第164話 春奈の迷い

 春奈は、世田谷にある東京馬事公苑へ、春奈の馬術の先生でもある川口芙美子と来ていた。

 馬事公苑では、海外からの選手を招いて、障害馬術の大会が行われる。

 日本国内の乗馬クラブから、トップクラスの成績を誇る馬が選手たちに貸し与えられる、貸与馬の大会だ。

 出場選手に知己がいる芙美子がチケットを手に入れ、最前列の文字通り「砂被り」の位置から試合を見ることができる。

 春奈が怪我をした落馬については、芙美子も少なからず責任を感じていた。

 普段なら、障害を拒絶したことがない馬だったのだが、初めて見た目玉とも蛾の羽の模様ともつかない、特殊な塗装が施された箱障害に馬が怯えてしまった。

 芙美子は、春奈が特別な素質を持った選手だと思っていたが、その怪我以降、乗馬クラブに顔を出さないようになってしまったことで、残念な気持ちになっていた。

 春奈から、怪我はもう大丈夫という連絡を受けた時、もう一度馬に乗るように芙美子が誘うより、実際に大会を見せた方がいいと芙美子は思ったのだ。

 今回の大会の障害の高さは、最大で150cmあり、春奈が今まで飛んだことのある最大の高さが120cmなので、30cmも高いことになる。さらに、障害の種類、コース設定を考えると、世界トップクラスの選手たちが腕を競い合うのにふさわしい難易度になっていた。

 いざ、競技が始まると、春奈は夢中になって競技に見入った。

 12個ある障害の中の、11番目がトリプルと呼ばれる、直線上に置かれた3つの障害で、11A、11B、11Cと書かれた札が障害手前に置かれている。この3つの障害で1障害扱いなのだが、ほとんどの選手が2番目の障害に後ろ脚を引っ掛けて、落としてしまっていた。

 1つの障害を落とすたびに、4点減点され、1番減点の少ない選手が優勝なのだが、今の所、減点0の選手はでていない。

「川口先生、みんなトリプルの2つ目で落としてますね」

「ええ、後ろ脚を引っ掛けるということは、少し踏み切りが近いのではないかしら」

 それは、春奈も感じていたことだった。ジャンプへの踏み切りが遠ければ、前脚を引っ掛ける。近ければ、後ろ脚を引っ掛けてしまう。これまで全員が落としているということから、これは技術の問題ではなく、コース的に11Aと11Bの間隔が故意に狭く設定されているのだろうと思った。

 6番目の選手が入場してきた。

 ドイツの女性の選手だ。春奈は、その乗馬姿勢に見惚れていた。

 カミラ・ベルクというその女性選手は、入場するとトリプルのAとBの間を通り、審判席の前まで来て、敬礼をした。

 競技開始のベルがなり、スタート地点へ向けて、駈歩を開始する。

 美しい、と春奈は思った。背筋はピンと伸び、鐙は長すぎず、短すぎず、かかとからつま先は地面と並行の位置にあり、短く持たれた手綱で馬は頭を地面と垂直に保っている。

 春奈が乗馬をやっていた頃、理想としていたフォームそのものだった。

 カミラは、ジュライ号という馬を駆り、次々の障害をクリアしていく。

 150cmの障害を飛越しているのに、春奈にはそれが1m程度の障害を飛んでいるように見えた。それほど、飛越姿勢は安定していたし、着地も綺麗だった。

 問題のトリプルに差し掛かった時、カミラは1つ目の障害Aを軽く飛越した。そして2つ目に差し掛かった時、手綱を引っ張り上げた。馬は、上に高く飛び、見事障害を超える。とんでもない技術だ。

