煌炎 10
男が言った通り、夜中だというのに未だに外はざわめきを見せていた。時折衛兵が忙しそうに走っているのが視界に入ってくるあたり、まだまだ事態の収束には時間がかかるのだろうか。
そんな特に必要のない思考をすることで、隣を歩く男の存在をできる限りシャットアウトしようとした少年だったが、しかし男は嫌がらせのように語りかけてくる。
「そういえば、店主殿の名は確か、キョウヤと言ったな?」
「はい」
「それでは、これからはキョウヤと呼んでも良いだろうか?」
「そうですか。構いませんが」
急に名前を呼びたいとは。何を考えているのだろうか。
「そうか、ありがとう」
「いえ」
嬉しそうに言われた礼に、ますます困惑してしまう。これは絶対におかしい。この男が現れてから一週間以上経つが、その間ずっと店主殿とかいう呼び方しかしていなかったし、それ以外の呼び方をしようという素振りすらなかったというのに。
「ところで、名の響きからすると、キョウヤはもしかしてこの大陸の生まれではないのでは?」
「……よく、お判りですね」
「やはりそうか。余り耳に馴染みのない音だと思ったのだ。私には少し発音も難しいしな。どこの生まれなのだ?」
「東の方の国です」
声が固くならない注意する。過去や生まれを詮索されるのは不快だ。少年にとってそれらは思い出したくないものであり、他人に晒したいものでもない。だが、男はなおも話を続けてきた。
「東の方か。……確か、リアンジュナイル大陸から遥か遠くに小さな島国があったな。そこだろうか?」
「ふふ、どうでしょうか」
男の言葉に少年は小さく笑ってみせたが、内心ではぞっとした薄ら寒さを覚えていた。というのも、男が挙げた小国は、事実少年の生まれ国だったのだ。だが、本当にこの大陸からは遠く離れた国だ。あまりにも小さくて、リアンジュナイルでは知っている人間の方が少ないだろう。だというのに、男はそれを言い当ててきた。
「そう怯えないでくれ。かつて趣味で大陸外を旅していた時期があってな。そのときにその国にも訪れたことがある。それだけだ」
「別に怯えてなんかいませんよ」
「そうか? それならば良いのだが、……あまり忌避されると、流石の私も悲しくなってしまう」
困ったような笑みを浮かべた男に、少年も合わせて少しだけ困った笑顔を作っておいた。
「そのようなつもりはないのですが、すみません」
「ああいや、お前に謝罪をさせたい訳ではないのだ。すまない」
「いいえ、こちらこそすみません。僕は気にしていないので、貴方もどうぞお気になさらず」
「そうか。いやしかし、お前が私を忌避するのも無理はない。お前の目には私の姿が曖昧に映っているのだろう? 生き物は正体の判らぬものを恐れるようにできている。つまり、今の私はお前にとって恐れるべき対象だということだ」
「……はぁ」
確かにそれもあるだろうが、それはあまり大きな問題ではない気がするのだが。どちらかというと、目の前の男の在り方自体が不鮮明なのが原因なのではないか。
「だが私にもやむにやまれぬ事情があってな。今は目くらましの魔法をかけて詳細な容姿を認識できないようにしてあるのだ。いや、勿論その時が来たならば必ず本来の姿を見せよう。だから、今暫し待っては貰えないだろうか?」
「……そうですか」
にこり。
大丈夫。いつも通り微笑めた。が、
(なんなんだこの人……)
待てと言われても。別にこの人の容姿なんて欠片も興味はないし。なんでそれを心底申し訳なさそうな声音で言ってくるのだ。気持ち悪い。
まるで自分が相手の本当の姿とやらを見ることを渇望しているような扱いだったが、これ以上深く考えると余計に頭が痛くなることは明らかだったので、忘れることにした。
