第12話 許し


 夕方、帰ってくる馬車の音がしたので、いそいそと玄関の方へと向かう。自室から階段を下りた所で、外套を使用人に渡しているロードリックの姿が見えた。

「おかえりなさい」

「ただいま戻りました」

「今日は早かったですね」

「ええ。偶にはと思いまして」

 そう言って手に持っていた可愛らしい箱を私に差し出してきた。

 また、何か買ってきてくれたんだ。

 そう思うと胸がじわりと温かくなる。ロードリックは随分まめな人で、頻繁にこうした土産を私にくれるのだ。

 貰う度に申し訳ないと思いつつも、彼が私を思って選んでくれた事の喜びが勝ってしまう。きっと今も私は満面の笑みを浮かべているのだろう。

「ありがとうございます。開けてもいいですか?」

「どうぞ。クラリスへの土産ですから」

 中身を開ければ、今日はケーキが二個入っていた。チョコレートがかけられた私好みのチョコレートケーキと、イチゴの乗ったシンプルなショートケーキ。こちらは多分、ロードリックが自分で食べる用だろう。

「美味しそう。今だと夕ご飯が食べられなくなっちゃいますね。食後に一緒に食べましょう」

「そうですね」

 うきうきしながらそれらを使用人に手渡すと、ロードリックは子供の様に喜ぶ私に微笑ましそうな視線を向けた。

 その目はとても暖かく家族愛のようなものを感じるが、男女の熱はまるで宿っていなかった。

 それに気づいて何とも言えない寂しさが過ったが、表には意識して出さない。

 彼はリビングのソファーに深く腰を下ろし、制帽や上着を脱いでシャツだけの気楽な恰好へと変わる。

 私がその寛いだ様子にもいちいち胸がときめいてしまっているなんて、気付いていないに違いなかった。

「夕飯まではまだ時間がありますから、暫くゆっくりしましょう」

「ええ」

 私も彼の隣に腰を下ろし、気を利かせてメイドが持って来てくれたハーブティーを共に啜る。間近になった彼の顔は相変わらず美しかったが、顔色が普段と僅かに違うように思えた。

「お疲れですか?」

「……少し。いえ、いけませんね。愚痴になってしまう」

「いいじゃないですか。聞かせてください」

 ロードリックにとって、天来衆の皆は守るべき部下である。彼らを大事にして意見も聞くが、友人関係では決してなかった。

 だから私には愚痴ぐらい良いんじゃないか。そう思って言ってみれば、ロードリックは瞳を瞬かせた後に緩く笑った。

「そうですね」

 そしてふと顔を引き締めて、視線を何処か遠くに向ける。きっと頭の中では思考に耽っているのだろう。

「これから忙しくなりそうなんです。まあ、例の如く詳細は言えないのですが……。皆に負担をかけなければいけない事が心苦しい」

「……そうでしたか」

 天来衆の皆さんはロードリックの事をとても大事にしている。だから彼が言えば拒否などせず従うだろう。

 けれど大変な事は、大変である事に変わりはない。憂鬱になるのも仕方がない事だった。

「私にもう少しうまく立ち回る能力があれば。いつもそう思ってしまう」

 こうやって悩む姿は、人間とまるきり同じである。私は彼等と暮らしだしてから、さほど人間との違いを感じていなかった。

 落ち込んでいるのをどうにか慰めたくて、手が自然と彼の頭へと向いてしまう。そっと撫でれば、ロードリックは少し驚いたようだった。

「私はロードリックの仕事について何も知りませんが、いつも頑張ってるのは知ってます」

 思った事をそのまま口に出せば、彼は照れたらしく困ったように眉を八の字にした。

「……ありがとうございます」

 ロードリックは咳払いをして、顔に浮かんだ照れを霧散させる。

「クラリスは何か不都合はありませんか?」

 問われて、直ぐに首を横に振る。あの件以来、私の状況は劇的に変わっていた。

 ロードリックが私に重要な仕事を任せてくれたからか、密に顔を合わせるようになったからか、天来衆の人々の対応が随分和らいだのである。

 全員と仲良くとまではいかないものの、これまでの針の筵のような生活を思えば雲泥の差だった。

「最近はとても過ごしやすいです。ザラさんを選んでくださって、ありがとうございます」

 新しく私付きのメイドになった彼女はとても気立ての良い女性で、快く私の相手をしてくれている。まるで姉が一人出来たようで、私は此処での生活をすっかり苦痛に感じる事は無くなっていた。

