第157話 温泉行こうぜ
「少し乗るか?」
平良潤は、レースを終えて待機エリアに戻ってきた冬希に言った。
郷田の自転車は、既に柊がテキパキと手入れをして、輪行バッグに詰めようとしていた。
「はい、ただローラーではなく、その辺を走りたいですね」
レース直後は、両足に疲労物質が溜まっており、それを排出するために、ローラー台などで、軽く脚を動かすことが多い。ただ、せっかく景色が綺麗なところに来たのだから、ローラーで終わらせてしまうのは勿体無いと冬希は思った。
「じゃあ、いいところに行こうぜ!」
柊が、意地が悪そうな表情をして冬希を誘っている。何か良からぬことがある証拠だ。
「なんですか、絶対何か企んでるでしょう」
冬希も、そう簡単には引っかからない。
「柊、お前まさか・・・」
「そう!!」
潤には、柊が冬希をどこに連れて行こうとしているか、わかったようだ。
はぁ、と潤は小さくため息をついた。
「冬希、いいところに連れて行ってやる」
「実は昨日、柊と二人で今日のコース近辺を走っていた時に、凄い温泉を見つけたんだ。タオルを持ってなかったから入れなかったんだけど、いつかそこに行きたいなと話していたんだ」
潤の説明の中に、柊の悪巧み的な要素は含まれていないように思える。
「じゃあ、なんで柊先輩はこんな悪そうな顔をしているんですか?」
「実は・・・その温泉は屈斜路湖畔にあるんだ」
「おおい!!」
屈斜路湖は、今日の1つ目の山岳の藻琴峠と、2つ目の山岳の美幌峠の間にあった。
「また山を登らせるのかよ!」
全くもう、と言いながら、冬希は許可をもらうために神崎を探しに行くことにした。
律儀な男だ、と潤は思う。柊は、色々な悪事に冬希を巻き込もうとするが、冬希もなんだかんだで、柊の誘いを断らない。
「ああ、行っておいでよ。郷田君の自転車は、僕の方でホテルから発送しておくから」
大会の運営本部から解放された神崎は、ヒラヒラと手を振りながら、軽く許可を出した。
「君たちは、明日の朝の便で帰ってきてくれればいいから、ゆっくり楽しんでくるといい」
神崎は、冬希たちに、郷田が帰った理由を話さなかった。心配をかけたくなかった郷田が、言わないように神崎にお願いしたのだ。
「先生はどうされるのですか?」
潤が神崎に聞いた。神崎の口ぶりでは、今夜泊まるのは冬希たちだけのように聞こえた。
「ちょっと、奥さんと子供たちのお土産を買いに。後ちょっとした野暮用があってね」
札幌まで行くのだという。
「神崎先生」
「なんだい?」
「結婚してたんですね」
冬希が驚愕の表情をしている。柊もだ。
「冬希はわかるけど、柊も知らなかったのかよ」
何度もそれっぽいことを言っていただろうに、と潤はこめかみのあたりを押さえた。
冬希たちがやってきたのは、「コタンの湯」という露天風呂だった。
湖畔に男女別の脱衣所があり、そこから温泉に出ると、屈斜路湖を間近に見れる温泉へと出ることができた。
「本当にすごいところですね」
タオルを頭に乗せ、ぷかぷかと浮きながら冬希は感心した。
湯船、というか、岩で仕切ってある内側が温泉、外側が湖という感じだ。
「な、来た甲斐があっただろ?」
「それはそうなのですが・・・」
ホテルに戻るには、少なくとももう一度どちらかの峠を越えなければならない。疲労回復というより、もう1レース走らされているような距離だ。
とりあえず、帰ることを考えずに、この景色を楽しもうと冬希は思った。
「ここに来れただけでも、北海道まで来た価値があったな。柊の誘いにも乗ってみるものだ」
潤は、頭にタオルを巻いて入っている。首から上だけ湯ぶねから出している姿は、女の人にしか見えない。
厳しい戦いだった。2つの山岳を終えるまでは、本当に冬希は何も出来なかった。だが、それが良かったのかもしれない。先頭のクライマー集団のハイペースについて行こうとした選手たちは、ほとんど潰れてしまった。
最初からペースを守ると決めていたから、生き残れた。
その後、平坦区間で他チームの2名と協調できた。そして先頭集団が上手く回っておらず、思ったほど引き離されていなかったのも幸運だった。
板東は強かった。今日は郷田が勝ったが、冬希が坂東に勝つには、純粋なスプリント勝負に持ち込むしかないのだろう。まずは、スプリント力を取り戻さねば、と冬希は思った。
潤は、口まで湯船に浸けて、ブクブクと何か呟いている冬希を見て思う。
あの土壇場で郷田を先に行かせる冬希の判断力。普通のスプリンターは、ゴールが近くなると、自分がいかに勝つかという事しか見えなくなるものだ。おそらく坂東もそうだったのだろう。逆にいうと、だから冬希が郷田を先に行かせるという方法を採ることを、坂東は予測できなかった。
スプリンターであれば、自分が最も勝つ可能性の高い方法を選ぶ。冬希も当然そうだと思っていたからだ。
冬希は、性格的には総合1位を狙うオールラウンダーに向いているのではないか、と潤は思った。
冬希は、澄んだ空とその空を映す美しい湖の水面を、湯船にぷかぷか浮かびながら見ている。
柊は、手で水鉄砲を作り、湖に向かって発射している。
「おい、そろそろ上がらないか?」
もう随分な時間、温泉に入っているのに、二人とも一向に上がろうとしない。
女性側の脱衣所から、声がする。少し前に、バイクの止まる音がしていたので、ツーリング中の女性ライダーかもしれない。
「おい、もしかして」
そういえば、脱衣所は分かれているが、湯船には敷居もなく、女性用の風呂場と呼べるものがなかった気がしる。
すると、男性用脱衣所の反対側から、タオル1枚で体を隠した3人の女性が入ってきた。
「あ、先客がいた!」
「ごめんねー!」
女性たちはあっけらかんとしているが、冬希たちは、文字通り飛び上がった。
「失礼しました!!」
慌てて冬希、潤、柊の3人は男子用の脱衣所に逃げ込んだ。
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