煌炎 9
意識のない少年を抱いた男は夜市から避難した人々の群れに潜り込むべきか否か思案したが、己にかけられていた目くらましが完全に解けていることを思い出し、大人しく自分が泊まっている宿に帰ることにした。この混乱の最中に取るべき行動ではないとは思ったのだが、恐らくすぐさま設置されるだろう避難所まで誘導されてしまうと、男を知っている人物に遭遇する可能性が高い。折角ここまで正体を隠して進めてきたのだ。それだけは避けたかった。
しかし、かと言ってこの少年をどこか安全な道端に放置する訳にもいかない。いや、夜市を見て回っていたときの男ならば、迷わずにそうしただろう。だが、そのときと今とでは、話が違う。こんなにも大切な存在を、どうして捨て置くことができるだろうか。
擦り傷と煤塗れの小さな身体をひとまずベッドに寝かせてから、男は傍らに置いた椅子に座ってしげしげと少年を眺めた。
こうして寝ている姿だけを見ると、どこにでも居そうな普通の少年だ。だが、対話する中で、彼が人との関わりを極端に嫌う子だということを男は見抜いていたし、あの作り物のような笑みや露出のない服装から、恐らくはその過去に何かしらの原因があるだろうことも察しがついていた。
首にしっかりと巻き付けられているマフラーを緩めれば、まるで誰かに首を絞められたかのような痕があるのが窺える。痛々しいそれに優しく指を這わせれば、少年はびくりと震えて嫌がるように首を竦めた。
「……そうか。怖いか」
呟き、そっとマフラーを戻してから、今度はくるくるとした黒髪に指を差し込む。埃でごわつく髪を梳くように撫でてやれば、どことなく少年の表情が和らいだように見えた。
そんな微かな変化に、男の胸がぎゅうと締め付けられる。傷つき弱った小動物が身を任せてくれたときに似た、けれど決定的に違うこれが、愛おしいという感情なのだろう。切ないような甘いような何かがとろりとろりと零れ、男は酷く優しい目をして少年の寝顔を見つめた。
ああ、早く目を覚まさないだろうか。早くその瞳に私を映してくれないだろうか。左目だけでも良いが、できれば両の目でしかと見て欲しいし、その目を見つめ返したい。眼帯で隠しているということは、きっと右目は少年にとって忌むべきものなのだろうが、男にとってはあの異形の瞳すらも愛おしい。あの不思議な瞳は、大方ヒトではない何かの血が混じっているが故のものだろう。だが、それが何だというのか。真っ直ぐに男を見つめた瞳はまるで夜空に浮かぶ月のようで、美しくすらあった。
暫くの間少年の髪を梳いていた男だったが、その頬を風が擽ったのを合図に、名残惜しそうに手を離した。目くらましの魔法をかけ直すために術者が訪れたことを、風霊が教えてくれたのだ。本音を言えばこの少年には今の自分を見て貰いたいところだが、そうはいかない。
「すぐに戻る。ゆっくり眠ると良い」
そう言って少年の額にくちづけを落としてから、男は静かに部屋を出て行った。
ふ、と浮上した意識に、少年はどこかとろりとした表情でゆっくりと瞼を押し上げた。
夢を見ていた気がする。よく覚えていないけれど、なんだかとてもきれいなものを見たような。あれ以上にきれいなものなどこの世に存在しないのではないだろうかと思うほどにきれいな、炎のような、太陽のような。ああ、あれは何だったのだろうか。きれいで、温かくて、それから、優しかったような。
ぼんやりとした記憶をなぞっていた少年は、数度の瞬きの後、目に映っているのが見知らぬ天井であることに気づき、ばっと跳び起きた。慌てて周囲を見回せば、少しだけ驚いた表情をした男が目に入った。顔のぼやけた、記憶に残らない男。少年の店にいつも訪れて邪魔ばかりしていく、あの男だ。
ここは何処なのか。なぜ貴方がいるのか。
