第366話 全国高校自転車競技会 第9ステージ② 斫石峠
5人のアタックが成功した。
佐賀の水野、静岡の千秋、千葉の平良柊、和歌山の石田、島根の木下。
最後の二人については、冬希は良く知らなかったが、このタイミングで動けるというのは、上れる選手なのだろう。
「柊先輩、逃げ切れませんかね」
「伊佐、それでもいいのかも知れないが、多分そういう戦いにはならないだろう」
上位チームが死力を尽くせば、上り、平坦、下りと、すべてがハイペースで進む。
どれか一つに秀でていれば勝てる、というレース展開にはならない。潤の予想は最初からそうだった。
「逃げは決まった。しかし、メイン集団のペースは落ち着くことは無いだろう」
総合上位勢は、みんなメイン集団の前方に固まっている。まだ残り距離は70㎞以上あるが、どこが仕掛けてもおかしくない状況だった。
愛知の永田が、一人がアタックした。
キレのあるアタックで、集団が唖然としている隙に、どんどん加速していく。
反応できたのは、植原、黒川、冬希の3人だけだった。
永田の動きは理にかなっている。考えてみれば当たり前だ。総合成績で冬希に対して1分遅れている。最終の第10ステージでは、集団スプリントでタイム差がつく可能性は低い。このステージだけで、1分のタイム差をひっくり返さなければならないのだから、脚に自信があるかどうかの問題ではなく、早めに仕掛ける以外に選択肢がない。仕掛けが遅くなれば遅くなるほど、逆転の可能性は低くなる。
冬希が後ろを振り向いた。天野が居た。初めて気が付いた。
飛び出した4人の後ろ、メイン集団は佐賀が牽引している。追ってこない。
牽引しているというか、佐賀が集団の前方で、蓋をしているに等しい状態だった。坂東裕理が先頭に立っているのだから、これはもう邪魔をしている、で間違いないだろう。
ペースが上がらない裕理は、他チームから罵声を浴びている。
「待て、キン〇マがサドルで潰れた」
苦しそうにしなが、もたもたしている。
ひどい言い訳だ、と冬希は思った。
永田は見事な登坂力で、佐賀が蓋をしているメイン集団を引き離しにかかった。
不意を突かれたのは、冬希も同じだった。
永田が仕掛けるなら、大会最強のルーラーである山賀が牽引すると、心のどこかで確信していたところがあった。
仕掛けるタイミングも、小石原を少し下ったあとに始まる斫石峠を上った後、つまり斫石峠の下りと、椿ヶ鼻を上る前までの平坦区間だと考えていた。
冬希が反応できたのは、ちょうど注意していた植原が動いたからだった。ほとんど、永田に反応したというより、永田に反応した植原に反応したと言ってよかった。
植原の反応こそ、尋常ならざるものだった。永田の方を見ずに、永田が仕掛けたことが分かったとしか、冬希には思えなかった。調子が良い時というのは、そういうレベルまで感覚が研ぎ澄まされているという事なのかもしれない。
「あの永田という小僧、やるなあ。多田が置いてけぼりを食らうのを、初めて見た」
黒川が言った。体が一回り大きく見える程、凄みを増していた。
「まだ余裕があるように見えますね」
「青山、お前にもそう見えるか」
「まだ、俺がついていけていますから」
「ぬかせ」
黒川は、笑った。後続を引き離してはいるが、4人のペースが速いからか、佐賀が妨害しているからかは、わからなかった。ただ、この4人でグループが形成されるのは、あまりにも早いという気がした。まるでゴール前の数kmのようだ。
小石原を上った後、少しだけ下った。植原が永田の前に出て先頭で下ろうとしたが、永田は頑なに先頭を譲らなかった。先頭で下れば、自分のペースで走れる。また、他の選手の落車に巻き込まれることもない。永田はチームから、下るときは必ず先頭で、とでも言われているのだろう。
下り終えると、すぐに斫石峠の上りが始まった。
距離は6.5㎞で350m上る。平均勾配は5%強といったところだ。
この程度なら、冬希もついていけないことはない。
このあたりから植原が先頭に立ち、黒川も先頭交代に加わった。
