアはその光景を見ていない。アルマニアだけでなく、父のロワンフレメ公爵すら、式典の場に足を踏み入れることは許されなかった。

 身勝手な意見を喚き、小夜を傷つけ、そして国をも混乱させた罰として、アルマニアとその親族の全ては、例外なく式典への参加を禁じられたのだ。

 アルマニアはともかく、父であるロワンフレメ公爵は、これまで皇帝を支える筆頭貴族として皇室に尽くしてきた身だ。そんな忠臣を式典の場に入れないなど何事かとアルマニアは憤慨し、皇太子の元へと出向いて直接抗議をした。だが、結果的にはそれが事態を更に悪化させることとなった。

 多大なる温情を受けてこの国にいることを許され、皇妃の座も約束されたというのに、その傲慢さ故に全く反省の色なしと判断されたアルマニアは、その日から二ヶ月の謹慎を言い渡され、公爵家の外に出ることすらできなくなった。それどころか、父親であるロワンフレメ公爵にも重大な責があるとして、皇帝は彼から筆頭公爵の地位を剥奪してしまったのだ。そしてこの一件がとどめとなり、アルマニアは皇族から、貴族から、国民から、そして生家である公爵家からすらも疎まれるようになった。だが、それでも彼女が皇妃として皇帝に嫁ぐことは決まっている。他でもない小夜が、それを望んでいるからだ。

 ここ数か月の間に起こったことを全て思い出したアルマニアは、ヘレナから投げるようにして渡されたドレスをぼんやりと眺めた。

 あれだけ次期皇后になるからと気張って生きてきたのに、結局その皇后の座は、アルマニアが皇后としての素質なしと言い切った小夜に奪われ、アルマニアはと言えば、小夜がいなければ浮民にされてしまうような立場にまで落ちてしまった。

(……なんて滑稽なのかしら)

 胸の内で呟きながら、アルマニアは着替えるために、のろのろとベッドを出た。

 今日は、アルマニアの謹慎がようやく解かれる日だ。そして明日、アルマニアは皇帝と婚姻を結ぶ。と言っても、小夜のときとはまるで違う、式典もなければささやかな婚礼の儀すらない、書類に署名をするだけの事務的な婚姻だ。だが、小夜はそれでも婚姻には変わりないと言って、婚姻の前日である今日、アルマニアを皇宮にある自身の部屋に招いて、前祝いをしたいと言ってきた。

 有難いその申し出は、当事者であるアルマニアに話を通すことなく勝手に承諾されており、アルマニアがそのことを知ったのは、つい三日前のことだった。

 ドレスを抱えたアルマニアがベッドから出ると、面倒くさそうな舌打ちを洩らしたヘレナが、それでも他の使用人たちを呼んで支度を始める。

 ここのところ、使用人からはろくな世話を受けておらず、着替えや入浴はそのほとんどを一人で行っていたのだが、さすがに今日の身支度ばかりは、使用人によってきちんと施されるらしい。無論、アルマニアのためではない。みっともない格好で皇后や皇帝の前に出せば、家門を傷つけることになるからだ。

 顔を洗われたあとで、先ほどぶたれて赤くなった頬に冷たいタオルを当てられ、それと同時にドレスと髪のセットが行われる。久々に感じる他人の手に、アルマニアは少しだけ落ち着かないような気持ちになった。それから、脳裏にちらつく長い髪の彼の影を振り払うように、声に出さずに呟く。

(…………全部、夢だったのね……)

 ヴィレクセストと名乗った、人の想像を遥かに超えた生き物。アルマニアのことを愛していると微笑み、王になれと鼓舞し、そして、正しいと言ってくれた、アルマニアの臣下。全てを失ったアルマニアに残された、たったひとつ。

 過ごした時間は短いのに、彼はいつの間にか、とっくにアルマニアの大切なものになっていた、

 けれど、全て夢の中での話だったのだ。アルマニアは間違っていて、味方はいなくて、王を目指す資格などない。あれは、脆弱な心が慰みに求めた、あまりに滑稽な妄想だったのだ。

 そう知った瞬間、アルマニアの眼から堪えきれなかったものが滲んで零れ、頬を伝って落ちた。

 ぱたりぱたりと落ちるそれは、止めようと思ってももう止まらない。折角の化粧が崩れると使用人たちが怒る声が聞こえたが、それに構う余裕などなく、アルマニアは無様で醜悪なそれを流し続けた。

 結局、涙が止まったのはそれから少し経ったあとで、使用人たちからの罵声を浴びながらの支度が終わったのは、それよりももっと後のことだった。

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