第34話 望んでいない話

 村の中心部から人の騒めきが聞こえてくる。どうやらザラさんが上手くやってくれているようだ。

 静かな村なので音は遠くまで響き、村人達は何事が起きたのだろうと家から顔を出して様子を窺っている。娯楽もない村では、事件こそが人々の興味の中心なのだ。

 例の家の周辺で草の影に隠れながら様子を窺っていた私は、家の前から人が移動したのを確認してすかさず家に接近した。

 その家は酷く古く、また手入れも殆どされていない。嵐の日には倒れてしまうのではと心配になるような見た目だった。

「……すみません、どなたかいらっしゃいますか」

「どうぞ。開いてるよ」

 帰って来たのは、かなり高齢の女性の声だ。若い声ではない。

 促されて扉を開けてみれば、痩せた老人が座っていた。彼女は今まで紅茶を飲んで寛いでいたようだ。

 訪問者に興味もないのか、視線はずっと手元のままで私を見ようともしない。家の中には他に誰もおらず、どうやら一人で住んでいるらしかった。

 予想していたドリアーヌ・ラブレーの娘では無いのを知り、失望してしまう。

 何かを隠していたと思ったのは、私の勘違いだったのかしら。

 そう思いつつも、私は今までどの村人にもしてきたようにあの質問を口にした。

「ドリアーヌ・ラブレーという女性をご存じありませんか?」

 その言葉を聞いた瞬間、彼女の様子が豹変した。目を大きく限界まで見開いて、血の気が一気に失せたようである。

 そして漸く私の顔を見て、化け物でも見たかのような顔をした。

 余りの様子に心配になり、一歩彼女に近づく。すると断末魔のような悲鳴を上げて、椅子から転がり落ちて私から逃げようとした。

「ひぃいいぃぃっ!!」

「ど……どうしたんですか?」

 戸惑いながらその場から動かないようにして聞いてみるも、壁に張り付いたまま私に怯えている。

 一体何が起きているのだろう。どうやって落ち着かせればいい。

 何か声をまたかけようとして、その前に彼女の方が口を開いた。

「ラブレー! 許して……許してくれぇっ!」

 時が止まった。

 私に、今、彼女は何と言った?

 それを理解しようとしていると、背後から誰かに声をかけられた。

「ああ……見つかっちまったか」

 それは先程声をかけた魚の加工をしていた村人だった。彼は気落ちした様子で私に言った。

「あんたは随分母親に似ている」


 その意味を、理解してしまった。


 大きすぎる衝撃に視界が歪む。ふらついて冷や汗をかき、今にも倒れてしまいそうだった。

 動けないでいる私に、村人は外に出ろと手招きする。

「その人はもうずっと、その調子だから……ついてきなさい」

 言われるがままにぼんやりと体を動かして彼の後を追った。

 土の道を足で踏みしめ、どこか懐かしい潮風に吹かれながらも、頭はこの酷い事態のせいで割れそうに痛い。

 私が……ハーヴィーの血統だと?

 彼が探した、仕えるべき子孫の末裔だと?

 こんな馬鹿な事はない。こんな事を知る為に、私はこの場所に来たんじゃない!

 全部嘘だと思いたかった。

 けれど不意に、私が拾われたベルベラの村が地理的にとても近い場所にある事を思い出してしまう。

 その事実とこの場所に来てからの村人達の態度に、私は追い詰められていく。

 幽霊のように村人について歩き続けていたが、彼の足が見晴らしの良い崖の上で止まった。

 そこから海に向かって指を差し、大分下に降りて来た太陽に照らされた美しい海面を指し示す。

 白波が寄っては去り、規則正しく耳心地の良い音を立てている。その今は穏やかな景色が、命を落とすほど危険なものだと思うと不思議な心地になった。

「ここから飛び降りたんだ。もう、どちらも死んだと思っていたよ。今日、あんたの顔を見るまでは」

 今まで何とも思っていなかった自分の顔に手を添える。養父母のどちらにも似ていない顔だ。

 けれどこの顔は、母の生き写しのようだったらしい。姑が見て悲鳴を上げる程に。

 私こそが、ハーヴィーの末裔。

 そんな馬鹿な。こんな偶然、ある筈がない。

 けれど自分が水が苦手で泳げない事実を思い出す。まるで過去に何かがあったかのように、恐怖に身を竦めてしまう。

 こんな事でさえ事実を裏付けるようだった。母が命を落とし、自分も死にかけたものを好きになれる筈がない。

 全部嘘だ。そう言って耳を閉じてしまいたい。

 けれど彼女が身を投げた場所は目を奪われる程に美しく、何故だか慰められたような気持ちになる。

 養父母がとても良くしてくれたから、私は生みの親に興味も無かった。キーリー・セシリー以外の人が私の母と呼ばれる事に違和感があるのに、身を投げたという女性をまるきり他人とも思う事が出来ない自分を認めるしかなかった。

