第153話 全日本選手権⑥

 美しい緑に囲まれた、ほとんど平坦な道を佐賀大和高校の坂東輝幸と天野優一は、均等に先頭交代を行いながら進んでいた。

 風は、少しずつ向かい風になってきた。坂東も天野も、姿勢を低くし、なるべく空気抵抗を減らしながら走っていく。

 逆に、先頭を走っていた8人にとっては、不幸だった。

 クライマーたちの自転車は、楽な姿勢で坂が登れるようにハンドルが高く、また自転車のフレームも空気抵抗よりも軽量化を重視していたため、向かい風の中を走るのには、不向きだった。アッパーポジションでは、体がモロに向かい風を受けてしまう。

 それに比べ、坂東の乗るロードバイクCervelo S5は、空気抵抗を極力減らすエアロフレームでハンドル位置も低く、坂東自身も低い姿勢で走っているため、向かい風の影響を最小限に抑えられていた。

 冬希がシャイニングヒルの2名と合流した頃、1分半あった先頭集団とのタイム差が、30秒にまで縮まった時、坂東の自転車の後輪から、シューという異音が発生し始め、あっという間に後輪のタイヤの空気が抜けた。

 坂東が自転車を止めた時には、すでに自分の自転車の後輪を外した天野が、駆け寄っていた。

 天野は、手早く坂東の後輪を外すと、自分の自転車の後輪を取り付ける。

 クイックリリースでしっかり後輪が固定されていることを天野が確認すると、坂東は再び自転車に跨った。

「天野」

「はい」

 天野は緊張して坂東の次の言葉を待つ。

「ここまでご苦労だった」

 天野は、はっとなった。

 坂東はそのまま走り去っていく。

 坂東から、感謝の言葉をかけられたのは、これが初めてだったのだ。

 天野は、坂東の自転車から外した後輪を見る。タイヤは激しく擦り減っており、中のチューブが見えていた。

 美幌峠の下りで、坂東は後輪を滑らせながら非現実的なスピードで下っていた。シャイニングヒルの二人を引きなはすための本気の下りだった。

 だが、その代償は大きく、自分のホイールを差し出した天野をここで失うことになった。恐らくは、そこまでしてあの二人を引き離す必要があったのだと、天野は思った。

 美幌峠の下りで引き離すことができなければ、もしかしたらこのタイミングでもまだ、シャイニングヒルの二人と争っていたかもしれないのだ。

「坂東さん、勝ってください」

 天野は、坂東の背を見送った。


 坂東は、下級生にとって、近づき難い存在だった。

 全日本チャンピオンで、雲の上の人である上に、下級生、それも1年生が坂東に声をかけられることなど、あり得ないことだった。

 坂東は、下級生に厳しく接したり、いじめたりすることはなかった。というよりも、天野には、坂東が1、2年生に一切興味を持っていないだけのように見えた。それは、全国高校自転車競技会の選手に1年ながら選ばれた天野に対しても同じだった。

 その姿勢が変わったのは、全国高校自転車競技会が終わった後だった。

 坂東の、下級生、とりわけ1年生に対する接し方が、なんというか、柔らかくなったように思えた。

 今までは、1年生など価値がない存在とばかりに、眼中にないという態度だったのが、一人一人を見るようになり、場合によってはアドバイスまでを行うようになった。

 この豹変ぶりに、1年生はもとより2年生も困惑した。

 30名いる1、2年生の部員の中でも、天野は特に目をかけて貰っているという自覚があった。

 そして、坂東が1年生たちと向き合うきっかけになったのは、青山冬希という1年生スプリンターの存在だということもわかっていた。

 自分達がどんなに頑張っても見てもらえなかった人が、他校の、しかも天野自身と同じ1年生の影響で変わってしまったという事実に、天野は嫉妬にも似た感情を覚えた。

 そして、自分も坂東に影響を与えられる存在になりたいと、これまで努力をしてきた。

 天野にとって、冬希との力の差は、絶望的なように思えた。一緒に全国高校自転車競技会に出たからこそわかる。天野があの大会で、1回でもステージ優勝できるかというと、それは夢と言ってしまっていいほど難しいことだ。冬希はそれを4勝してしまっている。雲の上の存在である坂東ですら1勝もできなかったのにだ。

 だから、天野はアシストとして坂東の力になろうとした。結果、ここまでやってこれた。

 道路の傍に立つ天野の前を、シャイニングヒルの二人、そして神崎高校の二人が先頭交代しながら通り過ぎていく。そして、その後ろをついて走っていたニュートラルカーが、天野の前に止まった。

 ニュートラルカーのスタッフが、後輪のホイールを持って降りてくるのが見えた。


 坂東が姿勢を低くして前の先頭集団を追い続けている。

 視線の先に、大会のニュートラルカーが走っているのが見えてきた。

 ニュートラルカーがいるということは、その前を走っている選手たちがいるということだ。

 ゴールまで残り30km。坂東はついに、向かい風に苦しんでペースの上がらない先頭集団を捉えた。

 そしてそれは、逃げていたクライマーの8人が最も恐れた事態だった。

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