第238話 華やかな世界
電車とバスを乗り継いで、冬希と優子はエースリーサーキットというカートレース場にたどり着いた。
サーキットとはいえ、冬希がレースで走った袖ヶ浦や筑波に比べると、広さは数十分の一程度しかない。
高速道路と森に囲まれ、大して広くない土地ではあったが、その土地を最大限に活かしたコースレイアウトとなっている。
レース上の周辺には、複数のエンジン音が鳴り響いていた。
オイルの焼ける独特の匂いが漂っている。
冬希と優子がサーキットのピットに辿り着くと、鈴木瀬名がカートを降りるところだった。
「やあ、来たね」
上の姉が、連絡をしてくれていたようだ。
鈴木は、既に外しているヘルメットにフェイスマスクを入れると、キャンプ用の折りたたみ椅子の上に置き、上半身だけレーシングスーツを脱いで、袖を腰の前で結んだ。
レーシングスーツの下に現れた上半身はTシャツ姿だが、汗でびしょびしょになっている。
鈴木は、顔から滴り落ちる汗も拭わずに、カートを高さ1mはあろうかというカートスタンドに乗せようと、カートの前部分を持ち上げようとしていた。
「手伝います」
冬希は慌ててカートの後ろ部分を持ち上げる。
二人でカートをスタンドの上に乗せた。
「ありがとう、青山君」
「鈴木さん、普段はどうやっているんですか?」
冬希が持った感じでは、重く大きなカートは、とても一人でカートスタンドに乗せられるようなものではなかった。
「カートの前の部分をガードレールに立てかけて、後ろを持ち上げてスタンドを滑り込ませるんだよ」
鈴木がカートの前を持ち上げていたのは、そういうことだったのか。
コース上は、今度はミニバイクの走行が始まっていた。時間帯によって、走行できる車種が決まっているようだ。
「なんのおもてなしもできないけど、自由に見学して」
鈴木は、軍手をつけて、そのままカートの整備に取り掛かった。
パーツクリーナーでチェーンについて汚れを拭き取った後、専用のスプレーで糸を引くまで油を差す。
それが終わると、ポリタンクのようなもの手に取った。
最初は、普通のポリタンクに見えたが、内部で2つに分かれている。二つある口の、小さい方の口にオイルを注ぐと、2つに分かれた小さい方に溜まっていく。
タンクについているメモリの、一定の位置に来ると、オイルを注ぐのを止め、今度はガソリンの携行缶で大きい方の口にガソリンを注ぐ。
こちらもメモリの一定の位置まで入れる。
ポリタンクの2つのキャップを締め、タンクを傾けて、オイルとガソリンを混ぜると、ポリタンクを振り始めた。
「なにをやっているんですか?」
優子が、鈴木に尋ねた。
「混合ガソリンを作っているんだよ。このカートのエンジンは、2ストロークと言って、ガソリンにオイルを混ぜたものを燃やして走るんだ。一般の車は、4ストロークと言って、ガソリンとオイルを別々に補充するんだ」
「危険じゃないんですか、そんなことまで、自分でやるんですか?」
優子の言いたいことは、冬希にもなんとなくわかった。
自動車のレースというのは、TVなどで見る限りは、多くのスタッフがいて、ドライバーはかっこいいレーシングスーツとカラフルなヘルメットをつけて、爽やかに手を振っているイメージだ。
しかし、目の前にいるのは、汗と油まみれになり、一人で持ち上げられないカートを悪戦苦闘しながらスタンドに乗せたり、自分で燃料を配合している高校生だった。
ポリタンクからカートに混合ガソリンを給油した鈴木は、右側の前輪の前で立ち止まった。
「このタイヤはもうダメだな」
冬希が近づいてみてみると、表面が剥がれかけ、その下にワイヤーが見えている。
カート上のスタッフらしき人が通りかかり
「普通はそんな状態になるまで走らないよ」
と鈴木に言って歩き去っていった。
「またオークションサイトで中古のタイヤを買わなければ。バイトのシフトを増やさないとな」
鈴木は、スポーツバッグの中から、料理に使うラップが巻かれた4本のカート用のタイヤを取り出した。
「タイヤって、そんなに頻繁に交換が必要なんですか?」
「必要にならないように走るようにはしているけど、やはり限界はあるからね」
鈴木は、カートからホイールを取り出し、ビート落としという道具でカートからタイヤを外していく。
冬希がタイヤを見てみると、ロードバイクのタイヤと違い、チューブなどは無かった。
電動の空気入れを使い、内側から空気圧でタイヤの縁を押し出し、ホイールに綺麗にはめていく。
鈴木が軍手で汗を拭うたびに、鈴木の額が黒く汚れていく。
その様子を、優子は黙ってみていた。
燃料で動くエンジン、スピードが出る車。カートレースというものが、お金がかかりそうなものだという印象は、優子にもあった。
しかし、優子は当たり前のように親が金を出してくれて、手伝ってくれる仲間がいて、鈴木自身は華やかにカートを運転するだけという、そんなイメージで見ていた。
「お金、自分で出してるんですか」
