第163話 荒木真理

『今週末、ちょっとお出かけすることになって』

 スマートフォンに、春奈からのメッセージが届いた。

 全日本選手権で不在だったため中断していた土日の春奈とのサイクリングも、疲労が蓄積して調子を落とした冬希が練習量を減らしたのもあり、まだ再開できていなかった。そろそろ再開しようかというタイミングだったが、春奈は春奈で忙しいようだ。

 最近は、昼休みも放課後も、新しくできたという友達と図書館で勉強しているらしく、昼食も冬希は、部室で柊や潤たちと食べている。

『お友達と勉強?』

 あまり深く詮索する気もなかったが、話の流れで質問してみる。

『乗馬クラブの先生と、東京馬事公苑である国際大会見に行くことになったの。楽しみ!』

 なるほど、と冬希は思った。

 元々、春奈が自転車に乗り始めたのは、怪我をした膝のリハビリが目的だった。

 冬希には、最初から特に春奈が故障を抱えていたようには見えなかったが、普段の私生活のレベルと、スポーツをするレベルでは、やはり影響が変わったくるのだろう。

 乗馬を離れていた春奈がそこに戻っていくのは、自然なことであり、良いことだと冬希は思った。

 最近、春奈と会う機会は減っているが、今までは冬希がやりたいことや、やるべきことに対して、時間がある春奈が付き合ってくれているという感じが強かった。春奈は春奈で、やるべきことややりたいことに注力すべきだ。

 春奈が最近一緒に勉強しているという友達のことも、冬希は知らない。

 図書室に行けば会えるのだろうが、そもそも勉強を邪魔しに行く理由がない。そのうち会う機会もあるだろう。

 冬希は、呑気に考えていた。


 猛勉強の末、神崎高校に合格することができた荒木真理は、順風満帆というわけではなかった。

 中学時代は、学校でもトップクラスの成績だったが、神崎高校には、県の内外から同等のレベルの入学者が集まっており、合格ラインスレスレで入学した真理は、勉強面でずっと苦労し続けることになった。

 授業について行くのも難しく、かといって家族に助けてもらえるようなレベルの内容でもない。

 吹奏楽部に入部したものの、他の部員たちは、中学時代やもっと子供の頃から楽器をやっていた生徒も多く、花形のフルートやクラリネットなどは、自分の楽器を持っている生徒で占められ、初心者の真理は、吹奏楽の中ではどちらかというとオプション的な楽器に位置する、ファゴットの担当となった。部から貸し出してもらえる楽器だったからだ。

 ファゴットは、部内でも教えてくれる人も少なく、部活面でも苦労し、勉強面でも苦労していた真理は、次第に暗く沈んでいった。

 そんな真理にとって、自転車競技部で活躍する冬希は、とても眩しかった。

 吹奏楽部で福岡まで応援に行った日、いきなり全国優勝した冬希に、吹奏楽部の部長は涙を流した。

 神崎高校のように大規模な吹奏楽部では、1年生の未経験者が部長と話す機会など、ほとんどない。そんな存在である部長が、自分の中学時代の同級生の活躍に感動するということについて、真理は嬉しくもあり、今の自分が情けなくもあった。

 次第に真理は、意図的に冬希に会わないように気をつけるようになった。

 今の情けない自分を見せたくない。こんな自分では、冬希に会えない。

 冬希が、そんなことで自分を見下したり、失望したりするような人間ではないことは、中学時代に仲の良かった真理にも十分にわかっていた。だがこれは、真理自身の個人的なプライドの問題なのだ。

 ある日、今の成績を維持することで精一杯の勉強を、真理が図書室で続けていると、1人の女子生徒が現れた。

 学年で1番有名な子かもしれない。浅輪春奈。入試トップで入学し、顔立ちの美しさだけではなく、ひとの目を惹く魅力を兼ね備えている。しかも、最近では冬希と付き合っているのではないかと噂になっている。

 彼女はあまりに高嶺の花であり、彼女にアプローチする男子はおらず、生徒会に誘っていた生徒会長も、冬希と春奈の仲が噂されるようになってからは、彼女にちょっかいを出さなくなっていた。

 真理は緊張して、すぐに片付けて帰ろうとした時に教科書を落としてしまい、それがきっかけで春奈と話をするようになった。

 勉強に困っているという話をすれば、一緒に勉強しようと誘ってくれて、昼休みもクラスまで来てくれて、一緒にご飯を食べ、その後は図書室で勉強に付き合ってくれていた。

 彼女は、友達が多いのではないかと思っていたが、そういうものでもないらしい。入学当初は女子グループのようなものに誘われたりもしたらしいが、本来気まぐれらしく、自由に行動したいということで、そういうものとは距離を置いているそうだ。

 春奈と真理の関係は、ベタベタした友情とは違う、ただ一緒にいると勉強が捗るし、1人でいるより落ち着くというレベルのものだった。

 だが、真理からすれば、春奈から一方的に得るもの多く、春奈に迷惑をかけているのではないかという心配があった。入学以降、後ろ向きになった気持ちは、7月までの長い期間で真理の心に根を張ってしまい、簡単には剥がれなくなってしまっていた。

