12時発、1時着。

錦魚葉椿

第1話

 女といえども四十代まで働けば、タイマン張らねばならない時がある。

 腰を直角に曲げて仕入先に無理をお願いし、その足で納入先にも頭を下げる。仕入先にも納入先にも迷惑をかけるような、無茶苦茶な注文を取ってきた部下を強く指導して、上司に反省文兼報告書を提出してから、半日休暇届を出して、電車に飛び乗る。

 12時発、1時着。

 それは通勤時間であり営業企画部長の私が梨爽りさちゃんママになるための所要時間。

 今日は恐怖の個別懇談会。



 梨爽は不妊治療を尽くして四十歳ギリギリ手前で授かった最愛の一人娘。

 仕事において人の後塵を拝したことはない。

 返り討ちを畏れず、特攻を重ね、幸運にもそれがうまくいき、特に誰かに媚びたわけでもないが、上層部の覚えもよく順風満帆だった。大きなプロジェクトを獲るような気持ちで、ひとつだけ手に入らなかった「子供」を必死で獲った。



 赤ちゃんというのは母乳を飲んで安らかに眠り、微笑みと癒しを与えてくれると思っていた。「縄文人でもできるのだから子育てなんて簡単のはず」と思っていた。

 梨爽はなかなか眠らない乳児だった。

 彼女は母乳を飲んで寝かすと吐く。

 垂直に抱き上げたまま次の授乳時間を待つ。

 何が気に入らないのか全く分からないまま、深夜四時間半泣き続ける。

 へとへとのへろへろで仕事に行く。

 エスカレータが危険な乗り物だと知った。立ち止まったら寝てしまう。会社で歩きながら寝てしまい、壁にぶつかって貧血を装ったことは一度や二度ではない。

 そしてふとある日気が付いた。

 私の人生は終わったのだ、と。

 白雪姫の母親のように。

 新しく始まった「白雪姫」のお話の、最初のページの一行の説明で終わる母親になったのだと。「向かうところ敵なし」といわれた私が膝をつき、ひれ伏した瞬間だった。

 梨爽は誕生以来五年間、最強の「上司」として私の上に君臨している。



 梨爽を保育所に預けることになった。

 私は「梨爽ちゃんママ」と呼ばれる。

 年齢も学歴も収入も役職も自分の産み出したものは価値を失い、すべての母親は子供の年齢を基準に絶対平等。

 そして私は旧姓使用へのこだわりを保育所のゴミ箱にたたき捨てた。私はもはや「梨爽ちゃん」を生産したモノでしかないのだから。

 劉生くんママに初めて会ったとき、彼女は十六歳だった。

 あれから五年、彼女の息子は思いやり深い、よく気の付くいい子に育っている。

 彼女は相変わらずファッションのため破いたジーパンからおしりの下半分が全部露出されていたり、瞼の外周に概念を覆す量のつけまつげが付いていたりで、度肝を抜かれることもしばしばだが、子供の夜泣きなどで彼女にはいろいろ教えを乞うたものだ。

 美咲ちゃんママは二十四歳で双子を含む四児の母。

 コントロールがきかない年齢の子供を完全に支配下に置いている様子は、もはや女神のような風格だ。

 下の双子のおむつを替えながら、八歳の子供におむつ替えを教え、五歳の子供に下の子の荷物の整理に取り組ませている。要所、要所で声掛けをしながら遠隔操作し、五歳児が既に戦力として機能している。

