はみがき
@bluesguitar
第1話
「ハミガキ」前編 夏樹杏磁作
「かめちゃんお疲れ様」
響子は商社勤務のOLで、もう十年目のベテラン・グループに数えられる。
新入社員のころから計算すると部長は4回変り、社長は2回変り、事務机は1回変り、逆に変らないのは響子の職種と私物のマグカップ、それに事務所の空気の悪さだけだった。
帰り道、途中駅の親友と別れ、そのまま電車に揺られつづけて三十分、自宅駅に近づくにつれ車内は徐々に閑散となる。住宅街はもうすぐ眠りにつこうという時間だった。
部屋には遅い帰宅に夕食を作って待っている人もいないので、だらだらと歩きながら途中のスーパーで食品を買いそろえて帰ることにした。
駅前のスーパーは夜十一時まで営業時間を延長していた。
残業帰りのこんな時間まで買い物ができることは一人暮らしにはとてもありがたい。ついでに明日のお弁当のおかずや甘いものなども買って帰ることにした。
響子は度重なる残業のおかげで、週末はほとんど元気に外出する事もなくなった。何年か前まではストレス発散は洋服やバッグなどの買い物だったが、この不景気に当然のごとく沈滞気味になった。世の中の買い控えをそのまま体感していた。
「ふーん、スーパーも遅くまでがんばってるんだ」
そう思いながら何気なく髪を掻き揚げた時に、頭の右側にできたこぶを触ってしまい、その痛さで今朝の一件を思い出した。
「そうそうハミガキ買わなくちゃ」
響子は、今朝出勤前にテーブルに頭をぶつけ、その痛みがまだジンジンと残っている。
ハミガキが切れていたので、あわてて食塩をとりに台所に行き、タンスのへりにつま先を当ててしまい、そのままテーブルに激突したのだった。勢いで家から駅まで走ったが、痛さを感じたのは電車に飛び乗り、一駅過ぎてからだった。
「いてっ」
響子は、頭をやさしくなでてくれる人がほしかった。一人暮らしは気軽だが、そろそろ根を生やしてみたい気もした。
すこし遅い結婚。でも小さな子供を大事に育てたいと夢見、結婚式にこだわらないが、新婚旅行だけはスイスに行きたい。そんなどこにでもいる女性のひとりだった。
閉店間近のスーパーで、響子はハミガキを買った。
健康は歯茎からという広告に誘われたわけではないが、少し前からの体調の悪さもあってか、まずは歯茎を引き締めようと、食塩の入ったハミガキを買ってみた。しかしそれはあまり見たことがないパッケージだった。
レジの女性はパートだろうか。自分と同じくらいの年齢と響子は見積もった。とても愛想が良く、買い物カゴから商品を袋詰までしてくれて、響子はすこし気持ちが穏やかになった。
「今日も一日がんばったんだから、これくらいいいよね」そういって袋の中のチーズケーキにほほえんだ。
体内の水分が全部集まったかのようにむくんだふくらはぎをゆっくり持ち上げながらトボトボとアパートの階段をのぼり、一人暮らしの部屋へ帰還した。
そしてとりあえず点けっぱなしにしていた蛍光灯を一段明るくし、窓を開けて空気を入れ替え、買いこんだ食品を冷蔵庫に全部しまい、洗面台にハミガキの封を切り、狭いフォルダに差し込んだ。そしてシャワーを浴びようと風呂場へむかった。
しかし気が変り、テーブルの上にチーズケーキだけを出し、とりあえずうがいついでに口の中を汚れを落とすことにした。
それは、左手にハミガキのチューブを持ち、右手で歯ブラシの先端部分にほんの少しなすりつけたとたん聞こえてきた。
「あーあ、やっちゃったね」
「えっ、何?」
「やめときゃいいのに、おれしょっぱいんだよ、デザート食うんだったらハミガキはやめといたほうがいいのに」
「だれ?、ここに誰がいるの?」
あたりをきょろきょろするが誰もいない。テレビのスイッチは入れてないし、もしかして誰かがこの部屋に隠れているのかも?。
用心のため玄関のドアを空け、わざと大きな音を立てながら全部の部屋と押入れとベランダを空けてみた。
しかし声の主は現れない。誰もいないことがわかると、ドアをしめてロックした。
「だれもいやしないさ、あんたと俺、塩ハミガキだよ!空き巣じゃああるまいしそんなもんいるわけないだろ」
