プロローグ 3

 聖獣。遥か昔よりこの国に伝わる、奇跡を呼び起こす強大な力を持つ獣。金の毛並みに覆われた身体は逞しい獅子のようで、その額には虹色に輝く角を持ち、想像を超える速さで空と大地を自在に駆け巡る存在。

 高潔で聖なる魂を持つ者が現れたときにだけ姿を見せるというその獣を、小夜が目覚めさせた。

 あの日、軍による包囲が崩れ始め、魔物がとうとう街の外へと溢れ出そうとしたあのとき、突如として雲を割って現れた黄金の獣が大きく咆哮すると、天上から光が降り注ぎ、それを浴びた魔物たちは見る見るうちに人の姿へと戻っていったという。同時にその光は、怪我を負った兵士たちの傷までをも瞬く間に癒したそうだ。

 そしてその奇跡をもたらした獣は、王都にいた小夜の元まで駆けてきて、アルマニアと皇太子の目の前で、彼女に向かって頭を垂れた。

 そのときの光景を思い出し、アルマニアは胸に苦いものが込み上げてくるのを感じた。

 聖獣は、主と定めた者以外には決して懐かない。たとえそれが皇帝であっても、頭を垂れるような真似はしない。その聖獣が、小夜に頭を下げて差し出し、まるで撫でることを要求するように甘えたのだ。

 小夜が聖獣に選ばれたことは、火を見るよりも明らかだった。

 そしてそれを境に、アルマニアの立場は一変した。それまでは、神に愛されし聖女たる小夜こそが皇后に相応しいと主張する小夜派と、聖女とはいえ政の知識がないものを皇后にするわけにはいかないというアルマニア派の二つの派閥の力が拮抗していたのだが、この聖獣の一件を機に、アルマニア派だった貴族たちのほとんどが小夜派に回ったのだ。それどころか、アルマニアが件の街を切り捨てろと言った話が民たちの間にまで流れたせいで、彼女は国民たちから最低最悪の悪女として疎まれ、逆に小夜の方は多くの国民から支持されることとなった。

(……民は良い。政を知ることを義務付けられている訳でもない彼らに、国を担う者としての正しさを理解せよと言うことはできないし、絶対に理解しなければならないとも思わない。……けれど、国のために働くべき王家とそれを支える貴族はそうではないわ。常にその場その場での最良を迅速に判断できなければ、いつか国は滅ぶ。国が滅ぶということは、多かれ少なかれ取り返しのつかない損害を被る民が現れるということ。上に立つ者の行いによってそれが引き起こされるなど、あってはならないことよ)

 拳を握りしめたアルマニアが、一層背筋を伸ばして皇太子を見る。

「殿下、どうか目をお覚ましください。サヨの考え方こそ間違っていると、どうしてお気づきにならないのですか」

「この期に及んでまだそんなことを言うとは、よほど皇后の座に執着していると見える。躍起になるのは結構だが、それで己の過ちを認めないとは、一時は才女と讃えられもした女が、落ちるところまで落ちたものだな」

 明確な侮蔑の目を向けてきた皇太子に、しかしアルマニアは怯むことなく言葉を続ける。

「すべてを救える確証があったのであれば、それは紛れもなく正しい選択でしょう。けれど、あのときはそうではなかった。呪いが解けるという確証はなく、仮に解けるとしても、解くまでにどれだけの時間が掛かるかも判らない状況でした。事実、聖獣が現れる直前の兵士たちは傷つき疲れ、あのままであったならば多くの兵を失うと同時に、他の街や人々にまで被害が及んでいたでしょう。その末に魔物化を解除できたところで、きっと失ったものの方が多かった。それどころか、最悪の結末として、結局魔物化した人々を救う手立ては見つからず、彼らを殺さなければならなくなる可能性もありました」

「はっ、可能性可能性と馬鹿のひとつ覚えのように。今更過去がこうであったならば、などという仮定の話を出して何になる。確かにあのときの我が国には全てを救う力はなかったかもしれないが、それでも諦めずにすべてを救おうとした結果、聖獣の出現によりそれを成せたのではないか。逆に、あそこでお前の意見を取り入れ街を滅ぼしていたならば、確実に街ひとつ分の犠牲が生まれ、そして聖獣が現れたかどうかも定かではない」

 そんなことも判らないのかと言いたげな皇太子に対し、すぐ傍にいる小夜も皇太子を肯定するようにこくりと頷いてアルマニアを見つめた。

 責めるように己を見る二対の瞳に、アルマニアが握る拳に力を籠める。ふつふつと湧き上がるこれは、己を侮辱する行為に対する怒りではない。こんな簡単なことも判らないのかという失望からくる怒りだった。

「殿下、全てを賭けて全てを救おうとするのは、英雄を志す者がすることです。ですが、皇家は英雄であってはならない。英雄とは、勝つ確証のない賭けに他者の命までをも含む全てを賭け、その上で勝つことができた者だけが得る称号なのですから」

 際限なく溢れてくる怒りを押し殺し、ただただ平坦な声でそう言ったアルマニアに対し、皇太子が眉を寄せる。

「また意味の判らないことを」

「いいえ、この上なく単純で基礎的な話です。勝てる確証のない賭けに出て、勝てば英雄、負ければ大罪人、などという事態になって良いのは、個人だけなのです。国を率いる者は、間違っても民を巻き込んだ賭けになど出てはならない。うまくいけば全てを救えるが失敗すれば小さくはない被害を被るような状況下ならば、どんなことが起ころうとも最も被害が小さく済むと想定される選択をすべきなのです」

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