第77話 全国高校自転車競技会 第6ステージ(菊池~阿蘇大観峰)④

「恐ろしい男だ」

 大観峰への峠を登っていく、福岡のエース近田の後姿を見送りながら、静岡のアシスト、丹羽智将は尊敬の念を込めて呟いた。

 阿蘇山を下って、大観峰への登りが始まるまでの間に、福岡のアシスト、舞川を振るい落とすことに成功した。だが、孤立した近田を攻略するのに、これほどまで苦戦するとは、尾崎も丹羽も思っていなかった。

 近田の様子がおかしいのは、大観峰への登り初めの時点で気が付いていた。

 どことなく、フラフラした様子を見せ始めていた。

 そして、近田のボトルゲージにボトルが無いことに、気が付いた。

 登り初めで、重荷になるボトルを捨てるのは、決して珍しいことではないが、今日の暑さでドリンクボトルを早々に捨ててしまうのは、考えにくいことだった。現に、尾崎も丹羽も、まだ半分以上入ったドリンクボトルがボトルゲージに差さっている。

 近田がボトルを持っていない理由は、丹羽にはわからなかったが、近田の様子から、かなりの時間で水分の補給が出来ていないように見えた。

 丹羽は、尾崎にそれを伝え、早めに近田を引き離し、諦めさせようと提案した。

 尾崎もそれに同意した。

 ゴール前10kmを過ぎている為、大会運営からはもちろん、誰かからボトルや補給食を受け取ることも禁止されているタイミングになってしまっている。早めにリタイアさせるしか、近田を救う方法は無いように見えた。

 静岡の間断ないアタックに対応するため、大会運営者のモトバイクからボトルを受け取る余裕もなくここまで来たとしたら、近田に無理させた要因は、尾崎や丹羽にもある。

 二人に責任があるわけではないが、それでも尾崎も丹羽も、誰かが身体の危機に陥るようなレースをすることを望んではいなかった。

 丹羽と尾崎は、キレのあるアタックで、フラフラする近田を引き離しにかかった。しかし、近田は離れず、先に丹羽の脚が上がってしまった。

 脚を使い果たした丹羽は、尾崎と近田から遅れた。だが、自分より近田の方が限界が近いという事も感じていた。

 丹羽は、運営のモトバイクが来たら、近田が危険であることを伝えようと、思っていた。

 しかし、数秒後、その必要は無さそうだと思った。

 近田と同じチームの福岡のジャージを着た立花が、猛烈な勢いで丹羽を追い抜き、坂を上って行った。


 立花が近田に追い付いた時、すでにそこには尾崎の姿は無かった。

 近田は、自転車を止め、ハンドルにもたれかかるようにして苦しそうにしていた。

「近田さん!」

 立花は声をかける。近田はうつろな視線で、だが少し驚いたように立花の方を見た。

「これを、ゆっくり飲んでください。新しいボトルです」

 近田は、ボトルに口をつけ、ゆっくり飲んだ。

「立花・・・どうして」

 ボトルを持ってきてくれたのか。なぜ自分がボトルを落として、水分補給できずに苦しんでいるのを知っていたのか、聞きたいことは一杯あった。さらに、ゴール前10kmを過ぎている為、ボトルを渡した側も受け取った側もペナルティを課される可能性が高い。

「話は、ゴール後に。もうすぐ総合リーダーグループが来ます。走れますか?」

「ああ」

 近田の両眼には、気力が戻り始めていた。

 総合リーダーグループが来た。

 既に、アシストは残っておらず、群馬の泉水、東京の植原、千葉の船津、愛知の西野、岡山の森野、宮城の伊達、神奈川の安藤、三重の伊勢崎、広島の星野、大分の藤松と言った順で、各校のエースが登っていく。

 立花は、後ろの近田の様子を何度も振り返りながら、近田を曳いて行く。

 近田の状態は万全ではなく、度々集団から遅れそうになるが、その都度立花が下がって近田を集団に引き上げていった。

 

 東京の植原がアタックを仕掛け、千葉の船津が反応する。

 植原と船津は、先頭交代をしながら、尾崎を追っていく。

 立花は、回復し始めた近田を引き連れて、その後を追う。

 他の選手たちは、とても付いて行けない。


 尾崎は、完全な一人旅だったが、福岡との激闘で、さすがに消耗していた。

 一定ペースで刻みつつも、それほど脚は残っていなかった。それでも、なんとか先頭でゴールすることが出来た。

 今年の全国高校自転車競技会では、初のステージ優勝。ゴール後は、カメラに囲まれながらも、座り込んで動けなくなった。

 プレッシャーはあった。優秀なアシストをそろえられ、総合タイムでは2分近く先を行っている丹羽が、それでもアシストに専念すると言ってくれた。

 負ければ、丹羽がエースになるべきだったと陰口をたたかれるだろう。

 だが、そんな中のステージ優勝。尾崎は、両目からこぼれる涙を止めることが出来なかった。


 1分ほど遅れて、植原、船津がゴールへやってきた。

 一時期は3分ほどまで広がったタイム差だったが、結局、船津と植原は、最初登りでアシストを温存することで、後半で2分ほども縮めて、ゴールまで持ってきた。今日はこれが精いっぱいだ。

 二人は、ダンシングで1秒でも早くゴールを目指す姿勢は見せつつ、船津は2位争いはあえてせず、植原、船津の順にゴールした。

 10秒ほど遅れて、立花に曳かれた近田がゴールになだれ込む。倒れそうになる近田を、自分の自転車を放り出して駆け寄った立花が支える。

 

 こうして、静岡の猛攻で始まった第6ステージは、概ね静岡の圧勝で終わった。

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