響子は右手にハミガキを持ち直し、しげしげとその先端部分のキャップを見た。どうやら少しずつ握り込み、ほんのちょっとチューブの先端部分からハミガキの顔を出せば会話のような声が聞こえている。
「デザート食うんならハミガキはあと!。まったく味のわからん女はこまるねえ」
響子は本当に気絶しそうになった。
やっとの思いで正気を取り戻すと、ハミガキをしげしげと眺めた。今朝頭を打ったせいかとも疑ってみた。最近の疲労度から考えても幻聴が聞こえても無理はないかもしれない。しかし今のはハッキリ聞こえた。
恐る恐る右手でそおっとキャップを外そうとすると、また声がした。
「おう、挨拶が遅れて悪かったな、おれは塩ハミガキだあ・・・」
再びキャップを閉じた。そしてさっきよりさらにゆっくりキャップを外した。じっとハミガキの先端を見つめるので、顔が近づくほどに寄り目になる。
「なんだよ、おまえは認識力がねえな。俺が挨拶までしてい・・・」
またキャップを閉じた。
それから三十分間にわたり、これは何か考えてみた。
友人に相談したら不審がられるに決まっている。”晩婚間近のOL、孤独に耐えられず発狂”などとタイトルつけられてメール配信されかねない。しかし不条理な現実に本当に気が変になってしまったか、うっかり不思議な世界へ入り込んでしまったかが判別つかなかった。誰に相談しよう・・・。そして思い切ってまたハミガキのキャップをあけてみた。
「おまえチーズケーキ溶けちゃうぞ。はやく食べないといっちばーんウマイところ逃しちゃうぞ。あ~あもう手遅れ」
かなり口の立つハミガキだ。
「ちょっとぉあんた、私が買ったハミガキなんだからそこから出て行ってよ。警察呼ぶわよ」
警察を呼んだところでどうにもならなさそうだったが、少なくとも脅しは効くだろうと響子は考えた。しかし意外な答えが返ってきた。
「出て行ってとか言われてもねえ、俺自身がハミガキなんだってば」
なんだってばっていったいなんなのよ・・・・・・。
「とにかく私は歯を磨きたいの、邪魔しないでよ」
そういって歯ブラシの先に勢い良くハミガキを練りつけた。おそらくいつもの倍くらいの量だっただろう。
「そんな邪魔なんてするつもりはないさ。ただ教えとこうと思ってね」
「なにをさ」
「いろんなことさ」
「うるさいだまれ」
「おー、こりゃ挑戦的だね、じゃあいいこと教えちゃおうか。君のその髪型は変だ」
「あんたなんかに髪型なんか見えるわけないじぁないの、それにあんたにとやかく言われる筋合いじゃないわよ」
これはいつか事務所の課長に言ってやりたい言葉だった。
言い放った後で、なぜか気持ちがスッキリした。
「何にも見えないで言えるわけ無いだろ、ちゃんと見えてるさ。じゃあ証拠見せようか?あんたのその変な模様のスリッパ、それそれ、それも変だよ」
下を見れば、今の彼にもらったアジアンチックな虎模様のスリッパ、そんなスリッパにケチつけられた。しかもハミガキに。
私は疲れすぎてるんだ。私はハミガキなんかと会話はしないし、ハミガキはしゃべれない。太陽は東から昇り、今は夜の十一時三十分で、テレビでは夜のニュースを流しているし、今日は海外から某国大統領がやってきて宮中晩餐会が開かれて、うんと景気が悪かったときより何ポイントか景気は上向いているし、明日は関東地方に雨雲が近づいているし・・・。ハミガキがしゃべれるわけはないのよ。
「じゃあおやすみ」
「はい、おやすみ・・・って、いったいなんなのよお」
翌朝。
「おい」
あー、またはじまった。朝からいったい何の用だ。響子は、洗面台上の鏡の自分を見つめ、いらだちながらハミガキチューブを握った。こんな不条理な事が起こるのは私に原因があるのかしら。だったらなおさら腹が立つ。
「おまえのこと思っていってやってるんだぜ」
「おまえって、誰に向かっていってるのよ。だいたいハミガキが生意気よ」
思っていってやってるなんて大きなお世話だわ。響子は歯ブラシを口にいれたまま唸った。
「いいかよく聞けよ、あの男はやめときな。いまごろ何やってるかわかったもんじゃないよ」
いちいちカチンとくることを聞かされる。
「あんたなんかに何がわかるのよ、とっととチューブのなかにすっこんでなさい」
