第15話 回想


 そして約束の二十六日がきた。

 二人で馬車に乗り込めば、御者は行き先がもう分かっているらしく直ぐに馬を走らせた。

 久々の外出で、流れる窓の外の景色が何処か鮮やかに目に映る。ロードリックは私服ながらもかっちりとした人に会うような恰好だった。

 何処に行くのだろうかと思いながらも、付いて行った先で説明してくれるのを楽しみにあえて何の質問もしない事にする。

 途中花屋に寄った彼は、小ぶりな可愛らしい花束を購入して車に積んだ。華やか過ぎない花の選択で、渡す相手の人柄を想像する。

 馬車は思ったよりもずっと遠くまで私達を運んだ。街を離れ、木々が迫ってくる。やがて森の中を抜けた小高い丘で馬車は止まった。

 丘の上は整備されているのか開けた場所になっている。けれど人の気配はなく、静かで穏やかな場所だった。

 ロードリックは花束を片手に、敬虔な信徒のような犯しがたい空気を纏って歩き出した。私は彼の後を、邪魔しないように静かに付いて行く。

 見晴らしがよい丘の頂上に、小さな墓があった。

 石は濃淡様々な緑の円に彩られ、長い間行われてきただろう苔達の勢力争いを垣間見させる。そこに雨が染み入り固いはずの石は角が削られて、幾百年か前に彫られた文字を随分と薄くさせてしまっていた。

『ムーアクラフト・ハーヴィー』

 ロードリックが呟いた名前である。薄々気付いてはいたが、やはりもう亡くなっている人だった。

 ロードリックが持ってきた黄色の花を墓の上にそっと置くと、草と石ばかりのこの風景の中で鮮やかに映え、この場所を気に掛ける人がいるのだと見る者に知らしめるようだった。