訊こうと思うことは沢山あったが、それよりも少年は反射的に右眼に手をやっていた。おぼろげな記憶が、人混みの中眼帯を落としたことを訴えてきたのだ。さっと青褪めた少年だったが、指先にごわごわした安物の布が触れたのを感じて、ほっと息をついた。だが、何故か違和感がある。確かめるように眼帯をぺたぺた触れば、どうやら眼帯の紐は千切れてしまっていて、別の紐で上から押さえるようにして頭に巻かれているようだった。一体何故こんなことに、という少年の疑問に答えたのは、穏やかな笑みを浮かべた男だった。
「紐が駄目になってしまっていたのでな。私の手持ちのもので適当に結んでしまったのだが、良かったか?」
「え……、ああ……、……ありがとう、ございます……」
取り敢えずといった風に礼を言って微笑んだが、内心はそれどころではない。他人が結び直した紐など信用できないし、そうでなくとも応急処置のようなものだ。一刻も早く自分の手で付け直したかった。
「ところでここは……?」
「うん? ああ、私が寝泊まりしている宿だ。本当は自宅まで連れて行ってやりたかったのだが、お前の家を勝手に開けるのも忍びなくてな。仕方なくここへ連れて来た。安宿故にベッドも固いだろう。すまないな」
「いえ、そんな。ありがとうございます」
いまいち事態が飲み込めないが、どうやら意識を失った自分をここまで運んでくれたようだ。
「身体の調子はどうだ? どこか痛むところは?」
「いいえ、特にはありません」
貼りつけた笑みを消さないまま、少年は首を横に振った。正直に言うと、人にぶつかったり転んだりしたときにちょっとした怪我くらいはしていたのだが、日常的な痛みに慣れていた彼にとっては、その程度ならば痛みとして認識するほどのものでもなかった。それよりも、眼帯が安定しない状態で他人と一緒にいることの方が嫌だった。とにかく早く帰って、ひとりになって、安心したいのだ。
だというのに、目の前の男は容赦なく会話を続ける。
「そうか、それは良かった。いや、さすがにあのときは私も肝が冷えたぞ。無事で何よりだ」
「それは、ご面倒をお掛けしました」
男の言っていることが全く判らなかった少年だが、男の言葉から察するにどうやら責められているようだ。そう判断した彼は、取り敢えず謝罪しておくことにした。こういう理不尽な怒りにも慣れている。こんなときは、逆らわずに大人しく謝って置いた方が、幾分かマシな展開になるものだ。
だが、目の前の男は少年の反応に少しだけ困ったような顔をした。
「いや、別に責めたい訳ではないのだ。酷く心配したというだけの話で」
「そうなんですね。ありがとうございます」
自然と紡がれた感謝の言葉は、やはり取り敢えず口にしたものだった。相変わらずこちらの本心を見透かしてくるような男だ。この男に対する苦手意識は、どうしたって拭えるものではなかった。
「別に感謝をして貰いたい訳でもないから、そう無理に礼を言わずとも良い」
やたらと優しい微笑みを浮かべた男が、手を伸ばしてくる。少年がその手を見つめて反射的に身構えたことに気づいたかどうかは判らないが、男は特に動きを止めることなく、少年の頭に触れてきた。そしてそのまま、柔らかく撫でられる。
(急に一体なんだっていうんだろう……)
これまで少年にそんなに興味を持っていなかったように見えた男の態度が急変したのだ。少年がそう思うのも当然である。
「ところで、夜市で何があったかは覚えているか?」
「え? ええと、……確か、いきなり魔物が襲ってきて、」
そうだ。そのせいで眼帯を落としてしまった。それを探そうと人波に逆らって、それから。
「…………」
眼帯を見つけたところまでは覚えている。だが、その後の記憶がどうにも曖昧だ。なんだか、とても綺麗なものを見たような気がしなくもないのだけれど。もしかするとこれは、夢の中で見た何かとごちゃごちゃになっているのかもしれない。
黙ってしまった少年の頭を、大きな掌がまた撫でてきた。
「覚えていないか。だが無理もない。少々大事だったからな」
「大事、ですか」
