猟奇人格

岡 辰郎

1・第1の人格=薬師寺柾(やくしじ まさき)

 私は猟奇的な殺人者だ。しかも、いわゆる多重人格者だ。

 そういうことらしい。

 正確には『解離性同一性障害』だと、断定されている。

 だからといって、納得できるものではない。医師たちの説明には、うんざりするほど抗弁してきた。

 別人格になっているとされている間の記憶は、何ひとつ残っていないのだ――と。

 それでも、動かしがたい証拠があるという。

 私に殺されたとされている人物は、3人。

 皆、首の骨をねじ切られた上に全身の関節を外され、まるで透明な箱にでも押し込められているように〝折り畳まれて〟いたそうだ。しかも、死後に全身くまなく刃物で切りつけられていたと聞く。

 私は小説家で、10年以上前に似たようなミステリーを描いたことがある。ペンネームは薬師寺柾。ちなみに本名は本橋努というさほど面白味もない名だ。

 その物語の犯人は犯罪者を憎む警察官僚で、実は多重人格者。法の網から逃げ切った凶悪犯を私的に制裁するという内容だ。タイトルは『私刑警視』。そこそこ売れ、単発のテレビドラマにもなった。

 実際の殺人現場は、そのドラマを想起させるものだったという。警察が私を犯人だと見なすことも無理からぬことだ。その上にいくつかの物証が重なれば、もはや抵抗する余地はない。

 だが、自分が人殺しだったという動揺は、ない。

 自覚も実感もない。

 犯行があったとされる直後でも、私は何も異変を感じなかった。たとえ他人の人格に変わっていようが、凄惨な殺人現場から立ち去ったのなら血痕の一つも付いているのが普通だろうに。意識を取り戻した時に何の痕跡も残していないなら、殺人者の人格はよほど訓練を積み重ねたプロフェッショナルだということになる。

 還暦も近い私には、そんな体力もスキルもない。

 だがそれが落ち着いていられた最大の原因ではない。何よりも、被害者に一切の同情や負い目を感じなかったのだ。

 1人は未成年時の猟奇殺人を〝償って〟出所していた殺人犯。しかも彼は、出所後に殺人未遂で再逮捕されている。1人は保険金当てで義理の娘を溺死させたが、証拠不十分で無罪とされた〝父親〟。1人は数人を中毒死に追いやった麻薬密売組織の中心人物だと特定されているにも関わらず、なぜか一向に逮捕されない暴力組織員。

 いずれも、私の自宅の近郊に居住していた。

 被害者たちにまつわる情報をどうやって知り得たのか、どうやって殺害できたのかを、私は知らない。だが、そのような〝犯罪者〟に怒りを覚えていることは隠しようがない。口にはしないが、殺されても当然だと考えている。

 だからそのような憤りや、無力な自分への苛立ちを小説にすることで〝義憤〟を解消してきたのだ。私と同じようにやり場のない負の感情を抱える読者もまた、私の小説を読むことでひと時の開放感を得たのだろう。

 本当に〝私〟が〝制裁〟を成したのなら、この身を祝福してやりたいものだ。

 自分が知っている事実はもう1つ。

 睡眠障害――それも重度のナルコレプシーを抱えていることだ。突然強烈な睡魔に襲われ、意識を失う。

 別の人格は、私が眠っている間に姿を現わすのだという。

 最初に精神科の診察を受けた理由は、うつ病ではないかと疑ったからだ。当初、担当医は判断に迷ったようだが、1年近くをかけて投薬とカウンセリングを受けた結果、ナルコレプシーと多重人格が複合的に絡み合っているという結論が出た。

 担当医は私を貴重な研究対象として捉え、学会でのし上がるきっかけにできると狂喜した。もちろん本人は口にも表情にも出すまいとしていたが、私にはその心の内が透けて見えていた。

 なにしろ、息子と言ってもおかしくない年齢の医師だ。そこそこの経験を積んだ作家にしてみれば、眉の動き一つで〝欲深さ〟は見抜ける。事実彼は、私を素材にして論文を仕上げ、世界的な医学雑誌に認められたという。相当な注目もを浴びたそうだ。