 ああ、部下の教育とは母の愛、業務進捗管理とはこのようでなくてはならない。

 心の中で美咲ちゃんママへのリスペクトを叫ぶ。



「――――――梨爽ちゃんですが、虚言癖と妄想癖がありますね」

 担任の保育士はいきなりの先制攻撃を突っ込んでくる。

 虚言癖と妄想癖、強烈なけなしっぷりに一瞬ひるむ。

 しかし、私も百戦錬磨、勤続二十年越えのベテラン社会人だからその程度の暴言は聞き流す。

 最近、管理職は傾聴の技術向上に取り組まされている。傾聴は『職場や地域社会の中で多様な人々とともに仕事するうえで必要な社会人基礎力』とされているらしい。

 ここはひとつフィールドワークだと自分に言い聞かせる。

「そうですか。虚言癖と妄想癖とお考えになるのですね。美也子先生はどうしてそのように感じられたのですか」

 美也子先生は四十半ばの中堅だと見える。

 膝まわりがすり切れた古いトレーナーは、サイズぴちぴちで肉感的。たぶん内部の膨張によりそのサイズ感なのだろう。前髪をちょんまげのように結んでアンバランスに大きな髪飾りをつけている。

 社会的に顧客の前に出る風体ではないが、ここは微妙に「社会」ではないので眼を細くして焦点を合わさないように心がける。

 彼女はうなる犬のような表情を見せた。

「梨爽ちゃんはお友達と一緒に遊べません」

 一瞬私は戸惑った顔をしたのだろう。私の顔を見て彼女は少し、嬉しそうににやりと笑った。

「私が何とかちゃんと遊びなさいといって促しても、誰とも遊ばずに、溝ばっかり見ています。ちょっとおかしいんだと思います」

 梨爽は五歳児だが、うるさい人間が嫌いで、何故かグレーチングが好きだ。園庭の山茶花の木の下が気に入っていることも知っている。

 側溝の銀色の格子蓋の何がそんなに彼女を捉えるのかわからないけれど。思春期の苛立ちを思い出そうとしても思い出せないように、五歳の彼女を捕えている魅力はその頃しかわからなくて、私にはもう感じ取れない感覚なのだろうと思う。

 美也子先生は苛立っている。そして不思議と得意げだ。

 彼女が小刻みに痙攣すると頭に生えたラフレシアのような髪飾りもふるふると震える。

「そうですか、先生から見て普通ではないと感じられるのですね」

「そうです。普通じゃありません」

「そうですか」

 穏やかに深くうなずいた私に、彼女は再びいらだった表情を見せた。

「小学校に入ったら友達もいなくて、そのうち学校に行けなくなると思います」

「そうですか、それは心配ですね。私はどうしたらいいとお考えになりますか」

「私は小学校のことは知りません。あそこは文部科学省ですから。保育所は厚生労働省の管轄です」

 瞳孔よりも鼻の穴を大きく開いて機関車のように鼻息をふかした。

 剥き出しにしてくるこの悪意はどこからくるのだろう。

「先生が母親ならどうされるのか、アドバイスをお聞かせいただけますか」

「しりません。私は独身ですし、子供は産んでません」

 部下が取引先をめちゃくちゃ怒らせて、取引停止を言い渡されたときの状況聞き取り面接を思い出す。自分は悪くないと拗ねている。

 さらに何か大きい失敗を隠しているのだろうか。

 ふと、その時初めて美也子先生の横に、若く可愛らしい娘さんが座っているのに気が付ついた。気配を殺して、無表情でぼんやりと座っている。

 一、二年目というところだろうか。

 彼女の名前を聞きそびれたので、手をかざし意識して微笑みを浮かべて、彼女の方に水を向けてみる。

「ええっと、すいません。先生ならどのようにお考えになりますか」

 感情を閉ざしていた彼女の顔がさっと青ざめ、こわばった。

「私は子供を自分で育てます」

 彼女は胸の前で手を組み、告解する修道女のようだった。彼女はおそらく今この瞬間、この仕事の根本を見限ってしまったのだ。

「絶対保育所に預けません。ええ、絶対に」



 どんな会議よりも神経をつかう面接が終わった。

 梨爽のまつ、隣の部屋の扉を開ける。

 お迎えを待つ子供たちが集められている大部屋。今日のカリキュラムを終えた三歳児以上の子供が集められて、保護者のお迎えを待っている。各自好きなことをして過ごしている。先生はそんなにたくさんはいないので、子供たちは先生を取り合っている。