「私のような傭兵には慣れた事態だが、お前には刺激が強かったのだろう。といっても、魔物に襲われかけたお前を抱えて逃げたというだけの話だ。やたらと魔物が溢れ返っているのを見たときはどうしたものかと思ったが、それも今は国軍が対処してくれただろうから、安心して良い」
「……つまり、僕は、貴方に助けて貰った……?」
「助けたというほどのことでもないさ。私が焦って手を出しただけだ。……あのまま放っておいても、お前自身でどうにかできたようだったしな」
どこか呟くように付け足されたひとことに、少年は内心で首を傾げつつも、やはりにこりと笑んだまま礼の言葉を口にした。恐らくは命の恩人なのであろう相手に言うにはあまりにも心が籠っていない自覚はあったが、この男が好きではないのだから、許して欲しい。
「……ふむ。自覚はないか」
「なんのことでしょうか?」
「いいや、こちらの話だ」
少年の人工的な微笑みに、優しい微笑みが返される。そしてまた、気味が悪いくらい優しい手つきで頭を撫でられた。
「魔物の排斥自体は完了したようだが、未だ外は騒がしい上に夜中だ。今日はここに泊まっていくか?」
「いえ、これ以上ご迷惑をおかけする訳にはいかないので」
迷惑をかけるかけないはどうでも良いが、他人である男と一緒にいないで済む口実が欲しかった。
「そうか。それでは送って行こう」
「え、いや、大丈夫です。ひとりで帰れますから」
「私が送りたいのだ。駄目だろうか?」
「……はぁ」
本当に、どうしたというんだ。向けられる目が昨日までとはまるで違って優しいし、ごく自然というか、最早それが当然であるかのように頭を撫でてくるし、一体何が男を態度をこうまで変えさせたのだろう。
一瞬だけ考え込んでしまった少年だったが、すぐにそれを止める。取り敢えず、自分は早く帰れればそれで良いのだ。得体の知れない男にかまけるのはやめにして、さっさとひとりでいられる空間に戻ろう。
家まで送らせてくれという男の申し出は、断る方が面倒なので大人しく許すことにした。本音を言えば大変迷惑極まりないのだが、まあ仕方がない。
特に何を持っている訳でもないが取り敢えず帰宅の準備を、と自分が何を持っていたかを確認したところで、少年は思わず、あ、と声を漏らした。
「袋、落としちゃった……」
「袋? ああ、何か買ったのか?」
「……はい。まあ、でも、落としてしまったものは仕方ないです」
あの喧騒だ。万が一見つかったとしても、中身は無事ではないだろう。表向きは平気そうに笑ってみせた少年だったが、内心では酷く落ち込んでいた。足りないからと買い足した染料がパーになったことも痛いが、それよりもあの真珠色を失ってしまったことがとても悲しい。あんなに綺麗な染料は見たことがなかったのだ。これまで何度も参加している夜市でも出逢わなかったということは、次にあれを目にできるのはいつになるか判らない。まあでも、こういう不幸に見舞われるのはいつものことだ。慣れている。
「何を買ったのだ?」
「ああいえ、染料を少し。そもそもそれが目的でしたので」
にこりと微笑みを絶やさずに言えば、男はどこか考えるような素振りを見せた。
「あの、何か?」
「いや、何でもない。気にしないでくれ」
「はぁ」
相変わらず胡散臭い男だという感想を抱きつつ、ベッドから降りて靴を履く。身体中が埃と煤臭いが、この男はこんな状態の自分をベッドに寝かせたのか。後で宿の主人から怒られそうだな、などと他人事のように思ったが、事実他人事なのでどうこうすることもなかった。
「支度はできたか? それでは行こうか」
当然のように差し出された大きな手を凝視してから、少年は男の顔に視線をやってにっこりと微笑んだ。
「はい」
握れとばかりに出された手は見なかったことにして、無視した。
少年が手を握り返さなかったことに男はきょとんとした表情を浮かべたが、別段気にした様子はなく、少年の後を追って部屋を出た。
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