 心が追い詰められていく。

「酷い姑さんだった。毎日、些細な事で酷くラブレーさんを追い詰めて。物をぶつけられて、痣なんてしょっちゅう出来ていた。でも止めようとするとこっちにまで癇癪がくるから、皆見て見ぬふりをしてしまった」

 それから声を落として皺に後悔を刻み、言葉を続けた。

「けれど母子が飛び降りたと聞いて、申し訳ない事をしたと思ったんだ。姑さんはそれでも勝ち誇ったようだったけどね。でも、彼女が勝者だったのはそこまでだ。溺愛していた息子……つまりラブレーさんの夫は後を追うかのように海難事故で行方不明になって、しかもその年は高波が来てこの村は大きな被害が出た。ドリアーヌの家も流されたよ」

 得た物など何もないだろうに、何故そこまで母を目の敵にしていたのだろう。

 いや、理由なんて何も無かったのかもしれない。嫁姑問題など、世の中に呆れる程溢れているのだから。

「その頃からかな。姑さんがラブレーさんにしてきた事の罰が当たったと言いだして、見違えるように神経が細くなったのは。正直時期が合い過ぎたから、そうかもしれないと思った。姑さんも、私達もね」

 彼は疲れた顔をして私を見た。初めて会った時よりも心を開いてくれたように思うが、それは懺悔なのかもしれない。

 この村で嘗て、地獄の日々を送った女性がいたのだ。子供と共に身を投げる程に思いつめさせられて。

 私は自分が母に殺されそうになったというのに、恨む気持ちは浮かばなかった。きっと残してしまえば、私も辛い目に合うと思ったに違いない。

 顔も知らない母に不思議な信頼を抱く。それはきっとこの風景のせいに違いない。こんな穏やかな日であれば、天国に行けると信じられるような美しい海だった。

「……お母さん?」

 海に呼びかけてみるが、勿論聞こえるのは波の音だけである。

 それでも何か聞こえやしないかと耳を済ませる私に、名も知らぬ村人は饒舌に話を続けた。

「皆、あんたの顔を見たら責められたような気になったんだろう。……私はあんたがお付きの人までいて裕福で幸せに暮らしているのだとしたら、こんな事は知らなくていいと思った。姑さんも一応あんたの祖母になるし、どう考えても面倒事だ」

 そう苦笑すると、動けないでいる私の肩に労わるように手を置いた。

「……私が話せるのは此処までだ。すまなかったね。あの時、君達親子を助けられなくて」

 もしかしたらこの人が母を助けてくれていれば、まだ母は生きていたかもしれない。けれどそれは最早過去の事で、私は当時の事を何も覚えていなかった。

 だから恨みなど持ちようがない。ただ、悲しいと思うだけだ。それよりも苦しいのは、自分がハーヴィーの血統である事実だった。

 だって私がハーヴィーの血統であるならば、彼の為にその血を残さなければならない。ロードリックの妻の立場を捨てて。

 嫌だ。

 苦しさに息を詰める。

 村人は私の表情を母の最期を知った悲しみだと勘違いしたのだろう、痛ましそうに見つめてくる。

 私は表面を取り繕う努力をしながら秘密を教えてくれたこの人に感謝をし、首を横に振った。

「いえ。教えて下さって、ありがとうございました」

 この人が教えてくれなければ、ここまで詳細な事情は分からなかっただろう。

「私が言えた立場じゃないかもしれないが……全部、無かった事にしてしまいなさい。此処はきっと、君にとって悲しいものが溢れている」

 それは、私の心を思いやってくれる優しい言葉だった。

 なんだかそれにとても泣きそうになり、滲む視界のまま目を閉じて彼に深く頭を下げた。

 それまで沢山の事を語ってくれた彼は少し黙ると、空にちらりと視線を向けて言った。

「……この頃は急に日が落ちて暗くなってしまう。気を付けて帰りなさい」

「はい。……色々と、ありがとうございました」

そして彼は踵を返し、静かにこの場所を去って行く。

 残された私は一人、母が飛び降りたというその景色を目に焼き付けた。

 ロードリック。

 今頃首都で何も知らずに私を待っているだろう彼に、胸中で語り掛ける。

 見つけました。

 ……見つかって、しまいました。

 重苦しい溜息が口から漏れた。

 私が、別の人間と子を生せば……貴方は喜んでくれる?

 流れ落ちた涙が風に流され、空へと消えていく。

 私は全てを隠す様に手で顔を覆った。


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