 そして指を胸の前で回し、静かに握り込む。その手のまま荘厳に片膝をつき、無沙汰を詫びるかのように頭を下げた。

 随分丁寧なミハル教の祈りだった。私もそれに倣って、見知らぬ彼に祈りを捧げた。

 風が丘を吹き抜けて、花束を揺らす。此処はとても選び抜かれた場所のように思えた。

 今日は少し寒いが青い空が抜けて気持ちがいいし、手入れの行き届いたこの場所なら春になれば花も咲くに違いない。

 眠る彼も、きっと安らかな眠りにつけているだろう。

 ロードリックは彼に語り掛けるように長い時間、目を閉じて祈りを捧げていた。やがてそれが終わり、ゆるゆると瞼を開いて漸く私に彼を教えてくれる。

「彼が、ハーヴィー様です。私の恩人。私が人間を好きになった、切っ掛けの人」

 ふ、と淡く微笑みながらロードリックは語る。その顔はとても愛おしそうで、鮮やかな感情に溢れていた。

 何故だか自分の体が動かない。彼が感情を表に出すほどに、私は足先から冷えていくような気がした。

 そしてロードリックは教えてくれた。四百年前の『彼』の事を。



 その日は月明かりのある夜だった。森に紛れて聖である私の元へ、一族の者が集ってくる。

 けれど彼らの姿は角の生えた本来の姿で、またある者は腕を失くし、ある者は支えられなければ立つ事も出来ず、殆どが満身創痍の有様だった。

 調査に行っていたニールがふらつきながら帰ってきて、私に言った。

「長。船はもう駄目です。全部燃えてしまいました」

 予想できた事だが、失望してしまう。長い間我々を運んできた船は、此処に辿り着くまでに既に壊れかけていた。

 こうして一部が生きているだけでも奇跡である。しかし我々の文明を含めた全てを抱えたまま、炎に包まれてしまった。

 いや。唯一宝珠と呼ばれる宝だけはその小ささ故に持ち出す事が出来ていた。しかし、それだけだった。

「そうですか。何名ほど生き延びたのでしょう?」

「三百ほど」

 周囲の者から失意の溜息が漏れる。たったそれだけしか、生き残らなかったのだ。

 絶滅は既に決められた運命である。それでもいつか生命のある地に立ち、最後を穏やかに迎えたいという悲願。それだけが、此処まで我々を導いてきた原動力だった。

 それを目前にして迎えた死は、さぞ悔しかっただろう。

 数瞬の間彼らを悼み、直ぐに気持ちを切り替える。

「この地に生きる知的生物と、接触した者はいますか?」

 皆に聞いてみると、一人が手を挙げた。

「はい。着陸時、吹き飛ばされた先で一人に目撃されました」

「反応はどうでしたか?」

 手を挙げた者の表情が酷く暗いものになる。

「悲鳴を上げて……逃げていきました」

 悪い事は重なるものだ。友好的であって欲しいと願っていたが、その反応では難しいかもしれない。

 せめてこちらが手土産になる物を提供できれば良かったが、めぼしい物は全て燃えてしまっている。

 宝珠はあるものの、怪我や病を治すという特性上その貴重さをすぐに理解してもらうのは難しいように思えた。

「長、長!」

 片腕を失くしたキースという一族の者が、慌てたように私の名前を呼んで何処かを指さす。その方向に視線を向ければ松明の明かりが幾百と並び、光の川のようになっていた。

「山狩りですね……」

 そして威嚇のような大勢の者の雄叫びが響き渡った。彼らは見慣れぬ存在を目撃し、怖れ、排除しようとしているのだ。

 姿を変える能力がある我々だが、それには集中力を必要とする。得手不得手もあるので、怪我をしている者や衰弱している者はとても出来ないだろう。

 そして私自身も、姿を変える事を苦手としていた。

「彼らに紛れ込めそうな者はそうしてください。出来ない者は私と共に逃げましょう」

「ロードリック様、」

 何か言いたそうな顔をする者が何人もいたが、それを聞いてやる余裕は無かった。

「他に方法はありません。さあ、急いで」

 念を押して言えば、彼らはそれぞれに行動を開始した。私はキースの残っている手を肩に回し、支えながら山狩りの光と反対方向へと歩き出す。

「長、私は一人で歩けます!」

 キースがそう言うが、ふらついて一人ではまともに歩けていない。

「落ち着いてください。歩きづらい」

 私自身も余裕がないのである。強めに言えば、キースもそれ以上は何も言わなかった。

 松明の光から逃げ、歩く、歩く。

 自分の息切れがやけに大きく聞こえた。足は疲れて皮が剥け、血が出ているが休むことは許されない。

 隣のキースの歩みが少しずつ重くなっていく。当然支える私の負担は増していくが、ただ黙って彼を支え続けた。

「……長」

「なんですか」

 弱弱しいキースの声。不吉な予兆に胸が騒めくが、何も気づかないふりをして歩き続ける。

「俺、海が見たかったんです」

「きっと見れます。一日も歩けば、直ぐに辿り着けますよ」

「すみません……。俺の代わりに、見に行ってくれますか?」

 答えたくなかった。皆は私を長だと慕うが、私にとっても兄や姉のようなものである。消えて行こうとしている家族の命に、気付けば私は涙を流していた。

 我々にとって、死は永遠の別離である。あの世もなく、生まれ変わりもない。

 ああ、最後に望みを答えてやらねば。

「分かりました」

「……良かった」

 キースが笑ったのが見なくとも分かる。そして彼は歩く事を止めた。

 支えられなくなった彼の体をそっと地面に横たえてやる。開かれたままの瞼をそっと閉じると、限界を超えた自分の体はその場を動けなくなってしまった。

 後ろを振り向けば、ついて来たものは酷い状態だった。私が歩みを止めたので、皆も倒れるように立ち止まってしまう。

 誰も、彼も、一歩も動く事が出来ない。木の根元に座り込んだ者が、私に聞いた。

「ここが、我々の最後ですか?」

 長い旅だった。ずっと同じ景色ばかりの船内で、遠い昔の先祖が目にした星の最後を寝物語に、幕を閉じるに相応しい場所を求めて旅をしていた。

「そうかも、しれませんね」

 私の言葉に皆が泣く。この美しい星を、もう少し愛でたかったのだろう。

 貪欲な命が嘆いている。まだ死にたくないと。

 けれど体は疲れ切って、動く事さえ出来ない。

 松明の明かりが我々に追いつくのに、そう時間はかからなかった。