冬希としては、他の3名がメイン集団に戻ろうとするのなら、一緒に戻ってもよかった。だが、どうやら少なくとも植原と黒川は、このまま勝ち切るつもりのようだ。永田も、そのつもりだからアタックしたのだろう。
冬希は、先頭交代に加わるフリだけしようかと思ったが、勾配がそこまで急じゃないこともあり、結局はそこそこの強度で先頭を牽く結果となった。
植原と黒川は、全選手の中でも、最強のオールラウンダーのトップ2だろう。その二人が真剣に走れば、メイン集団と言えど、余程きれいに先頭交代しなければ、このグループに対して差を縮めることは難しいだろう、と冬希は思った。
なんだかんだ言って、自分も真面目に牽いているのだから。
自分がメイン集団に戻れば、植原、黒川、永田、天野の4人も一緒に集団に戻るだろうか。
それは甘い考えかもしれない、と冬希は慌てて打ち消した。
4人は走り去り、冬希だけがタイム差をつけられて大敗する可能性が高い。
そもそも、全員で集団に戻っても、冬希が有利になるとは限らないのだ。今日のようなゴール前の急勾配に於いては、上れるアシストの数でいば、千葉は柊と潤なのに対して、植原の東京はほぼ全員が上れるのだ。
あれこれ考えている中、ふと冬希は、自分が集団に戻る理由を探しているのではないか、という気持ちになった。
残り距離がまだ45㎞ほどある。およそ半分だ。5人で走るのは、辛い。
アタックで脚を使った永田も、回復したのか、ローテーションに加わった。
それを待っていたかのように、天野も一応は先頭交代に加わるようになった。
自信があるか、と訊かれれば、ない、と答えるだろう。
植原、黒川、天野はそれぞれ全国クラスの大会で優勝している。永田は、今年の1年の中では最強のオールラウンダーだろう。来年のこの大会では、総合優勝しているかもしれない。
化け物のような相手ばかり。そんな連中に引っ張られてゴールまで走るのは、決して楽ではないだろう。
「このメンツでゴールまで行くのはしんどいなあ」
思ったことが口から出ていた。黒川と永田が、ぎょっとした顔でこちらを見てきた。先頭を牽いている植原の反応は見えないが、気配を消している天野も、少しだけ顔を上げた。
「お前もそんなことを言うのか」
黒川はあきれたように言った。
「俺は、どういう風に見えているんですか」
冬希は苦笑して言った。
黒川は、永田に視線を向けた。
「強固な壁のような人だと。どんなに強い意志で向かって言っても跳ね返してしまうような。それでいて大きな人でもあると思います」
言葉が出なかった。自分が他の選手からどう思われているか、意識したことがなかった。
「総合タイムで一度抜かれても、簡単に取り返してしまう。しかもそれを難なくやっている。俺は、お前のような奴がいるのかと、正直理解に苦しんでいる」
黒川の言葉に、植原が振り返って視線でこたえた。
冬希は、見えていなかったものが見えてきた気がした。
今このグループにいる選手たちは、自分を倒すために動いたのだと。当たり前すぎて馬鹿馬鹿しいようなことだが、それが見えていなかった。
永田が、なぜこんな序盤から仕掛けたのか、冬希には実際のところ、完全には理解できていなかった。つまりは、こんな序盤から動かなければ、冬希との1分差は逆転できないという判断からの動きだった。
個々のステージでは、植原に負け、南に負け、今日も迷いに迷っている。決して黒川の言うように、難なくやっているわけではないのだが、他者からはそう見えるという。
ローテーションが一巡し、永田が先頭に立った。
永田は、一瞬冬希を振り返った。アタックだ。
斫石峠の最高到達点まで、まだ1㎞以上ある。
こんなところから脚を使うのか、と先ほどまでは驚いたかもしれない。だが、今は永田の心情もわかるようになっていた。
植原、黒川が振り返って冬希を見た。追わないのか、ということだ。冬希が追えば、二人もついてくるだろう。
「逃げ切られたら、それまでだったということだと思う」
冬希は、後ろの天野をちらりと見た。
天野が、大きく息を吐くのが見えた。
4人の中で、永田を追おうとするものは居なかった。
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