 私も翻訳されたものを読むには読んだが、はっきり言って面白くもなければ快くもない。しかも、半分も理解できなかった。

 それが1年ほど前のことだ。

 その担当医も、今回の連続殺人の発生であっさりと〝検体〟を奪われてしまったわけだ。

 ざまあみろ、と陰口を叩きたくもなる。

 こうして他人事のように語っていられる理由は、医師たちに何度も告げている。人を殺めたという実感が全くないからだ。だが、精神鑑定が決まってからはそうも言っていられない。生活が全く変わってしまった。

 逮捕、拘留、尋問、そして、医師たちの困惑――。

 最も困惑していたのは、他ならぬ私だ。身の回りに起きる事態に実感が伴わないまま、大海の大渦に巻き込まれた気分だった。

 法律的には、『起訴前本鑑定』という手続きに当たるらしいが、私の症例は特殊すぎる。すでに『解離性同一性障害』の診断が論文などで定着していたこともあり、責任能力なしというのが最初から一般的な見方だった。

 だが、多重人格を悪用した意図的な殺人ではないかという疑念が払拭されなければ、無罪にはできない。一方で、再犯を防ぐ緊急措置は絶対に必要だ。マスコミにも大きく取り上げられたこともあり、警察としても非難されない善後策を決定するまでの時間が欲しかったのだろう。

 当面の再犯を防ぐ〝措置入院〟と同時に、〝時間稼ぎ〟のためにも精神鑑定は徹底して行われることになった。加えて、日本の官僚に素早い対応を求めることなど不可能に近い。つまり私は当分の間――恐らくは年単位で、〝被験者〟として拘束され続ける。

 まあそれも、作家としての貴重な経験だと思えば悪くはない。体は個室に閉じ込められていようが、想像力は封じられない。小説はどこでも書けるのだから。

 私は半官半民の『高次脳科学研究所』に移送され、厳密な精神鑑定を受けることになった。国を揺るがす大事件に発展してしまったのだから、地方大学の精神科医ごときでは抱えきれなくなっていたのだ。新しい〝住処〟は、日本の精神医学界をリードして改革を進めてきたといわれる組織らしい。しかも、なぜかアメリカから新進気鋭の若手が来日して、サポートに付くという。

 サイコパスによる犯罪が社会問題になっているアメリカでも、私のような実例は多くはないそうだ。私は檻に閉じ込められ、全世界から好奇の視線を浴びせられながら、脳みそを〝解剖〟される運命を背負いこむことになったわけだ。警察は『打てる手は打った』という〝言い訳〟が欲しくて、海外の専門家の参加を認めたのだと思っている。

 私は、未知の環境に放り込まれることになる。それ自体は望むところだ。だが気がかりなのが、アメリカ人の専門家に頭の中を覗き見られることだ。

 私は日本人だ。

 日本の言葉で考え、世界を見渡し、文章を表し、行動してきた。結果がたとえ凶悪な殺人であれ、そこには日本人としての私の生き方と願い、そして欲望が収斂しているはずなのだ。そもそも、キリスト教のような一神教の神は〝まがい物〟だと思っている。私は古代から途切れることなく存在している日本の神々を信頼している。

 つまり、精神世界の在りようが欧米人とは根底から異なっている。

 そんな私の脳や心を、アメリカ人が解析するというのか?

 できるというのか?

 多重人格は心の問題に違いない。心は、理屈だけでは動かない。私の心は日本人だ。心は、言葉が作る。言葉は民族の歴史を刻んだ〝文化的遺伝子〟だ。その〝言霊〟が身に馴染んでいないアメリカ人などに、私が理解できるはずもない。

 そもそも、私は日本語しか話せない。書けない。理解できない。

 アメリカから来る医師がたとえ日本語をかじっていたとしても、複雑な言葉の襞に隠された真実を見抜ける道理もなかろう。通訳を介した会話などに頼れば、確実に誤解が生じる。それは、医師にとっても私にとっても不幸だ。

 せめて、そのアメリカ人が単なるオブザーバーで、なんの決定権も持っていないことを願う。

 私の今後を決めるためにも、私の手で殺された犠牲者を弔うためにも、事実を正確に解明してほしい。私が狂っているというのなら、その狂いを正確に、そして精密に分析してほしい。