 後に人間と知る生き物は、生まれがまるで違うというのに我々と良く似た姿をしていた。その二本足で歩く体も、顔立ちも、そしてこちらに向ける怯える表情も。

 彼等は数十人の集団でしかなかったが、我々は抵抗出来るだけの武器も気力も何もなかった。

 言葉は分からないものの、それぞれ武器を我々に向けている事からも警戒している事が窺えた。

 口々に何かを言い合っている。勿論、理解は出来ない。

 遠くない内に殺されるに違いない。皆は怯えてそれぞれ身を寄せ合い、その時が来るのを覚悟した。

 やがて二人の男が、集団から離れて我々に近づいて来た。他の人間よりも上等な服を着る彼らは、身分が上の者に違いない。

『ハーヴィー様! 危ないですって! どう見ても悪魔ですよ!』

 どうやら茶髪の男はもう一人を引き留めようとしているようだ。危険だ、近づくな。そんなところだろう。

 しかし金髪の男はそれを全く意に介さず、我々の目の前まで歩いてくる。その目には怯えや怒りも何もなく、只穏やかにこちらを見ていた。

『……ダン。お前、彼らが悪魔に見えるのか』

『え? それはそうでしょう』

『そうか。……俺には酷く傷つき、それでもなお生きたいと願う哀れな生き物に見える』

 金髪の彼が静かに茶髪の男に言うと、周囲の人間達を取り巻いていた不穏な空気が変わった。

 その男のたった一言で、怯えや恐怖から冷静な見極めようとする目に。それは私からすれば、奇跡のような変化だった。

 絶望の中に、希望の光が僅かに灯る。けれどそれがか細い光である事も分かっていた。

 決して敵対心を向けてはいけない。身動き一つさえ相手の警戒心を呼び覚ますかもしれず、息を止めて彼を注視した。

『何か食料を持っている者はいないか?』

 金髪の男が人々に向かって何かを叫ぶと、隣の男は呆れた顔をした。

『何をするおつもりで?』

『友好の証というのは、食べ物を分ける事から始まるだろう?』

 そして恐らく干し肉の切れ端を誰かから貰い、それを私に差し出した。

 どうしろというのか分からずじっと見ていると、例を示す様に半分に割いて片方を自分で口にする。

 おずおずと同じように口にすれば、自分が極度の空腹であった事に気が付いた。

 硬く塩味の濃いそれはとても上等な食べ物ではなかったが、それでも今は体に染み渡るようだった。

 金髪の男は、私が口にした事で酷く満足そうな顔をした。そして自分を指さし、同じ単語を繰り返す。

『ハーヴィー。ハーヴィーだ。分かるか?』

「ハーヴィー?」

 恐らく名前なのだろう。繰り返してみると、合っているという風に首を縦に振った。

『そこまで傷つき、疲弊している者を放っておくのは気が引ける。君達が何処から来たのかは分からないが、保護しよう』

 意味は分からなかったがその声色はとても優しく、今まで人間から向けられたどの声とも全く違う。

 彼は、私達を助けようとしてくれているのか。

 それは信じられないような善意だった。

 驚いてその顔を見上げれば、肯定するかのように彼は私の肩を労わるように触れた。

 その温かさに、熱い感情が涙に変わって込み上げてくる。この地で初めて触れた無償の愛が、胸に深く突き刺さる。

 どうすればこの感情が、少しでも彼に伝わるのか。

 とめどなく涙が溢れて赤子に戻ってしまったかのような私を、彼は馬鹿にするでもなく優しく撫でて慰めさえしてくれる。

 だから私は生涯初めて、何者かにひれ伏したのだった。

 


「彼はその地の領主の次男でした。気の良い人で、性善説を信じ、明るい彼の元にはいつも領民が集まっていた。我々を抱える事で難しい立場になると分かっていながら、それでも保護し続けてくれたのです」

 語るロードリックの表情は輝いて、どれほどその人を尊敬していたのかを私に伝える。

 私にはハーヴィーが四百年も昔の人の話のようには感じられなかった。ロードリックの中では今も彼が鮮やかな記憶で生き続けている。

 それなのに既に過去なのだと教えるように彼の眠る墓標は苔むしていて、ただの人間である私はその違いについていけない。

 これが。これが、ロードリックの生きる時間なのだ。

 私はその愕然として、足元が突然消えてなくなったかのような感覚になった。

 彼が人間を慕うという事は、こういう事だ。

 私は言葉だけでロードリックの長寿を理解した気になっていたが、今初めて私と彼の生きる時が違うのを痛い程に実感する。

 長寿と呼ぶのさえ躊躇われる。これは最早、歴史と言うに相応しい時間の流れだった。

 毎月、亡くなった日に墓参するのはどれほど心を占めていた人なのだろう。

 きっと体の一部を失ったかのような喪失感。それが四百年間、色褪せることなく彼の中に存在する。


 私を愛してなんて願える筈がない!


 今まで天来衆の皆が私を厭っていた理由が分かる。私は近づく程に、いずれロードリックに深い傷をつける。

 私を愛してしまえば、ロードリックは同じように悼むだろう。何百年、何千年という時間を。

 それは最早、罪だ。私のような短い時間しか持たない生き物が、それほどまでの時間彼を拘束して良いはずがない。

 泣き叫びたい気持ちを、必死で堪えた。ロードリックのハーヴィーの墓標に向けた視線が、私に向かわないように願いながら。

 彼にも私にも穏やかな優しい風が等しく頬を撫でていくのに、額縁に区切られた絵の世界を覗いているかのような感覚に陥った。

 絶対に超える事の出来ない境目が、数歩の距離の中にさえ存在する。

 彼の墓石が語り掛ける。これが我々の領分。共に生きる時間など刹那であると。

 愛されてはいけない。

 静かに固い決意をする。この優しい人の心に、そんな深い傷をつける事を自分に許す事が出来ない。

「……貴女に会わせる事が出来て良かった」

 ロードリックが普段通りの穏やかな顔をして、私に手を差し出した。

「帰りましょう」

 仮面を被る。恋に泣く心がばれないように。

「……はい」

 繋いだ手はいつもと同じく温かかったが、それがかえって苦しいぐらい切ない。


 そしてこの日は、ロードリックの恩人の命日であるのを知ったのと同時に、私の恋心が殺された日になった。


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