 春奈はあっけらかんとしており、そんなことを気にしている様子はない。だが、真理は自身の暗い気持ちから抜け出せずにいた。


 土曜日の夕方、春奈は用事があるといって来れなかった図書室で、真理は1人勉強を終えた。

 1人では、春奈と2人でやっていた時ほどは集中できなかった。何から何まで他人に頼りきりだ。

 真理は、失意のまま、学校を後にした。

 自宅の最寄り駅で電車を降り、バス停に向かっていると、中年女性が自転車を倒してしまい、カゴに入っていた果物が地面に落ちて転がるのが見えた。

「大丈夫ですか?」

 真理は咄嗟に駆け寄り、果物を拾い集める。

 中学以前の真理は、そういったことを目の前にしても、どうしていいか分からなかったが、当時冬希が、そういった人を積極的に助けるのを見て、見習うようになった。

「あら、ありがとう」

 中年女性は、自分も落ちた果物を拾い集める。

「お礼にこれをあげるわ」

 女性は、真理が拾ってくれた分の果物をカゴから出し、自分が拾った分の果物も合わせて、真理に押し付けるように渡し、自転車に乗ってその場からそそくさと去っていった。

 真理は、しばらく呆然としていたが、落ちた果物を全て押し付けられたということに気がつくと、悲しい気持ちになった。

 別に感謝の言葉が欲しかったわけではない。落とした果物を持って帰りたくなかったのか、果物に他人が触ったのが嫌だったのか、本当の感謝の気持ちだったのか、その中年女性の心境はわからない。だが、事実として真理が拾った果物は、全て真理の両腕の中にある。それが何故かとても悲しかった。

 ポツリ、ポツリと雨が降り出し、次第に激しい夕立になった。

 両腕に果物を抱えた真理は、傘を出すこともできない。雨から走って逃げまどう人々の中、棒立ちになって動けなかった。

 ふと、自分の後ろから傘が差し出された。

 真理が振り返ると、そこには冬希が立っていた。

「荒木さん、風邪ひくよ」

 冬希は、真理を促すと、商店街の銀行の軒下に移動した。銀行は15時までで既に閉店している。

「まずはそれをなんとかしないとね」

 冬希は、自分の部活用のスポーツバッグを開けると、そこに全ての果物を入れさせた。ようやく真理の両手が自由を回復した。

「冬希君」

 冬希は表情だけで、なに?、と真理の方をみる。

 その冬希の優しい表情を見ていると、真理の両目から涙が溢れてきた。今の事だけではない。ずっと我慢し続けててきたものが、ダムが決壊したかのように流れ出て来た。

 既に雨で顔も制服も濡れているから、バレないかもしれないと、真理は思ったが、そんなはずもない。

「私、なにをやっても上手くいかないんだ」

 冬希は、黙って聞いている。

「部活も、勉強も、他の子たちみたいに出来ないし。今みたいに、誰かの助けになりたいと思っても、冬希君みたいにかっこ良くできないの」

 一度流れ出した涙は、もう止めることができない。ごめんね、ごめんねと謝りながらも、嗚咽が止まらない。

 冬希は、スポーツバッグを置いて、真理の前に立った。

「荒木さんは、ちゃんと出来てたよ。勉強はわからないけど」

 冬希は、言葉を選びながら続けた。

「荒木さんは、困ってる人を放っておくことなんか出来なかったんだ」

 真理は、ハッとして冬希を見上げた。

「さっきのおばちゃんが、どう思ったかはわからないけど・・・少なくとも、1人で拾うよりは助かったと思う」

 冬希は、視線を泳がせながら、続けた。

「それに、福岡まで応援に来てくれたよね」

 真理には、冬希が照れているように見えた。

「吹奏楽部が応援に来てくれて、チームのみんなが勝負しようという気持ちになったし、荒木さんがあの中に居て、俺もやる気になったというか、決意が固まったというか。とにかく、あの日に勝てたのは・・・」

 真理は、冬希を見つめ、次の言葉を待つ。

「あの日は、荒木さんの為に勝負して、荒木さんのおかげで勝てたんだ」

 冬希がずっと動揺しているのが、真理にはわかった。全国トップクラスのスプリンターとして勝負している男がだ。

「あの日勝てたから、その後もずっと勝てていて・・・とにかくその」

 冬希は、大きく息を吐いた。

「今の俺があるのは、荒木さんのおかげなんだ。ずっと会えなくて、ずっと言えなかった。だから」

 冬希は、真理の目を見ながら言った。

「だから、少なくとも俺から見れば、荒木さんはダメなんかじゃない。優しくて、俺に勇気をくれた」

 夕立は、既に上がっている。

「荒木さんは、俺に良い影響を与えてくれる。俺の恩人なんだ」

 真理は、黙って冬希にしがみついた。

 抱きついたというより、文字通りしがみついている。

 真理の目から、また涙が流れ出した。それは、先ほどまでの悲しい涙ではなかった。

「冬希君」

「えっと、なんでしょう」

「あせくさい」

「それはほら、部活の後だから・・・」

「ちゃんと学生服洗濯してる?」

「え、学ランって洗濯するものなの?」

「きゃーっ!!」

 真理が慌てて冬希から離れる。

「違う違う、そういう意味じゃなくって。入学以降洗ってないとかじゃなくって!」

 冬希はしどろもどろになりながら弁明する。

「クリーニングに出してるから、お家で洗濯はしていないって意味!」

「なーんだ」

 笑顔の真理の顔に、既に涙はなかった。どこかしら見えていた陰はもうなく、中学時代の彼女に戻ったかのようだった。

「帰ろっか」

「家まで送るよ」

 2人並んで歩き出す。

「そういえば、最近、浅輪さんと勉強してるんだよ」

「え、春奈が最近できたっていってる友達って荒木さんだったんだ」

「へぇ、浅輪さんのこと、春奈って下の名前で呼んでるんだ」

「あ、いや、本人がそう呼べと言ったから」

「じゃあ、私のことも下の名前で呼ぶ?」

「え?いいの?」

「うーん、どうしようかな」

 夕空が真っ赤に燃える中。2人は失った時間を取り戻しながら帰っていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る