 私にとっての最大の謎は、私自身だ。私は、私を知りたい。

 私が私であるために――。

 高次脳科学研究所については様々な資料に当たって調べた。だからどうしたと言われれば返す言葉もないが、目の前に未知の存在があればそれを掘り下げ、言葉で伝えたくなるのが作家の本能だ。逮捕以後は他人と連絡を取ることは制約されたが、幸い、ネットで情報を集めたりワープロソフトを使うことは妨げられていない。当然、閲覧記録や保存した文書は私の脳を解析する資料として盗み見られているのだが……。

 もはや私にプライバシーは存在しないのだから、反抗する気にもならない。

 公式ウェブサイトによれば、この研究所が創設されたのは約5年前だ。科学技術の基礎研究に大きな資金を投じるという国の方針によって、精神医学界や製薬業界、そして工学系の脳科学者たちが結集して整備された。人間の心や隠された能力を探ることが目的で、短期に実利的な成果を求めたものではないと宣言されている。

 多額の税金を投入していることへの言い訳のような美辞麗句に関心はないが、研究そのものには強く惹かれる。人間の可能性の探求に多方面の専門家が集まっているなら、そこがつまらない施設であるはずがない。

 作家は、知ることができるなら何でも知らなければならない。私にとっては千載一遇のチャンスだ。

〝財政再建至上主義者〟たちが闊歩していた長いデフレ時代から見れば、浮ついたラノベが描く未来像に思えただろう。だが長期政権を実現した首相は、懇意にしていたアメリカ大統領とタッグを組み、行き過ぎたグローバリズムの抑制にメドをつけた。その方法が巧みだった。政界、学会、マスコミを操って増税路線を死守する財務省に屈服したように見せながら、いったんは経済成長の鈍化にも目をつぶった。しかも、新ウイルスのパンデミックによって世界経済は深い傷を負った。財政規律や特別会計、そして特殊法人の価値などを無意味にするように……。

 当然、国民の反発は膨らむ。その怨嗟の声が充分に高まって野党からの攻撃材料に用いられた瞬間に、首相は掌を返して超大型の財政出動を決断したのだ。財務省も抵抗することはできなかった。そこに中国の金融危機とアメリカの外圧が重なった。一見日本の財務省に従属しているかのように装いながら、結局は彼らを分割してその絶対的権力を削ぎ落とすことに成功したのだ。当然、天下り先として確保されていた特殊法人を民営化、あるいは解体した。たちまち数10兆円に及ぶ〝埋蔵金〟が一般会計に組み入れられ、その資金がデフレ脱却を確かなものに変えた。

 自己保身に走る官僚や政治家、そしてマスコミからの凄まじい妨害を受けながらも、〝日本の危機は1000兆円を超える借金だ〟という〝虚構〟を破壊したのだ。

 覚醒した日本は、明るさを増した。それは停滞する世界経済にとって、まさに〝奇跡の牽引車〟となった。しかも、かつての中国のようなハリボテの繁栄ではなかった。

 その勢いを加速し、安定的なものにするために大型の財政出動が継続している。国土の強靭化や防衛力整備はもちろん、教育や科学技術全般への投資も大幅に拡大された。メタンハイドレートやコバルトリッチクラストを代表とする海底資源の開発、国際リニアコライダー建設、量子物理学の実用研究の推進、国際宇宙ステーションの継続強化を日本が先導することなどが代表的な成果だ。最先端脳科学を研究する高次脳科学研究所の新設もその一環だった。

 こうして安定した基盤を得た研究所は、私という稀有な〝研究素材〟まで手にしたわけだ。

 バブル崩壊以後、20年以上続いたデフレ下にあってはこのような巨大施設の建設は夢想でしかなかっただろう。しかし破竹の勢いで財政再建が進む過程の中で、官僚組織の予算分捕り合戦もまた息を吹き返した。一見、期待できる成果が曖昧な基礎研究に大きな資本を注ぎ込めたのは、官僚たちの本能である〝利権の拡張〟が国民にとって瑣末な問題に後退したからだ。