口のものを入れて唸ると、ブラッシングの音で声にスゴミがでる。ぱちんと音をたててチューブはしまった。
そんなことはわかっているわよ。でもやっと私にも彼氏ができたのよ。やっとできた彼氏なのにあいつったらケチつけるだけつけておいて、だいたい無責任だわ。”ヤメロ”だなんて、わたしの幸せにケチつける気なんだわ。それに・・・彼氏ができたんだもの、彼のことならちょっとのことは目をつぶるわよ。
そう呟くとパンプスを乱暴に履き、カバンを右手でもった。
右足のふくらはぎの違和感で、ストッキングがデンセンしているのがわかったが、今日は機嫌が悪いのでそのまま会社へむかった。
会社では案の定、同僚に目の周りのクマを指摘された。こうるさい課長にも昨夜遊んでいたように思われただろう。
眠れない理由など誰にもいえなかったが、普段悩みを打ち明けられる友人には何とかしてこの妙な出来事を話しておきたかった。しかし、昼食の時に先手を打たれてしまった。
「彼氏と結婚して、子供が欲しい。もう歳も歳だし」
「かめちゃん実はね・・・」
「えっ、結婚するの?」
「そうじゃなくて・・・」
「ねっねっ、いつ?」
だめだ、言えない。
その日は早く帰宅できたのだが、なかなか洗面台に近寄ることができなかった。
響子はハミガキを認めたくなかったからだ。いっそのことあのキモチワルいハミガキをとっとと捨ててしまいたかった。でも買ったばかりだし、結構高かったからなあ。 しかし言うべきことは言わないと。
響子は先手を打った。
「ねえ、ちょっと」
「あい、なんですか」
こっちがこんなにへとへとに疲れているのに、こいつは眠そうに返事しやがって。
「あんたのことで迷惑してるんだけど、私の平穏な生活をどうしてくれるのさ」
「ウルサイ」
「うるさいだと?、あん?、おまえは何様なのさ」
響子がキレた。今日一日の不幸さ加減を一気にまくし立てた。
中にはハミガキに関係の無いことまで混じっていたが、この際何でもかまわずにぶつけた。
「どう?、すっきりした?」
ひとしきり黙って聞いていたハミガキが、まるで無関係を装うかのように尋ねた。
「うん」。なんだか怒って爆発したら、肩こりがすっきりしたみたいだった。
「おまえ素直になれよ」
再び腹が立ったが、もう怒鳴る気力も無い。
「余計なおせわよ。あんたなんかゴミ箱に捨ててやるわよ」
とまでは言ったが、再びフォルダに戻してしまった。
「どうしたらいいのさ」といいつつ、ハミガキにはいつも本音を語ってしまう自分に気がついた。
「ハーイおねえちゃん、寝る前にはハミガキだよぅ」
「ひねりつぶすぞ」
振り向きざまに響子はこぶしをあげた。
「おーこわ」
ハミガキはひっこんだ。
翌日の朝は天気が良く、青くすがすがしい空が、洗面台の鏡にも反射して見えた。
「おはよう、寝られたかい?」
響子は珍しく調子の良い朝を迎えていた。
「うん、昨日よりね、おはよう」
私、会社以外の人に朝の挨拶をしている。これって家の人なの?いやハミガキだわ。でも家族みたいに思えるのはなぜだろう。
そしてまた一日の終わりはやっぱりハミガキにグチをこぼしてしまう。
ハミガキの声を聞いているとなぜか安心してしまう。家に帰ってきた気がする。
ある日の夕方、彼に会った。
いつものイタリアンレストランではなく、駅から離れた公園の噴水の前で待ち合わせしたのは、彼が響子に自分が仕事の都合でニューヨークに赴任することを告げにきたのだけではなかったからだった。
「響子さん、実はお別れを言いにきたんだ。だまっててごめん、君をニューヨークに連れて行けないって言ったのは、本当は君と一緒になれないから・・・」
彼は響子との付き合った3ヵ月間を清算したかったのだった。
そして彼は響子の部屋の合鍵を返した。
「ほかにかわいい子がいたのね」
そんなことを別れる理由にして欲しくなかった。しかし彼は微笑みながらうなずいた。
それきり言葉も交わさずに別々の駅にむかい、そして響子はしばらくホームのベンチに座り、うつむいたままでいた。
怒りはなかった。ただ火が消えてしまったようだった。響子はその日の晩、何も口にできなかったが、ハミガキの習慣だけはまもった。