「梨爽ちゃん、ママのお迎えよ」

 知らない先生が、梨爽を見つけて声をかけ、私に子供の方向を指し示してくれた。

 梨爽はひとりの先生の膝の上を占領して本を読んでいた。

 私の姿を確認すると、梨爽は先生に挨拶して本を片付け、私の方に駆け寄ってきてハグする。

 我が子をぎゅっと抱きしめると何かが充填されるような気がする。

 ――――――ふと、ひややかな殺気を感じた。

 ほんのさっきまで梨爽を膝の上に乗せていた、五十代の先生だった。

 たしか、陽子先生といったか、彼女は娘をハグする私をじっくりと観察している。

 彼女が纏うのは剣豪のごとき圧。

 まさに仕事でタイマン張っている女の気迫。

 宮本武蔵と対峙したとしたら、こんな感じじゃないかと思った。彼女の視線を私もまっすぐに見返す。私もまた、タイマン張ってる女なのだから。

 彼女は私の気配から欲しい答えを得たようだ。彼女は見えない武装を解き、社会人らしく丁寧に笑顔の形に口角を上げた。

「梨爽を可愛がってくださってありがとうございます」

 私は礼を尽くして頭を下げた。よく言えば人見知り、正確に言えば気難しい梨爽がこれほど懐いている保育士を見たのは初めてだ。

「いろいろ、言われたかと思いますけど、梨爽ちゃんはとても可愛いですよ」

 彼女の流した視線の先を美也子先生がのっしのっしと横切っていく。

「ですから、安心していていただいていいです」

 そして本音の顔でにやりと笑った。

「本当のところを言うと、誰にも懐かない子供が私だけに懐くというのは、保育士としてのプライドをくすぐられます」

 彼女はお片づけを終えてもどってきた梨爽を優しくなでた。

「梨爽ちゃんはいつでも先生のクラスに遊びに来ていいからね」



 手をつなぎながら家に向かって歩く。

 二歳になってつなぎやすくなった手はそれから三年たっただけで「ママと手をつななぐの恥ずかしい」とか言い出すようになった。

 でも今日はつないでくれる。

「ママ。美也子先生とけんかしなかった?」

「しないわよう」

 かろうじて喧嘩はしていないとおもう。と心の中で回答する。たぶん。

 本音のところはとても子供には伝えられない。

「こないだのお昼寝の時間、寝たふりしてたら美也子先生が「梨爽の母親めんどくさいから来ないといいのに」っていってたから」

「そんなこと言ってたの。どうしてママに教えてくれないの」

 呆れ果てる。あらかじめ言ってくれてたら、ボコボコに泣かしてやったのに。

「ほら、そうやってママ、話をめんどくさくするでしょ。美也子先生は気に入らない子叩くから嫌なの。カンナちゃん叩かれ過ぎて保育所来なくなっちゃった」

 梨爽は言葉がはっきりしている。

 そしてきわめて正確だ。五歳児とはこんなにも正確に話すことができるのだ、と感動するほどに。

「りさには陽子先生がいるから大丈夫」

 私は娘を誇らしく思った。

 五歳でもう、自分の身を守る生き方を心得ている。


 若い娘さんの方の先生を思い出す。

 彼女は多分、名乗らなかった。自分の名前をいいたくない仕事をしていることを気の毒に思った。だから彼女の名前を聞かないことにした。

 おおよその母親は、「自分の子供は自分で育てたい」と思っている。

 そのことを知っている彼女が、いつか名前を名乗れる保育士になっている未来があるといいと思う。



 社用スマホにたくさんの着信履歴がはいっていたが、そのまま電源を落とす。

 私は今、梨爽ちゃんママだから。

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12時発、1時着。 錦魚葉椿 @BEL13542

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