 日本が再び豊かになった証左だ。

 残念ながら、私が今、このオフホワイトの個室に軟禁されている理由でもある。

 研究所には訪問客同様に丁重に迎えられた。しかし、実質が〝監禁〟であることに変わりはない。係員に先導されてエントランスをくぐる私の周りは、5人もの保安部員で囲まれていた。

 まるでショッピングモールを思わせるような明るいホールからエスカレーターで2階に上がり、溢れんばかりの電子機器やスタッフがひしめく部屋を通って個室に通された。そこは科学的な研究所には似つかわしくない、マンションのモデルルームのような部屋だった。

 中に入ると、全員が部屋を出て行く。私は着替えを指示されて、1人個室に残された。

 バスルームに入ると、用意してあったのはアメリカの囚人服を思わせる全身オレンジ色のツナギだ。

 やれやれ……。これは結構、気力が萎える。

 着替えて部屋に戻る。おそらく、10畳を超える広さがあるだろう。中央にはテーブルとソファーが置かれている。ソファーに座って中を観察する。

 壁の一面にはベッドと机が置かれている。そこで調べ物をしたり執筆を進めることは自由だと言われた。対面にはキッチンのスペースが設けられ、IH器具で自炊もできる。食事は提供されるというから自炊の必要はないが、退屈しのぎには使える。もう一つの壁にはトイレが一体になったバスルームへのドアがある。

 ありふれたワンルームマンションと大した違いはない。

 そこまでは。

 だが、壁は全体に柔らかいクッションが貼られている。自殺防止のためだろう。しかも、窓はひとつもない。そして問題は、残る一面のガラス張りの壁だ。

 分厚いガラスの向こう側は医者たちが私を〝尋問〟するための小部屋で、その横に研究スタッフたちが働いている大部屋に続く金属製のドアがある。私が通ってきた経路だ。ガラスの壁にはカーテンもないし、天井の四隅にはこれ見よがしに監視カメラが取り付けられている。

 その点では、警察の取調室の方が近いかもしれない。

 常時監視されることは覚悟していたが、実際にその場に入ると威圧感はかなりのものだ。しかも〝私の部屋〟に出入りするには大部屋と尋問室を通る以外に手段がない。

 私は常に見張られている。〝動物園の猿〟という陳腐な表現が、これほどふさわしい状況はない。

 私を慰めるように、20時以降はスタッフは全員立ち去り、直接監視されることはないと説明された。部屋の中にいる限りは、行動の制限もない。それでも深夜の行動やコンピュータの使用データは記録を残され、翌日に解析されるのだという。

 まあ、プライバシーがないことに不満はあるが、3人も惨殺した猟奇殺人犯にとっては恵まれた環境だといっていいだろう。

 本当に、私が殺したのであれば……。


        ✳︎ 


 椎名圭一郎は、強化ガラスの窓の前に並べられた椅子に腰を下ろした。面談室の横のドアは開けっ放しになっている。

 ガラスの向こうでは、ベッドに座ったままの本橋努がこちらを見返している。目をそらそうとはせず、逆に椎名を観察しているような冷静な視線だ。

 椎名はスピーカーのスイッチを入れた。

「改めて自己紹介を。私はここの所長をしている椎名です」

 本橋は警戒心を含んだような笑みを浮かべた。

「私は橋本努。一般には、薬師寺柾のペンネームで知られていますがね。そちらに慣れているので、できれば薬師寺と呼んでいただきたい」

 言葉つきは穏やかだ。だが、動こうとはしない。厳しい目つきには、監視されていることへのささやかな抵抗だという意思が現れている。

 椎名も穏やかに答える。その態度には有能な作家への敬意が滲んでいた。

「もちろん、存じ上げていますよ。作品も読ませていただきました」

 本橋――薬師寺の表情も和らぐ。

「『私刑警視』だろう? 古い作品だが、ご感想は? やはり多重人格者が描きそうな物語だったかね?」

 椎名はその物言いにかすかな笑みで応える。

「思った通り、率直な方だ。ですが私は、雑多な実務をこなすだけの管理職です。専門は量子物理学ですしね。あなたの心の解析は精神科医たちに任せましょう。まずは、ご挨拶とこれからの生活の説明に上がりました」