いやしかし、目くらましの魔法とやらをかけているということは、何か人に見られては困る姿をしているのだろうか。実は人間ではないとか、実はお尋ね者であるとか。もしかすると精神に異常をきたして収容されていたところを逃げ出した患者なのかもしれない。一番有り得る気がする。そしてそれが一番危ないパターンな気がする。精神異常者なのに目くらましをかけて逃げる知能は残っているなど。
微笑みの裏でそんなことを考えていた少年に、男が苦笑する。
「確かに目くらましは私の正体を隠すためにかけているが、やましいことがある訳でないぞ?」
「はい」
にこりと微笑んだものの、頭のおかしい人間の言うことなど信用できるはずがない。
「……精神に異常をきたしてはいないのだがなぁ」
小さな呟きが聞こえた気もしたが、聞かなかったことにした。代わりに、歩く速度を少しだけ上げる。
一刻も早くひとりになって、眼帯の状態を確認して、そしてゆっくり眠って嫌なことは忘れてしまおう。幸い家はもうすぐ近くだ。そんなに長くないはずの道のりなのに、この男のせいで酷く疲弊してしまった。
「おや、もうこんなところまで来てしまったのか。いや、楽しい時間はあっという間だなぁ」
「それは、良かったですね」
一体何が楽しいのだかまるで判らないが、取り敢えず話は合わせておく。
「おお、そうだ。ところでキョウヤは恋人はいるのか?」
「…………はい?」
ところで過ぎる話に、少年の思考は一瞬停止してしまった。
「恋人はいるのか?」
ご丁寧に繰り返してくれた言葉を耳に入れ、たっぷりと噛み砕き、男を見る。
「……あの、急に、どうされたんですか?」
「いや、恋人がいないのなら……うん? いや、いてもいなくても変わらんか。変わらんな。ふむ、では今のは忘れてくれ」
勝手に納得して頷いた男に、そうですか、とだけ返しておく。忘れて良いというなら忘れてしまおう。きれいさっぱりと。
「恋人の有無は本質的ではないな。それではキョウヤ」
「はい」
「私と付き合ってはくれないだろうか?」
今度こそ、少年は作り笑いを浮かべたまま固まってしまった。
声音は、真剣そのもののように聞こえる。言われた台詞は、多分恐らくきっと、少年が思った通りの意味なのだろう。
「…………どうやら、貴方も相当お疲れのようですね。もう家はすぐそこですので、見送りはここまでで結構です。ありがとうございました。貴方もゆっくり休んでください」
言うや否や、少年は男の次の発言を許さない勢いで、男に背を向け足早に歩き出した。後ろから名を呼ぶ声が聞こえた気もしたが、多分気のせいだ。気のせいに決まっている。
幸いなことに男がそれ以上後を追って来る様子はなく、こうして少年は、ようやく安息の時を得たのであった。
「ああ、行ってしまった」
至極残念そうに呟いた男は、小さく息を吐いてから右手をひらりと振った。
「風霊。あと少しの道のりだが、キョウヤを送ってやれ」
近場にいた精霊に命じれば、風が男の頬を掠めてすぐさま走っていく。それを見届けてから、男はのんびりと宿へ戻る道のりを歩き出した。その背を慰めるように滑った風に、男が笑う。
「ああ、怖がらせてしまったなぁ。だが無理もない。キョウヤには正しい私の姿が見えんのだ」
もう一度本当の姿さえ見せれば、彼が自分への恋心を自覚するのは判っている。判っているからこそ、一刻も早く見せてしまいたい。だが、男の置かれた状況がそれを許してはくれなかった。男はこの上なく優秀であるが故に、己の恋のために全てを台無しにするような真似はしなかった。
どうせ、時が来れば隠し通せなくなるのだ。ならばその時まで待てば良いだけのこと。なに、心配することはない。あの子は自分を心の底から愛していて、自分もまた、あの子を深く愛しているのだから。
「そうだ、風霊。少し調べて欲しいことがあるのだが、良いだろうか?」
あの両目が自分だけを映し、もう一度あの愛の言葉を囁いてくれるのを心待ちにしながら、男はとても幸福に満ちた心地で夜道を帰って行ったのだった。
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