第216話 楽しい時間は終わった

 風邪をひいて3日ほど寝込んだ翌る日、冬希は課題を片付けるため、学校へと向かった。まだ体調が完全ではないため、電車とバスを乗り継いで行った。

 誰もいない教室で、溜まった課題と向き合う。

 情報技術の課題で、WEB上に公開されているECサイトの画面遷移図を3サイト分作らなければならなかった。

 ひたすら根気のいる作業で、体調を崩している間も少しやったが、夕方までやっても、まだ1サイト分もまとまらなかった。

 冬希は、教室の時計で時間を確認すると、ノートPCを閉じて、鞄にしまった。

 18時に、春奈との待ち合わせがあった。


 学校の裏側には、利根運河が流れている。

 運河に面したところにベンチと藤棚があり、冬希と春奈は、1学期の間、よく二人で昼食を取っていた。

 冬希が待ち合わせ場所に向かっていると、練習を終えた運動部の生徒たちとすれ違う。運河沿いの遊歩道は、運動部員たちのランニングやシャトルランに使用されていた。

 冬希が、運河沿いの待ち合わせ場所に着いた。まだ待ち合わせの10分前だ。

 しかし、そこには既に春奈がいた。

 春奈は、ベンチに座り、そこから見える景色を愛おしそうに見ていたが、冬希の姿を見ると、ヒラヒラと手を降ってきた。

 冬希が歩み寄っていくと、春奈は立って迎えてくれた。

 冬希は、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。

「早いね」

「冬希くんもね。もう体は大丈夫なの?」

「ただの風邪だったから」

「そっか」

 冬希は、春奈の立っている横に座ると、春奈も冬希の隣に座り直した。

「ここから見る景色が、好きなんだ」

 春奈は、優しい表情で運河の方を見つめた。

「ボクは、この学校も本当に好きなんだよ」

 冬希は、春奈の横顔を見つめる。

「でも、ボクは学校を辞めることになると思う」

 冬希は、春奈を見つめていた目を見開いた。咄嗟に言葉が出てこない。

「・・・どうして」

 なんとか声を絞り出す。身体中が声を出すことを拒否しているかのようだった。引き返せない何かが始まろうとしていることを感じ取っているかのようだった。

「ドイツに行くんだ」

 春奈はベンチから立ち上がり、ベンチから遊歩道に続く飛石の上を数歩あるいて前に出た。

「中学の頃にお世話になっていた乗馬クラブの先生の知り合いに、オリンピックに出たこともある有名なトレーナーさんがいて、研修生として来ないかって」

 春奈は、冬希の方に振り返る。

「すごい先生なんだよ」

 春奈は、えへん、と得意げな顔をしているように見えた。

「いつ行くの?」

「明日の朝一の便で。実はもう今日準備終わってるんだ」

 春奈は、急に寂しげな表情になった。

「・・・急なんだ」

「本当は、もうちょっと前に話すつもりだったんだけど」

「ごめん・・・」

 インターハイや、それが終わった後の風邪で話す機会を奪っていたのは自分の方だ、と冬希は思った。

「ううん、インターハイの前の時は、実はまだ決めきれなくって、冬希くんに相談しようと思ってたんだ」

「相談?」

「うん、でも、インターハイを走ってる冬希くんを見ていると、自分が許せなくなってきて」

 春奈は、再び冬希に背を向け、運河の方を向いて、次に空を見上げた。空は茜色に染まっていた。

「中学の時に落馬して怪我をして、怖くて馬に乗れなくなって、このままずっと惨めな気持ちで高校生活を送っていくんだと思ってた」

 春奈は、少しの沈黙ののちに言った。

「そんな時、冬希くんに会ったんだ」

 

 入学式の時、春奈は自分に自信を無くしていた。

 新入生代表のスピーチを任されておきながら、怖くて動けなくなってしまっていた。そんな中、心配そうに声をかけてくれたのは、クタクタの学ランを来た、パッとしない男の子だった。

 入学式に出遅れたと言って、諦め切った表情で笑っている顔を見ると、なんだか少し安心した。

 クラスでは、春奈は他の女子たちとの間に壁を感じていた。話しかけてくれる子は多かったが、気の置けない友達になるという感じではなかった。

 春奈は、昼休みが楽しみだった。

 冬希と、この場所で食べる昼食は、どんな食事よりも美味しく感じた。

 全国でも活躍する選手となりながらも、冬希は変わらなかった。日本最強のスプリンターなどと言われながら、購買での競争に敗れてパンが買えず、ハーフサイズのカロリーメイトを握りしめてむせび泣く姿も、春奈の心の中の宝物だった。

 

「冬希くんと一緒に毎週自転車に乗って、足も怪我する前より調子良くなって、でも、まだちょっとだけ勇気が足りなくって」

 春奈は一瞬言葉に詰まった。

「でも冬希くんは、絶対に勝てないと言われてた相手にも、ボロボロになりながら戦いを挑んで・・・勝っちゃったんだ」

 春奈は、振り向いた。

「冬希くんありがとう、ボクはドイツに行くよ」

 春奈は、泣いていた。


 冬希は、堪らずに春奈に向かって駆け出していた。

 春奈も、冬希の胸に飛び込んできた。

「ずっと、冬希くんと一緒に居たかったよ」

 春奈は、冬希を抱きしめながら声を上げて泣いた。

 ここに残れば、きっと楽しい高校生活が送れたかもしれない。しかし春奈は、戦い続ける冬希に比べて、勇気のない自分を責め続けることになる。それは春奈にとって地獄の日々でもあるのだ。

「冬希くん、冬希くん」

 ずっと、レースでの出来事を面白おかしく話してくれる冬希の話を聞いていたかった。毎週、待ち合わせをして、江戸川のサイクリングロードを一緒に走りたかった。昼休み、毎日一緒に運河を見ながらお昼ご飯を食べたかった。


 冬希を抱きしめる手を緩め、春奈は冬希を見上げた。

 冬希も、春奈の目を見た。夕日に横顔を照らされる春奈は、壮絶に綺麗だった。

 春奈はそっと目を閉じ、冬希も目を閉じた。

 春奈の唇の間の濡れた感覚が、冬希の唇に残った。

「さようなら」

 春奈は、悲しそうに笑って、校舎の方へ去っていった。


 冬希は動けなかった。

 春奈の口づけが、冬希をその場に縛り付けていた。

 春奈を追うこともできず、後ろ姿を見送ることしか出来なかった。

「ちがうんだ・・・俺はそんなつもりで走ってたんじゃないんだ・・・」

 冬希は、死力を尽くして戦った。そのことが春奈の背中を押していた。しかし、冬希はそんなことを望んではいなかった。


 冬希は、あたりが暗くなるまで、一歩も動けなかった。

 ただ、涙も流れ落ちるままに、その場に立ち尽くしていた。

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