 全ての障害を無事に飛越して、カミラは単独トップになった。

 春奈は、カミラが馬場から出て行くまで、拍手を続けた。


 結局、20人が競技を終えて、3人が減点0で並んだ。

 ここからはジャンプオフと呼ばれる同点決勝競技が行われ、12あった障害が7個に減らされ、高さも10センチずつ上げられ、160cmになった。

 カミラは1番手で出場し、これを減点0でクリアした。

 残りの2選手は、日本人とフランス人の男性で、減点0でクリアした上に、タイムでもカミラを上回らなければならない。

 日本人選手は、オリンピック出場経験もあるベテランだったが、タイムでカミラを上回ろうと、小回りでコースを回ろうとして勢いが足りず、1落下で減点4。

 フランス人選手は、一か八かの勝負に勝ち、減点0でタイムもカミラを上回って優勝した。

 ジャンプオフは、最初の選手が目標にされるため、順番が後ろの選手が有利になる。順番が逆なら、カミラが優勝していた可能性は十分にあった。


「ほんっとうに凄かったです!」

 春奈は興奮気味に、芙美子に語った。

 馬術では、男女差がなく、同じ競技で争うことになる。春奈にとって、カミラは理想そのものだった。

「実は、今日のチケットをくれたの、カミラなの」

「え?」

「この後、カミラはうちの乗馬クラブに来るんだけど、貴方が乗るところを見てもらわない?」


 春奈は、約半年ぶりに乗馬クラブを訪れていた。

 鞍が置かれているプレハブ小屋に入る。春奈が両親に頼み込んで買ってもらった障害鞍がカバーを付けられた状態でおいていあった。

 春奈は、恐る恐るカバーを外してみる。埃をかぶり、カビが生え、ひび割れがしているのではないかと想像していたが、そこには丁寧に手入れされた痕跡のある、ピカピカの鞍があった。

「先生・・・」

 春奈にはわかった。芙美子が手入れをしてくれていたのだ。春奈が帰ってくると信じて。

 春奈は、自分が乗る馬の馬装を行う。

 馬は、ウエスタンブルーという牡の14歳で、春奈も初心者の時からお世話になっている、大人しい馬だ。

 馬房から出たばかりのブルーの蹄を裏ぼりしておが屑を取り除き、丁寧にブラッシングしていく。

「ブルちゃん、久しぶりだね。元気だった?」

 春奈は、馬に話しかけながら、ピカピカになるまでブラッシングした。

 4本の脚全てにプロテクターを装着し、汗取りゼッケン、ボアゼッケン、ゲルパットを装着し、自分の障害鞍をのせ、軽く腹帯を締める。

「先生、準備できました」

「じゃあ、馬場に出て」

 春奈は、ヘルメット、グローブをつけてブルーの元に戻ると、腹帯を締め直し、頭絡をつけて、馬を馬場に出す。

 乗る前に、改めて腹帯をしめ、馬の方を向いて、鞍のあたりに立ち、そのままジャンプしてお腹で鞍の上に乗った。

 久々だが、前より届くようになった気がする。

 腹ばいのまま、向きを変え、頭が馬の首の方を向くと、体を起こして馬に跨った。

 久々なので、体が硬く感じる。

 春奈は、乗ったことで少し緩んだ腹帯を締め直し、そのまま並足で歩き始めた。

 クラブハウスの2階のテラスには、午前中に試合に出ていたカミラがいる。

 春奈は、片手で馬の頭を撫で、首を触り、尻尾の付け根を触る。馬上体操と言って、乗る人間の準備運動のようなものだ。

 体が、少しずつ感覚を取り戻した。

 速歩、駈歩と順番に行う。多少の恐怖心はあるが、体が覚えている。

 カミラが、英語で芙美子に指示を出す。春奈も少しだけならわかるが、障害を飛ばせてみろと言っているのだ。

 芙美子の指示で、乗馬クラブのスポーツ少年団の小学生、中学生が走って馬場に入り、障害を組み立てている。

 馬場の中央に、1m20cmぐらいの高さの障害の袖が4本置かれた。

「メーターのところでバッテン」

 芙美子が指示を出すと、少年団の子どもたちが、障害の袖の1メートルの印のところに障害を掛ける金具を取り付け、一本ずつ障害のバーを立てかけ、クロスを1つ作る。

「駈歩で入ってきて」

 春奈は、外側の足の踵を少し後ろに下げる。馬への駈歩の合図だ。馬はゆっくりと駈歩を開始する。馬に準備をさせるため、1周の巻き乗りを入れて、障害に向かわせる。

 馬は、慌てることもなく、障害を飛んだ。というより跨いだ。

 馬に対して障害を飛べという指示はない。止められない限り、馬は向けられた障害を勝手に飛ぶ。人間のやることは、障害までの歩数を合わせることと、踏み切り位置を指定することだけだ。

