第282話 冬希と真理のおてて

 月曜日、冬希は病院で骨折した鎖骨を固定する手術を受ける旨、担当医に伝えた。

 サーファーが白衣を着ただけという風体の担当医は、見た目に違わぬ軽いノリで手術の内容を説明してくれたので、冬希も悲壮感を持たずに済んだ。

「あ、全身麻酔なので、同意書と当日は家族の方の立ち会いが必要っす」

 肩だけなのに、全身に麻酔をするのか、と思ったが、意識がある状態でやられるより楽か、と冬希は思った。

 家族の立ち合いについては、意識がない状態で不測の事態に陥った時、説明を聞いたり、決断をしたりする人が必要ということのようだ。これは父、母、姉の誰でもいいだろうと思った。

 看護師の説明で、病院の売店で、ふんどしを買っておくように言われた。

 使わなかった場合は、そのまま売店で返品、返金可能ということで、必ず使うというわけではないようだ。

 担当医のスケジュールの関係で、手術は金曜日の午後に行う、前日の木曜日に入院し、退院は土曜日の朝10時。冬希が思っていたより思ったより早い。

 手術や麻酔の同意書など、諸々受け取って冬希は学校へ向かった。


 放課後、冬希は午前中の授業の遅れを取り戻すべく、OA教室で課題に取り組んでいた。

 どうせ部室には顔を出せないのだ。時間はいくらでもある。

 数Iのプリントを片付け、プログラミング概論の課題に取り掛かる。

 骨折箇所が痛くないように、肘から先だけをうまく動かして、学校から支給されたノートPCのキーボードをカタカタと叩いていく。

 授業の教科書に、解答自体は載っているのだが、それを丸ごと写すだけでは自分の実力にならない。それこそ写しているのに費やした時間をゴミのように捨てているだけということになる。

 冬希は、目を閉じて考える。

 どんどん思考が深いところまで潜っていっては、また振り出しに戻る。

 PCに向かい、図を書いてみる。少し情報が整理できた。

 解答と、その理由を入力し、担当教師が作ったWebフォームの送信ボタンを押した。

 教室の時計を見る。18:30を過ぎたところだ。

 事故に遭ってから冬希は、電車とバスでの通学となっている。

 怪我でロードバイクに乗れない上に、そもそも冬希のロードバイクは寺崎輪業に修理の見積りに出されている。

 通学は面倒になったと冬希は感じていた。にも関わらず、こんなに遅くまで学校に残っているのには、理由があった。

 あわよくば、部活終わりの真理とばったり遭遇して、一緒に帰ったりできないかなどという下心だ。

「我ながら、ちょっとキモいかも」

 天井の蛍光灯を見上げながら、ため息混じりに呟く。

 ちょっとではないかもしれない。一歩間違えばストーカーだ。今後は、青山ふゆキモいという名前に改名すべきだろうか、などと考えていると、OA教室の扉が、おそるおそる、といった感じに開かれる音がした。

 冬希が扉の方を振り返ると、そこには真理の顔があった。

「冬希君」

 冬希は、びっくりして固まってしまった。

 真理はOS教室に入ってきた。

「OA教室に灯がついていたから、もしかしたら冬希君かも知れないと思って。もしかして待っててくれた?」

 偶然会った体で、とか会った時になんというか、など諸々のことが頭から吹き飛んでしまった。

 冬希はしどろもどろになりながら

「あ・・・うん」

 と絞り出すように言うのが精一杯だった。

「こんな時間まで待っててくれたんだ」

 真理は、嬉しそうな表情を浮かべている。

 安田との一件があって以来、何かおかしい。真理の顔を見ただけで、心拍数が跳ね上がるのを感じる。

 ゴールスプリントの時のような全身に血が回る感覚ではなく、心臓だけが激しく動いている気がする。

 真理のことも、一つ一つの表情が可愛くて仕方ない。真理が自分を見る目が変わったのか、自分が真理を見る目が変わったのか、わからない。

 冬希は努めて平静を装おうとした。このままでは訳のわからないことを言ってしまいそうだ。

「ちょうど課題をやっていたから。もう終わったから行こうか」

 ノートPCをパタン、と閉じて、カバンに詰めようとする。

「パソコン、シャットダウンしなくていいの?」

「あ・・・そうだね・・・」

 何をやっているんだ俺は、と冬希はノートPCを開き直し、ログインしてシャットダウンを行う。シャットダウンしなくても明日の授業ぐらいまでは電源は持つだろうが、それを言うより冬希は真理に従う方を選んだ。