 安心したのか、ロードリックは穏やかに微笑みを浮かべた。

「それなら良かったです。彼女は昔、人間と婚姻関係を結んでいましたから、貴女の事をよく理解してくれるでしょう」

 へぇ、そうか。ザラさんは昔誰かの奥さんだったんだ。

 言われた言葉に何処か違和感を感じる。その理由が分からなくて暫し考えこみ、とある事に気が付いてすっと背筋が寒くなった。

 天来衆で夫婦になった人を、私以外で初めて聞いた。

 今まで数多くの天来衆をこの家で目撃してきたが、誰かの夫や妻である者は一人もいなかった。

 そんな事が人間だったらあるだろうか?

 まして、彼らは長い間を生きる存在なのである。少なくとも何百年は生きてきたはずで、その間誰も結婚しないなんて事があるだろうか。

 隣に座るロードリックを改めて見る。彼はとても穏やかな目をいつもしているが、恋愛の熱を帯びた事は一度も見た事が無い。

 そもそも、そういった生き物でなかったとしたら。私はこの気持ちのやり場をどうすればいい。

 足元が急に不安定になったような気持ちを押し隠し、平然を努力して装って言った。

「そうだったんですね。……私以外の天来衆の人が結婚していたのを、初めて聞きました」

 ああ、自分の鼓動の音が彼に聞こえてやしないだろうか。

 幸いな事にロードリックは気づかなかったようで、何かを思い立ったような顔をした。

「そうでした。クラリスには話さないといけませんね。我々の事について」

「天来衆の事……ですか?」

「ええ。我々は生まれながらに、役割がある程度決まっているのです。蟻や蜂と似たようなものです」

 言われてコリンの言葉を思い出した。あれはロードリックを如何に大事に思っているかを示すだけの比喩ではなかったらしい。

 彼は白紙の紙を部屋の引き出しから持ってくると、さらさらと万年筆で単語を書いていく。

 防人、偵察、竈、子守、技師、……。

「これらの役目の者は、働き蜂に相当します。蜂と同じように、この者達は恋をしません」

 それはまるでお伽噺を聞いているかのようで、何処か現実感を感じられない。すぐ隣にいる人の話だと言うのに、まるでロードリックが遠くに行ってしまったかのような距離を感じた。

 不意に彼が空の鳥よりも、海の魚よりも、更に離れた生き物である事を思い出す。

 その気付きに戸惑いを覚え、けれどそれを悟られないように思いついた質問を口にした。

「ザラさんは?」

「彼女は子守です」

「えっ」

 今の話では、恋をしないという話ではなかったか。

「共にいる理由は、何も恋愛だけではないでしょう。ザラの夫は恋愛感情から求婚しましたが、ザラは信頼や友愛故に受けたと言っていましたね」

 それはとても寂しい事なのではないだろうか。

 まるきり私の現状と同じである。ザラさんの夫はそれを良しとしたのだろう。もし生きていたなら、話を聞いてみたかった。けれどとうの昔に亡くなっているだろう事が容易に想像出来てしまい、もの悲しい気持ちになる。

 黙っていると、続けてロードリックは紙に『聖』と書き記した。

「そして最後に、女王蜂たる聖です」

 それは特別な響きのように聞こえた。天来衆の皆がロードリックを大事に扱う理由が見えてくる。

「我々は長く生きすぎる為に、全員が子を産むわけではない方向へと形を変えました。そうでなければ、限られた地では直ぐに一族で溢れるでしょう。ごく一部の者が、長い時の中で気まぐれに恋をして、子を生す。かつてはそれで十分だったのです。それが、聖」

