第242話 優子の望み

 冬希と優子が、藤田を訪問した翌日、藤田は同じ墨田区の体育館で、高校生名人位の挑戦者決定リーグ戦の対局に臨んでいた。

 相手は、振り飛車最強の誉れ高い、山本高校生王将だ。

 前日の対局で、同じく振り飛車を得意とする中山を相手に、山本との対局で使う予定だった作戦を試してみた。結果、重大な抜け穴があり、ほぼ一方的に負けた。

 今日は、その対策も考えてきている。

 高校生名人位は、藤田がどうしても欲しいタイトルだった。しかし、ここまでの成績は芳しくなく、今日負ければ自力での挑戦は難しくなる。そんな重要な対局で、相手もタイトル保持者の山本だというだから、不幸だった。

 藤田高校生棋王と山本高校生王将の対局は、今日、日本全国で行われている高校生将棋部の対局の中でも、ダントツで注目度の高い組み合わせだった。

 序盤は、藤田の作戦が功を奏し、優勢に進めることができたが、山本が短い手数で組んだ美濃囲いが思いのほか強固で、攻めあぐねているうちに、形勢は、藤田が不利になっていっていた。

 無理して攻めた結果、駒損が重なり、劣勢から敗勢に近い状態になりつつある。

 山本の駒台には、藤田から取った大駒が並んでいる。藤田が攻めの手を緩めれば、一気に押し切ってしまえるだけの差があった。

 藤田は、局面を打開する方法を考えていた。呼吸を止めて海に潜るように、深く、深く読んで行く。

 これ以上深くは考えられない、というところまで潜ると、一度浮上する。それを何度か繰り返す。

 浮上したタイミングで、ふと盤面をみてみる。

 どこかでみたことがある局面だった。

「あっ」

 思わず、藤田の口から声に出た。

 対局相手、記録係、両隣で対局をしている人たちが、一斉に藤田の方を見た。

「あ、すみません・・・」

 藤田は、赤面しながら盤面に視線を戻した。

 前日、冬希と遊びで指していた対局の局面を思い出させる盤面になっていた。

 実際に比べてみると、全然駒の位置は違うが、なんとなくあの時の対局を思い出させた。

 藤田は経験を重ねるごとに、相手の考えを読み、相手のやりたいことを阻止するという闘い方になってきた。

 逆に冬希は、素人のように無心に攻めてきた。自玉を囲う手間すら惜しんで、とにかく藤田を攻め続けた。

 結果、大駒とほとんどの金駒を藤田に取られ、歩や桂馬、香車だけになったが、それでも細い攻めを繋げて、必死に攻め続けてきた。

 藤田は、盤面を見る。あの時、冬希が諦めずに藤田を攻め続けた、あの局面より、全然今日の盤上の方が、余裕があった。諦めるには、まだ早すぎる。

 そして藤田は、あの対局の中で、冬希にやられて嫌だった手を思い出した。

 それは、こちらの王様の逃げ道にあたる位置に、あらかじめ香車を打っておくという手だった。

 藤田と冬希の形勢を考えれば、絶対にそこに逃げなければならない局面にはなりようがなかったのだが、それでも藤田は、嫌だなと思った。

 藤田は、山本に嫌がらせをしてやろうと思った。

 冬希同様、山本の玉の逃げ道がある方向に、自身の駒台にあった香車を打った。

 なんでもない手だ。だが、藤田は少し面白いと思った。

 藤田の表情は変わらない。しかし、雰囲気がガラリと変わったように、と録係の1年生には見えていた。

 山本も同様のようで、顔を歪ませ、将棋盤を睨みつけている。

 嫌な手だと思っているようだ。そして、どこか吹っ切れた様子の藤田も気になっているように見える。

 無視して、一気に藤田の玉を寄席に行けば、勝っていたのかもしれない。しかし、得体の知れない、不気味なこの一手が、山本高校生王将のコンピュータを少しずつ狂わせていった。