「そんなに慌てなくても大丈夫だよ。バスの時間までまだあるし」

 あはは、と笑う真理の表情が眩しい。

 真理から初めて話しかけられた時のように、ドキドキする。

 中学の頃、他県から転校してきたためか、真理は勉強もできて、冬希からすると間違いなく出会った中で一番可愛い女の子であったにも関わらず、派手さはなく目立たない感じだった。だからこそ冬希は真理のことが気になったのかもしれない。

 冬希は深呼吸をすると、マウスや電源コード、そしてノートPCを入れた鞄を、自由な左手の方で持った。

「帰ろう」


 バスに乗り、駅まで行くと電車に乗り換える。学校の話、部活の話、そして手術の話。基本的に冬希は話の聞き手に回ることが多いが、真理から聞かれると自分のこともちゃんと話した。

 それにしても、と冬希は思う。真理の隣は酸素が薄いのではないか。過度に緊張しているせいか、呼吸が苦しい。ここは宇宙なのか。

 冬希がなんとなく感じていたのは、真理と同じ学校に通うためにロードバイクに乗り始め、流されるままに色々な大会に出て、総合優勝したりはしなかったが、ちょこちょことそれぞれの大会で何勝かすることが出来て、自転車ロードレースに向き合っていた期間が続いていた。

 ふと怪我をして自転車ロードレースから離れた時、中学の頃に同じ学校に行くためならどんなこともしてやろうと思うほど好きな女の子が目の前に居たら、こうなってしまうのではないか。

「片手がそんな状態だと、色々不便だね」

 真理は、冬希の顔を覗き込むようにして言った。

 二人の自宅の最寄り駅で電車を降りた二人は、改札に向かって歩いて行る。

「最初は不便だったけど、もう慣れたかな。肘から先は使えるし」

 冬希は器用に交通系ICカードを、吊っている右手でタッチする。

「ふふっ、でも女の子と手を繋いだりできないよ」

 真理が悪戯っぽく笑う。

 冬希は、手の持っていたカバンの肩掛け紐を襷掛けにかけると、空いた右手で真理の左手を握った。

「繋げるよ」

 なぜそんな行動に出てしまったのか、強いて言うなら、手を繋ぎたかったからだ。

 ずっと真理が隣にいる。もはや冬希の理性は何かの拍子に吹き飛んでしまいそうな状態だった。

 手を繋がせていただけるのであれば、一も二もなく繋がせていただくに決まっている。

 真理は、驚いたように冬希の顔を見ている。ほんのり頬が赤く、目が潤んでいるようにも見える。

 冬希は、真理が嫌そうにしたら、すぐに離そうと思っていた。しかし、俯いているばかりで何も言わないし、振り解こうともしない。

「い、行こうか」

 冬希は、そのまま真理と手を繋いだまま、駅を出て歩き出した。

 会話はない。

 ただ、真理の手は思ったより小さく、思ったより柔らかかった。

 真理は、手を繋がれたまま、黙って隣を歩いている。

 冬希は考えるのをやめた。手を繋げるなら、繋げるだけ繋げばいいじゃないか。

 真理の家の近くの信号までやってきた。川沿いに右に行けば真理の家があり、まっすぐ行けば冬希の家の方向になる。

「ありがとう・・・」

 冬希がここまで来るのには、少し遠回りになる。真理はそのことについてお礼を言っているのだ。

「でも、いきなり手を繋ぐのは、ちょっと恥ずかしかったかな」

「荒木さんが、手を繋げないって言ったから・・・あっ」

 冬希はこの時になってようやく、真理が、私と、という意味で言ったのではないことに気がついた。

 冬希からすると、ずっと真理と手でも繋げればと思っていたので、手を繋ぐ相手は真理以外は考えられなかったが、真理からすると、一般的な「女の子と」と言う意味で言ったとしてもおかしくは無い。むしろ、今となっては、真理が自分と手を繋げないと言っているという解釈をする方が、無理がある気もする。

「じゃ、じゃあね!」

 真理は、パタパタと家の方へ走っていった。

「うわぁぁぁぁ・・・」

 冬希は、その姿を見送りながら、左手で頭を押さえてうずくまった。

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