「元気出せよ。おまえは悪くないってば」
いつになく優しい声で語りかけるハミガキに何も返す言葉がなく、洗面台の泣き崩れた鏡の顔を見つめるだけしかできなかった。
「疲れたろ、ゆっくり休みな」
その言葉に少し元気を取り戻したような気がした。
鏡にほほえみ返して、その日は電話の電源を抜き、深い眠りに落ちた。
やはりハミガキの言うとおりだった。響子は自分で男性を見る眼が無いことを知っている。自分だけを愛してくれる人を探すことは奇跡に近いことを知っている。響子は普通にしていれば異性にモテる。年上であれ年下であれ響子の姿を見ると男性は声をかけたがる。しかし一生のパートナーとしては、なかなか認めてもらえない。それは響子が知らないうちに相手に対して自分の理想と思える付き合い方のパターンに押し込んでいるのだ。響子はそれに気付いていたが、なかなか無欲にはなれなかった。
翌朝、響子はいろいろなものを両肩から捨てた分だけ身軽になった気がした。
「響子」
「ん?」
「響子。おまえは女らしくてかわいいよ」
「急になによ」
「いや、お世辞の一言でも言っとこうと思ってな」
「私、あなたに謝らなくちゃ」
「おまえ、俺には素直だな」
「そうね、あなたにウソ言ってもしょうがないし、歯を磨きながらいやなこと全部しゃべっちゃうとすっきりするわ」
「俺はそんなおまえが好きだ」
響子の右手の歯ブラシが止まり、こみ上げる気持ちの昂ぶりに鼻がすこし詰まった。両目に水分が溢れてきた。
「もう、なんてこと言うのよ」。
そう鼻声で言うのが精一杯だった。
「バッカだなあ、そんなわけないじゃん」
「くそー、あったまきた!ハミガキの分際で」
そういうと響子の気持ちはいくらか楽になった。彼と別れたあと、初めて笑うことができた。
ハミガキとの奇妙な暮らしは、時に憂い、はしゃぎ、指南されて、生活に潤いができた。もちろんそんなことを他の誰かに話はしない。響子とハミガキだけの秘密だった。職場では響子が最近輝いて見えることから、恋愛中ではないかと噂がたった。たしかに響子は顔色もみずみずしさを取り戻し、五歳ほど若返った気がした。
そんなある日、響子はいつものように会社から帰ると、真っ先に洗面台に向かった。
そしていつものように元気な悪態が聞こえて来た。
「おう、たいした仕事もしないでよく帰ってこれたな」
「うるさいなあ、今日は暇だったの。あんたこそチューブの中で何にもしないくせに」
「おれはねえ、こう見えてもけっこう忙しいんだよ。あんなことやこんなことなどいろいろと・・・」
そして響子は今日一日の話を三十分ほどかけて話し出した。合間にハミガキはうなずき、共感し、そのうちのいくつかをたしなめたりもした。
そしておやすみを言うとほっとして横になった。夢の中ではいつもステキな男性が現れた。顔ははっきりわからないが、それでも満足だった。しかし不思議なことに、その声はあのハミガキだった。よく聞いてみるとハミガキの声は太くてたくましく、品はないけれど頼りがいのある声であることに気付いた。
しかしある日、キャップをあけたハミガキから元気のない呟くような声が聞こえた。
「俺はもう響子の話を聞くことができない」
そのあまりの切ない言葉に、響子はすべてを悟った。
「俺はもう行かなくちゃ」
「行くってどこへよ、私を置いていかないでよ」
相手がハミガキだということは良くわかっている。やがて無くなる相手なのは知っているつもりだった。
「だって、まだあるじゃない。残っているじゃない」
「こう見えておれはけっこう痩せているんだぜ」
響子はこみ上げる涙を防ぐことができなかった。
しっかり胸にハミガキを抱いたまま、洗面台に泣き崩れた。
「おまえにあえてよかったよ。俺は幸せだった。さようなら。元気にやれよ・・・」
ハミガキは去っていった。響子の口の中に残ったミントの香りに胸が苦しくなった。そして排水口から彼はいなくなっていた。
「私だって・・・だいすきよ・・・」
響子はうす甘い口付けの余韻をいつまでも味わっていた。
「ハミガキ」 おわり
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