 人間と違い過ぎて、正直な所理解が及ばない。生まれながらに仕事が決まっているようなものだろうか。

 天来衆と話していても、意思疎通に不都合はない。それが大事なのであって、今更彼等との違いに身構える必要はないように思った。

 けれど、どうしても見過ごせない点が一つ存在する。

「ロードリックは?」

「私は聖です」

 予想を肯定され、知らずの内に緊張していたらしい体から力が抜けていく。

 良かった。この恋の生存を、まだ許されたのだ。

 嬉しくなって吊り上がりそうになる口角を、必死で抑える。誰も居なければ跳ねまわって喜んでいただろう。

 けれどロードリックの前でそんな事が出来るはずもなく、私は頬にさり気なく手を当てて諸々を誤魔化す。

 そんな私とは裏腹に、ロードリックは酷く寂し気な表情をした。

「けれど、最早こんな役目に意味はありません。我々はもう、僅かに二百を超える数しかいないのです」

 そしてやり場のない感情を向けたように、書いていた紙をぐしゃぐしゃに丸めてしまう。

 何時になく粗雑な振る舞いに驚いてロードリックを見たが、彼はそのまま丸めた紙を灰皿の上にのせて火をつけてしまった。

「ロードリック?」

 不安になって呼びかける。いつもの彼に戻って欲しかった。

 けれどロードリックはまだ感情が収まらないようで、深くソファーに体を沈めると額に手を当てて静かになってしまった。

 声をかけるのも躊躇い、只机の上で炎の中に揺らめく紙に視線を移した。白かった筈の色は鮮やかな橙の線が表面を這うと、黒い炭へと姿を変えていく。

 ロードリックがこうも感情を乱している事と、直前の発言の意味を考えた。

 薪が騒がしく弾けながら炎を生み出しているというのに、隙間風なのか足元から妙に寒さが上がってくる。

 やがて一つの絶望的な予測が生まれたが、彼の口から言われるまで黙っている事にした。

 そして紙がすっかり白さを失くした頃に、漸くロードリックは手を外してゆっくりと私と視線を合わせた。

「ここに辿り着くまでの、長い時の中で少しずつ数が減り……母が私を産むと同時に亡くなってから、今や私が唯一の聖になってしまいました」

 その疲れた顔には、私には推し量る事さえ出来ない膨大な時間と、埋めようのない大きな虚ろが浮かんでいた。

 たった一人では、子は生せない。

 今まで私は天来衆に特別感を抱いていた。人知の及ばない能力を持つ、驚異の人々だと。そのイメージが崩れていく。

「命の時に限りがなくとも、怪我や病から逃げられるわけではありません。この目まぐるしい地でも、一人ずつ減っていくでしょう」

 目の前の彼が今にも淡雪のように溶けて行ってしまいそうな程儚く思え、その白皙の頬にそっと手を添えた。手から熱が伝わるほど近いのに、その心は余りにも遠くて届かない。

 その遠さが苦しくて、寂しくて、もどかしい。

 彼は一瞬驚いて目を見開いたが、直ぐに受け入れて私の手の上に自分の手を重ねた。

「私の役割は、一族の終焉を見守る事。その最後が穏やかであるように尽くす事。……ですから」

 ぐ、と唇を噛み締めるその顔から、魅せられたように視線を外す事が出来ない。

 彼は静かに胸中を告白し、その美しさと脆さを私に晒す。

「人間の寿命よりも長く……恐らく人間の種族よりは短い間、共に暮らす事をどうかお許しください」

 目の前にいる人間に、星の彼方からの来訪者であるロードリックは懇願した。

 その顔がまるで泣いているように見えたので、私は静かに頷く事しか出来なかった。


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