「ああ、自分が好きでやっていることだからね。親からも、自分でお金を出してやるからということで、許してもらったんだ。でもレースに出る時は、父がサーキットまでカートを乗せて送ってくれる。それだけで十分だよ」
優子は、親からもらったお金でトレース台を買い、タップを買い、原画用紙も買った。
無論、アルバイトなどやってことはない。
優子は、胸が締め付けられるようだった。
「そろそろ出るよ。走っているのを見ていくといい」
無事にタイヤのついたホイールをカートの車体に取り付けた鈴木は、レーシングスーツを着直すと、フェイスマスク、ヘルメット、グローブを装着する。
「手伝います」
冬希はカートを降ろそうとする鈴木の反対側に周り、二人でカートをスタンドから下ろした。
コースでは、親に付き添われた小学生ぐらいの子供が乗る小さめなカートが3台と本格的に活動していると思われる大人のレーサーのカートが1台走っている。直前に走っていたレンタル用のカートなどとは比べ物にならない速さだ。
鈴木は、3台のカートがホームストレートを通り過ぎた後、手を挙げながらピットからコースに入っていく。コースを走っている人たちへの合図だ。この辺りは周回コースを試走する時の自転車ロードレースでも同じだ。
コースに入った後、鈴木はコースを2周ほどするが、そのスピードはとても速く走っているようには見えず、ホームストレートで子供たちに抜かれていった。
手で合図して子供たちを先に行かせた鈴木は、少しずつスピードを上げ、抜いていった3台のキッズカートにあっという間に追いついた。
しかし、追いつくとすぐに距離を空けて走り、ホームストレートで1台ずつ抜いていく。それを繰り返していった。
大人の駆るカートは、子供たちを蹴散らすように走っている。
「すごい」
冬希は感嘆の声が漏れた。
大人のドライバーが乗るカートは、コース上の赤と白で塗装された縁石にギリギリ限界まで乗り上げて、なるべく最短距離を、直線的に走ろうとしている。時には、ガリガリと音を立てながら、そしてタイヤを滑らせるドリフトで、どんどんタイムを更新していく。
それに対して鈴木のカートは、タイヤが全く縁石に乗ることもなく、タイヤを滑らせることもない。とてもスムーズで、早く走っているようには見えないのだが、ダイナミックに走る大人のカートより圧倒的に早かった。
大人のカートは、積んであるエンジンは鈴木のカートと同じ形をして居る。しかし、全く別物のように、鈴木の方が早い。またホームストレートで、手を上げながら軽く大人のカートを抜いていった。
走行時間を終え、コースから戻ってきた鈴木に、冬希は走り方について聞いてみた。
「縁石に乗ると、シャーシが痛むから。ドリフトしないのは、タイヤが勿体無いから」
鈴木は、カラカラと笑っている。
「壊れると、修理にお金がかかるからね。無理はしないようにしてるんだ。レースでは、新しいタイヤをつけて走ることもあるんだけど、年間何戦もしないといけないからね。1戦でも長く使えるように、細心の注意を払ってる」
「鈴木さん、全力で走ったことはあるんですか?」
「僕はいつも全力だよ」
全力と言っても色々ある。鈴木は、車を壊さないように、そしてタイヤを摩耗させないように。その範囲で1番速く走れるように、全力を尽くしているのだ。
「すみません。聞き方が悪かったですね。タイヤの消耗を気にしないで走ったら、どのぐらい速いのですか?」
鈴木は、一瞬意外そうな顔をしたが、しばらく考え込んで言った。
「そういう風に走ったことがないからわからない・・・」
戸惑っている様子の鈴木を見て、冬希は、不思議な人だと思った。
「青山君。君は僕をよくわからない人を見るような目で見ているが、僕からすると、君も十分そうなんだよ」
「俺ですか?」
「じゃあ聞くが、君だって、自転車ロードレースでプロの選手と用意ドンで1km走ったら、勝てるのかい?」
今度は冬希が返答に窮する番だった。袖ヶ浦でプロの選手達と走りはしたが、勝ったのは露崎だし、1kmという条件もよくわからない。
「わからないですね」
そういう状況にならないければわからない。逆に質問され、自分も馬鹿な質問をした、と冬希も気づいた。
「だろ」
冬希と鈴木は、声を上げて笑った。
「青山君、国体には出るのかい?」
「選手に選ばれれば出ると思います」
「君が出てくれれば、千葉県は優勝間違いなしなんだろうけどね」
「インターハイが終わって、どこの学校でも世代交代が進みます。新しい、実力のある選手達がどんどん出て来ます。まだまだわかりません」
冬希と鈴木は意気投合し、次の走行時間が始まるまで、話し続けた。
カートレースと聞いて、華やかな世界を想像していた。
しかし、レースクイーンがパラソルを持ち、レーサーの側に立つなどという華やかな世界は、目の前には存在し無かった。
優子は、オイルの焼ける匂いの中、黒く汚れた穴の空いた軍手、表面の剥がれたタイヤを見つめていた。
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