狙われた店主 4
既にデイガーの頭の中に、あの不審な男のことはなかった。あれはあれで注意を払うべきなのだろうが、今はそんな些末事よりも目の前にある至上の生き物が優先だ。どうやってこれを持ち帰るか。血液さえ使えれば良いのだから、いっそ手足を落としてしまった方が良いのかもしれない。ああ、それは名案だ。そうすればこれは逃げることなどできないだろうし、暴れることもないだろう。だが、落とす際はきちんと大きめの容器を用意しなければ。貴重な血液を無駄にするのは少々勿体ない。
そこまで考えたところで、デイガーはふと思う。もしかすると、あの男の目的のひとつはエインストラの確保だったのではないだろうか。このどこにでも居そうな少年がエインストラであることを何かで知って、我が物にしようとしていたのではないか。だとすれば、これは僥倖だ。ここでこのエインストラを手に入れるということは、敵大陸の強大な戦力をこちらに引き込むことに成功したということに他ならないのだから。
慈しむように少年の目元を撫でながら、デイガーはより一層笑みを深めた。
「取り敢えず、貴方の四肢は落としてしまいましょう。お前、大きめの桶を持ってこい。ああそれから、血を入れるための瓶も必要だな」
少年の背後の男にそう命じたデイガーに対し、『彼』は呆れ返ったような表情を浮かべた。
「アンタがオレをどういう生き物だと思ってんのかは知らねェが、そんな真似して死なねェとでも?」
嘲るような声で言われた言葉に、デイガーは驚いてまじまじと『彼』を見た。
「まさか、四肢の切断程度で死んでしまうのですか? いや、人間ならばショック死することもあるでしょうが、貴方はエインストラでしょう?」
「生憎この身体はそこまで頑丈じゃなくてな」
肩を竦めてみせた『彼』に、デイガーは納得したように頷いた。
「確かに、その身体は天ヶ谷鏡哉くんのものですものね。しかし、ということは、寄生先の生物に合わせて耐久度が変化するということでしょうか。ああ、それはなかなかに不便だ。よろしければ、代わりの器をご用意致しましょうか?」
「そうホイホイと器を変えられるか。オレの場合、この身体が器であるからこそ意味がある」
「なるほど。詳しいことは判りませんが、私が思っていた以上に複雑なものなのですね。……それでは、大変残念ですが、四肢を落とすのはやめにしましょう」
本当に残念そうな顔でそう言ったデイガーは、しかしその直後、にっこりと人の好さそうな微笑みを浮かべた。
「でも、脚の二本くらいであれば大丈夫ですよね?」
そう言ったデイガーの手には、いつどうやって取り出したのか、大きな斧が握られていた。
この少年は何かを企んでいる。企みの内容は定かでないが、やたらと話を引き延ばそうとしているのはそのためだろう。ならば『彼』の言葉に惑わされず、さっさと逃げられない身体にしてしまうべきだ。
己の考えに従い、デイガーが斧を振り上げる。これでは血液が無駄になってしまうが、それも仕方がないこと。桶やら瓶やらの到着を待つよりも早く仕留めてしまえと、デイガーの直感がそう告げているのだから。なに、飛び散った血液など、後で可能な限り集めれば良いだけだ。
「大丈夫、きちんと止血は致します。ですのでご安心くださいね!」
言いながら、鎖に繋がれている右脚に向かってデイガーが斧を振り下ろす。襲い掛かる凶刃に、『彼』は何を思ったのだろうか。少年の纏う雰囲気が急速に変化する奇妙な感覚を肌で感じ取ったような気がしたが、だからと言って迷うデイガーではない。
重力と腕力に任せた勢いをそのままに、狙った場所に正しく打ち下ろされた刃が、少年の肌を切り裂こうとした、その瞬間。
ガラスの割れるような音が辺りに響き、少年の背後の空間に亀裂が走った。
「っ!?」
反射的に斧から手を離したデイガーが後方へと飛び退るのとほぼ同時に、亀裂から凄まじい勢いの炎が噴き上がり、つい先程までデイガーが居た場所を飲み込んだ。そのまま、少年を中心にするように、炎が巨大な渦を作り上げる。置いてきた斧がどうなったかと見やれば、持ち手はおろか、鉄製の刃までもが炎に焼かれ、どろりと溶け出しているのが判った。
(馬鹿な! 私の空間魔導が破られただと……!?)
空間操作魔導によって生み出された空間を術者以外が破壊することなど、そうそうできることではない。だが、可能性として有り得ることは知っていた。最も考えやすいのは、自分よりも上位の空間系の魔導か魔法の使い手による破壊。しかし、この場を焼く炎は、もう一つの可能性を示していた。すなわち、
(空間をも捻じ曲げる圧倒的な破壊力で突破してきたか!)
想定外の事態に構えるデイガーに、燃え盛る炎を切って風の刃が飛んできた。だが、デイガーが何かをする前に、彼の影から黒い何かが跳び出し、その風を払ってしまう。しかし、払われて散った風はそれでもそのまま突き進み、デイガーの握っていた眼帯に絡みついた。そして、咄嗟のことに反応しきれなかったデイガーの手から、眼帯を奪い去ってしまう。
思わず風の行く先を目で追えば、それは目の前に広がる炎の渦へと向かっていった。まるでそれを迎え入れるように、炎がぶわりと広がって二つに割れる。
その先の光景に、デイガーは目を見開いた。
少年を左腕に抱いた、長身の男。長い年月をかけて鍛え抜かれたのだろう立派な体躯のこの男を、デイガーは知っていた。
「……なぜ、」
男の伸ばした右手に眼帯が運ばれていくのを呆然と見ていたデイガーだったが、その顔がみるみる内に憎しみへと染まっていく。
「き、さま、」
男が纏っているのは傭兵の服だ。それ以外にその身を鎧うものはない。それでも、間違えるはずがなかった。
腰にまで届く赤銅の癖毛。炎を溶かし込んだような金色の瞳。何よりも、炎を背負い、従える、絶対的な威厳。
そうだ、忘れなどしない。忘れられる訳がない。この男こそ、五年前の大陸間戦争でロイツェンシュテッド帝国に辛酸を舐めさせた男。万の軍を率い、その先陣に立って誰よりも同胞を屠った災厄。憎むべき、帝国軍の仇敵。
ぎりりと奥歯を強く噛んだデイガーは、その憎悪の全てを以て男を睨み上げた。
「貴様だったのか!! グランデル国王、ロステアール・クレウ・グランダ!!」
吠え立てる声に、リアンジュナイル始まりの四大国がひとつ、赤のグランデル王国国王は、金色の瞳を向け、うっすらと笑ったのだった。
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