 夕暮れ時、冬希が公園のベンチで池に浮かぶスワンボートを眺めていると、白いワンピースにジーパン姿の女の子が、冬希に目の前に立っていた。

「待った?」

「今来たところ」

「じゃあ貴方は約束の時間より30分は遅れているじゃない」

「遅れて来たのは君だけで、俺は本当は1時間前からここに居たの!」

 暑い中、待たせるのは忍びないと、早めに公園に来てみれば、そんなのは全くの杞憂で、優子はむしろ堂々と遅れてきた。

「女の子は準備に時間がかかるの。似合ってる?」

「似合ってるけど、白いワンピース何着持ってるの?」

「4着かな。褒められたって言ったら、お姉ちゃんずがそれぞれ買って来てくれた」

「そうか」

 冬希は苦笑した。

 姉たちとの関係は、少なくとも改善されたようだ。むしろ、姉たちは平常運転で、妹が一方的に二人の姉に対するコンプレックスから、冷たく当たっていたのだろう。

 優子は、ベンチの冬希の隣に座った。

「鈴木さん、レーシングスクールを受講するらしい。藤田さんは、昨日の対局でタイトルホルダーに勝ったって言ってた。情報源はお姉ちゃんず」

「すごいな」

「二人とも、貴方にお礼を言っておいてくれって」

「俺、何かしたっけ」

 考えてみるが、全く心当たりがなかった。

「そうそう。これ」

 冬希は、優子に原画用紙の束を返した。

「ありがとう。これが必要になってたところだったから助かる」

「必要?」

「バイト先に提出する。アニメスタジオでアニメーターを臨時で募集してた。有名なアニメ監督なんだけど、独立して自分のスタジオを作った。新人を登用したりして人を集めていたけど、人が足りなくなって、募集がかかっている。夏休み期間中だけでもやってみようと思って」

「なるほど」

「今の自分だと、全然描くスピードが足りないと思う。でも、やってみようと思う」

「いいね」

 冬希は、心から嬉しかった。雛鳥が飛び立つ姿を見る親鳥も、こんな気持ちなのだろうか。

 優子は、冬希の表情をみて満足そうにしている。

「世の中には、アニメと聞いただけで、馬鹿にしてくるような連中もいる」

 優子は、少し悲しそうな表情をした。

「そんな奴らは、ろくな大人にならないし、きっとゴミ捨ての曜日も守らない」

「偏見がひどいな!」

 優子は、くすりと笑った。本人は気にしているようだが、笑顔が似合う。

「貴方は、死んでる」

「えっ、うそっ」

「間違えた、目が死んでる」

「どちらにしてもあまり良くないな!」

「気持ちが沈んでる気がする」

 冬希は、そうかも知れないと思った。母を失った郷田に対して、何も恩返しができない自分を、どこかで責めている節がある。もしかしたら、春奈が居なくなってしまったことも影響しているのかも知れない。

「藤田さんが貴方のことを言ってた。クサい人間だって」

「え、うそっ!?」

 冬希は、慌てて自分の体の匂いを嗅いでみた。

「間違えた。人間臭いところがある、だった」

「似てるけど、全然意味が違うからね!?」

「自分に自信を持ちきれないところとか」

 冬希は、何も言えなかった。

「でも、謙虚さと、消極的なのは、全く違う話だから」

 優子の言う通りだと、冬希は認めざるを得なかった。

「ふゆき・・・くん」

 冬希は、名前を呼ばれて驚いた。優子から名前を呼ばれたのは、初めてのような気がした。

「君には、きっと人を動かす何かがある気がする。他人に良い影響を与える人なんだと思う。知らんけど」

「最後の一言で台無しだ!」

「もっと自分に自信を持って行動してほしいと思った。消しゴムカスで練り消し作りながら思った」

「最後の情報は必要なの!?」

 冬希は、ふうっと小さく息をついた。

「でもありがとう。迷っているたことはあるんだけど、君の言うことを信じて、どうせなら積極的な方を選んでみるよ」

 冬希は立ち上がった。

 自分が人を動かすなんて嘘だ。鈴木、藤田、そして優子の方が自分に力をくれるのだと思った。

「君じゃない。優子」

「えっ」

「名前で呼んで」

 冬希は一瞬面食らったが、確かに名前を呼ばないと言うのは、それはそれで失礼なことなのかも知れないと考えた。

 優子は、顔を真っ赤にしながら言った。

 照れている。そして、勇気を出して言ってくれたのだろう。

「わかったよ。優子・・・さん」

 冬希も照れてしまった。

「せめてちゃんで」

「優子ちゃん」

「よろしい」

「送って行こうか?」

「一人で帰れる」

 優子は、ベンチから立ち上がると、背を向けたまま

「ばいばい」

 と言って、歩き去っていった。

 冬希は、自分がやるべき道を、示してもらった気がしていた。


 優子は、冬希に背を向けたまま、すぐ近くの自宅であるタワーマンションへ向かって歩いた。

 にやけた顔を、冬希に見られないように。

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