第150話 全日本選手権③

 自転車ロードレースのクラブチーム、シャイニングヒルの菊池と大里は、それぞれ違ったタイプの選手だ。

 菊池は生粋のクライマーで、大里は体格の大きなスプリンターだ。

 どちらもクラブ内では、成人男性のメンバーを含めた中でもエースクラスで、チーム内では専用のアシストも用意されるほどの扱いを受けている。

 そんな彼らが、二人掛かりで潰そうとするほど、今日の坂東は大きな存在だった。

 とりわけ菊池には、坂東に強い執着を持つ大きな理由があった。


 昨年の全日本選手権の時、ゴールまで5%程度の登りが続く区間で、菊池は軽快にゴールを目指して疾走していた。まるで平坦を走るかのように登りをこなす姿を見て、誰もが菊池が全日本チャンピオンだと思った。

 菊池の後ろには、坂東がいた。当時の坂東は、生粋のスプリンターと見られていた。露崎が去った後の全国高校自転車競技会の最終ステージのゴールスプリントで、見事優勝を飾った姿が、より強く坂東のスプリンターとしての存在感を強めていた。

 誰の目から見ても、坂東は虫の息だった。ペダルは重く、菊池の方を見る余裕もなくずっと真下を向いて、なんとか離されずに菊池に着いていっている。そんな坂東を見て、菊池は引き離そうと、何度もアタックを仕掛けた。

 クライマーの菊池が、スプリンターの坂東を登坂で引き離すことなど、造作もないことだ、と誰もが思ったが、坂東は、中々離れない。アタックを仕掛けていた方の菊池の脚が止まった瞬間、坂東が牙を剥いた。

 坂東は、死んだふりをして、虎視眈々と菊池の脚が止まるのを待っていたのだった。

 脚を使い果たした菊池に、坂東を追う余力はもう残っていなかった。

 坂東は、菊池を引き離して全日本チャンピオンのジャージを手に入れた。

 駆け引きに慣れていなかった菊池は、脚がないフリをしてずっと自分に前を走らせた坂東を、卑怯だと泣いて非難したが、出てしまった結果は、もはやどうにもならなかった。坂東がやったことは、プロの選手でも使う手だ。


 菊池と大里は、坂東の脚をここで削っておくべきだと思った。可能であれば、潰してしまいたい。

 坂東は、菊池と大里が上がっていくのに便乗して、脚を温存しながら逃げているクライマー達を捕まえたいと思っていた。

 菊池がアタックを仕掛ける。すかさず、坂東が菊池の後ろにチェックに入る。菊池がこのまま走り続ければ、坂東は脚を温存したまま菊池についていけるが、無論そうはならない。アタックに失敗したとみた菊池は、すぐに脚を緩める、するとすかさず大里がアタックする。坂東はまたチェックに入る。このアタックも失敗した。だが、これらはシャイニングヒルの二人の作戦だった。

 二人で交互にアタックを仕掛ける。その度に、坂東はチェックに入らざるを得なくなり、坂東は2倍の脚を使わなければならなくなる。

 二人の波状攻撃に、坂東はよく対応しているように、坂東と同じ佐賀大和高校の、1年生選手である天野には見えた。天野は、アタックを仕掛けていない方の後ろに入り、脚を温存しながら戦況を見守った。

 美幌峠への登りが始まって、坂東は軽量化のためにボトルを捨てた。それを見た大里と菊池もボトルを捨てる。ボトルは、下った後に大会のニュートラルカーやバイクから受け取ればいい。

 登坂になると、大里のアタックのキレは衰えたが、それでも菊池の攻撃は激しく続いた。

 それでも、坂東は耐え凌いだ。

 北海道とはいえ、7月の日差しが3人の体力を奪う。ギリギリの戦いを繰り広げてきた3人だったが、水分補給もままならないまま、アタック合戦を続けるのは無理があった。

 坂東が、スッと手を上げた。

 ここで、今まで気配を消して息を潜めていた天野が、大里の陰から現れて、シートチューブとダウンチューブのボトルゲージそれぞれ一本ずつ挿さっていたドリンクボトルのうちシートチューブの一本を坂東にボトルを渡した。

 菊池も大里も、坂東に釣られてボトルを捨ててしまったため、彼らにはドリンクがない。

 彼らは、坂東に嵌められたことに気がついた。

 菊池も大里も、ドリンクなしで残り半分ほどの美幌峠の登りを戦わなければならなかった。


 坂東がシャイニングヒルの二人を相手にしていた頃、冬希は郷田の後ろで藻琴峠の下りを無事に終えて、美しい屈斜路湖畔を走り抜け、美幌峠の登りに入ろうとしていた。

 冬希は、下りが苦手だった。どうやっても、何度やっても、恐怖に打ち勝つことができなかった。そんな冬希に、郷田はどのように下るかを、藻琴峠の下りで実践してみせた。

 郷田の下りは、派手さはないが丁寧で、だがしかし滅法速かった。葛折でも大きなラインで回り、S字ではほとんど直線のように走った。

 急なコーナーでも、早めに減速するが、その分抜ける時には風のように速かった。

 冬希は、安定感のある郷田の後ろだったため、同じスピードでもそれほど恐怖を感じずに済んだ。

「郷田さん、下りすごかったです。感動です」

 郷田は、そうか、と前を向いたまま苦笑いした。

「坂東の方が速かったろう」

「なんか、あの人はもう異次元ですよ。宇宙人です。比較してはいけないと思います」

 屋久島で坂東と一緒に逃げた時、冬希は下りで坂東の真後ろについた事があった。坂東は、ほとんどブレーキをしないままコーナーに進入し、タイヤがロックする寸前までブレーキを握った後、全開で加速して下っていくという走りだった。

 冬希がコーナーを抜けた時には、坂東はすでに見えなくなっていた。

 坂東の真似をしてみようと、冬希は勇気を振り絞って何度かチャレンジしてみたが、一度も成功しなかった。


 モトバイクが通りすがりに、冬希に前方のグループとの差を提示してきた。

 グループ坂東・シャイニングヒルという名前のグループができている。あの2つのグループは合流したようだ。坂東たちに追いついたというその一点だけでも、シャイニングヒルの二人がいかに速いかがわかる。

 ただ、坂東と美幌峠を下るという事に関して、冬希はシャイニングヒルの二人に対して、同情した。

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