 薬師寺が立ち上がり、ソファーに移動する。ガラス窓に正対してゆったりと足を組む。その穏やかな振る舞いとオレンジの囚人服は、いかにもアンバランスだ。

「殺人犯相手にしては、随分ご丁寧な扱いだね。しかし、なぜ脳科学の研究所の所長が量子物理学を?」

 椎名にとって、その質問は〝定番〟の一つだ。考えるまでもなく、反射的に返事が出ていた。

「この研究所で扱うのは一般的な心理学とは異なり、総合的な人間の存在そのものです。大脳生理学、生物学、物理、化学、医学のすべての知見を統合して、その奥深さを解きほぐすことが目的です。認知科学と極めて近い学問分野ですが、より定量的なアプローチに重点を置いています」

 薬師寺の反応も素早い。

「興味があるね。もう少し詳しく教えていただけるかな?」

 椎名は、薬師寺がその話題に食いついたことに、逆に関心を抱いた。多少の時間を割いても人物像を探るべきだ判断する。

「大きな研究課題の一つは、意識と無意識の相互関係のメカニズムを解明して、可能な限り数値化することです。作家ならご経験があるかもしれませんが、意識下で行き詰まった命題が夢の中で不意に解決するといった現象があります――」

 薬師寺がわずかに身を乗り出す。

「あるね。というより、積極的に利用している。とことん考えたら、考えることをやめて放置する。そして、アイデアの噴出を待つ。3Bというやつだ」

「ベッド、バスタブ、そして移動中のバス。中国にも古来から似た考え方があります。いずれも、意識が弛緩して無意識が支配的になる状態です。そんな精神状態の時に、創造的な解決策が不意に現れます」

「神の啓示だよ」

「芸術家はそういう表現を好みますね。ですが我々は、その〝神様〟を物質、あるいは数値として捕まえたいのです。将棋の天才は経験と直感で最善の手を絞り込みます。コンピューターは総当たりで試していくだけ。人間が負けるのは計算速度に追いつけないからにすぎません。その違いは、人間のどこにあるのか。何によってもたらされているのか。それを追求しています」

「極めて困難だと思うが? 意味があるのかね?」

「困難なのは認めます。しかし、結果が出なければ無意味だとは限りません。例えば、アイザック・ニュートンは錬金術師でもありました。錬金術自体は無駄だったかもしれませんが、化学・物理・数学の知見を爆発的に広げ、技術の発展を促しました。果たして意味がなかったでしょうか?」

 薬師寺が面白そうに微笑む。

「なるほどね……」

 椎名は、薬師寺には他人の意見を公平に聞き、判断できる理性が備わっていると評価した。今はそれを確認できれば充分だと考え、話題を移す。

「我々にとっては、あなたは貴重な研究対象なのです。警察からも専門家が来ていますが、彼も医者ですから、決してぞんざいな態度は取らないでしょう」

「それでも、世間から憎まれている人殺しなのだが?」

 椎名も直截的に切り込む。

「殺したんですか?」

「そういうことになっているんだろう?」

「そこですよ、問題は。警察はあなたが猟奇殺人犯だと確信している。ですがあなたには自覚がない。あなたの中に宿っている別人格が犯した罪だとしたら、それをあなたに償わせるのは酷だ。同じ肉体を共有しているからと言っても、理不尽です」

「だから、どの人格が犯人かを突き止めたいということか?」

 椎名の目に真剣な光が浮かぶ。

「警察からの要請はその通りです。ですが、部下たちの興味はもっと大きい。人格の分裂がどうして起きるのか、どのようなメカニズムによって支えられているのか、そもそも、どんな必要があって生じた現象なのか――。心理学的には様々な解釈が行われていますが、どの理論もいわば恣意的で、確定的だとは言えない。人間の心の問題ですから、説明はどうとでも可能だったんです。少なくとも、これまでは、ね。しかし人間は物理的な存在でもある。心とは、物質の複雑な絡み合いから発生する〝機械的〟な現象という側面も持っているんです。その正体を突き詰めていくこともこの研究所の目的です。これまでは一般的な被験者の脳内物質や遺伝子構造などからそれを探求してきました。そこに、あなたがやってきた。極めて特殊な形の心を持ったイレギュラーなサンプルです」