「てっぺんでクロス」

 芙美子の指示に、少年団の少年たちが、障害袖の1番高いところに金具を取り付け、先ほどより鋭角的なクロスを作る。

 これも、春奈は難なく飛んだ。

 着地後、逆側に馬を回らせる。先ほどは右手前で入ったので、今度は左手前だ。その辺りは、指示されなくても春奈は自分で判断する。

「メーター」

 芙美子が指示を出し、1mの高さにバーがかけられる。春奈は、丁寧に、そして馬の邪魔をしないように飛越する。特別な技術など持ってはいない。いかに馬の邪魔をしないかに気を付けてきた。

「上げて」

 少年団の子供たちが1つ障害の高さを高くする。10cm上がって、110cm。春奈は、馬を障害に向かわせる前に、歩幅を調整し、踏切位置を微調整した。

 やはり楽しい。春奈は思う。もうカミラが見ていることなど関係ない、春奈には馬の頭と、その両耳の間から見える障害しか見えていなかった。

「オクサー」

 芙美子がいうと、障害の奥の袖にもバーがかけられた。奥行きがある。

 障害に向けた瞬間、ブルーが少し障害に向かって加速しそうになったのを、春奈は手綱をほんの気持ち数ミリ程度握って落ち着かせ、これも丁寧に飛越した。

 テラスで見ていたカミラが、OKと言った。


「いやー、お疲れ様。頑張ってくれてありがとうね!」

 春奈は、ウエスタンブルー号を洗いながら、感謝の言葉をかけた。ブルーは気持ちよさそうに、下唇を半開きで洗われている。目もうつろだ。気持ち良すぎて寝そうになっている。

 馬を洗い終えると、芙美子から、上がってきてという指示があった。

 春奈はテラスに上がると、芙美子とカミラがいた。

 芙美子は、昔カミラのステイブルで技術的なことを習っていたそうだ。現在では、請われて今の乗馬クラブにいるが、本業は海外から馬を仕入れてトレーニングして、国内の馬術選手や乗馬クラブに売るということをやっている。今では高級外車を乗り回しているぐらいだから、かなり稼いでいるのだろう。

 英語はわかるか、とカミラに聞かれたので、春奈は少し、と答えた。

 カミラの話はこうだ。上半身の動きが少し硬かったけど、それは久しぶりだからだろう、素晴らしいのは、拳が柔らかいこと。手首、肘に不要な力が入っていないため、馬の口を全く邪魔していない。後、下半身が安定している、ということだった。

 そして、カミラは最後にこう付け加えた。

 ドイツの私のステイブルの研修生として来ないか。馬の世話をしてもらいつつ私が乗馬を教えよう。給料も少しだけど出る。芙美子も貴方と同じぐらいの歳で来ていた、と。


 春奈は、少し時間が欲しいと答えて帰路に就いた。

 今日は、久々に馬術の試合を見られるという、それだけのつもりで来た。

 しかし、実際には乗馬クラブに戻り、久々に障害を飛越し、自分が理想とするカミラという選手に見てもらうことができた。

 そして、彼女の元へ、研修生としていくことを勧められた。

 春奈は、将来的には馬術に携わる仕事をしたいと思っていた。世界に通用する選手になるためには、海外に出て世界的に有名な選手のもとで技術を磨く必要があり、20代ぐらいでそうなれればいいと思っていた。

 カミラは、彼女自身も有名選手であり、世界的にも有名な選手を何人も育て上げた、伝説的なトレーナーだという。そんな選手からの誘いは、春奈にとって夢のような話のはずだ。

 だが、突然すぎた。怪我をして、今日まで一度も馬に乗ってなかったのだ。

 それに、冬希とのこともあった。

 春奈は、今の生活をとても気に入っていた。冬希と出会い、馬術をしていなくても、毎日楽しいと思えるようになっていた。

 以前なら、カミラの誘いに飛びついただろう。両親も、何がなんでも説得したはずだ。

 だが、簡単に決断できないほど、今の生活を楽しいと思うようになってしまっていた。

「どうすればいいと思う?冬希くん・・・」

 春奈は、電車の車窓から、すでに暗くなった外を見ながら、1人呟いた。

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