 薬師寺は不満げな表情を隠さない。

「サンプル、ね……」

「失礼ではありますが、あえてサンプルと呼ばせていただきます。私たちは皆、科学者ですから。予断を持たずに調べさせていただきたいのです。あなたほど一般人とはかけ離れている心のあり方を探求できれば、何が違うのかが明確になるでしょう。その違いこそが、心の在処を突き止める手がかりになるはずです。私たちは、そう願っています」

「単なる精神鑑定とは違う、と?」

「結果としてあなたの精神構造を明らかにすることにはなるでしょう。そのために、様々な検査に協力していただくことになります」

「例えば?」

「これまで散々繰り返されてきたでしょうが、ロールシャッハテストのような伝統的な性格検査から、脳波測定など。日本ではこの研究所にしかない最新鋭のファンクショナルMRIなどによる検査、最終的には造血幹細胞や脳組織を実際に取り出すことも計画に入っています」

「頭に穴を開けるのかね……?」

「採取する検体は極めて微量ですがね」

「拒否する権利がないことは分かっているよ」

「私たちは、積極的に協力していただきたいのです。幸い、あなた自身は理性的な方ですから。ただ、似たような検査を何度も繰り返すこともありますので、その点はご了承ください」

「私は構わんが、他の人格のことは何も約束できんよ。約束したところで、存在すら分からない赤の他人のようなものだし、話し合いや説得も不可能なのだからね」

「これまで採取された他人格の詳細なデータは担当医から受け取っています。あなたは何も心配なさらずに。検査の前には、必ずその内容と目的をご説明します。それは、他人格に対しても行う予定でいます」

 と、薬師寺が不意に不安げな表情を見せた。

「私が怖くないのかね?」

 椎名は淡々と答える。

「怖いですよ。なにしろ、異常な方法で3人を殺害した猟奇殺人犯だと聞かされていますから。おそらく、あなたの中の人格の誰かが犯人であることは間違いないんでしょう。我々は誰が殺人犯か分からないまま、彼らがどんな感情や能力を持っているかも正確に知らずに、それでも対処しなければならない。これまで発見されている人格以外の犯人がいるかもしれないという危険さえある中で、あなたを調べるのです」

 薬師寺が他人事のように言い放つ。

「同情を禁じ得ませんな」

「ですから、身を守る手段は講じます。チーム内であらゆる可能性に備えて検査法を検討してきました。それが充分なものかどうか、実際には出たとこ勝負ですがね。しかし、あなたは結果には責任がありません。それは私たち研究者の問題です。それでもなお、あなたを調べさせていただきたいのです」

「あなた方の心意気は理解できたよ。お任せしよう」そして薬師寺は、部屋の中を見回す。「――というか、他の選択肢などないからね」

 椎名は薬師寺の皮肉っぽい笑いを無視した。

「では、今後あなたを担当する医師たちを紹介しましょう」そして、振り返る。「みんな、入って」

 開け放してあったドアから3人が入って来る。

 中年の痩せた男、小太りの若い男、30歳前後に見える女だ。男たちは、お揃いの白衣を着ている。女だけが濃緑色のスクラブ――手術衣を身につけていた。

 椎名が言った。

「まずはこの研究所の精神科部長の大前誠君」

 先頭の痩せた男が会釈する。

「大前です。私があなたを診察するチームのチーフになります。よろしくお願いいたします」

 椎名が続ける。

「その後ろが、いわゆる警察病院である神奈川県の『けいしん病院』から派遣していただいた――」

 太めの男が後を引き取る。

「龍ヶ崎崇です。けいしん病院で精神科を統率させていただいています。直接あなたを診察することはないかもしれませんが、経過はすべて検証させていただきます。まあ、見届け役というところでしょうか。警察としても、専門的な知見を持った人間を派遣しないわけにはいきませんので」

 薬師寺がうなずく。

「まあ、監視は必要だろうね。しかし、警察から派遣されたのはあなただけなのかね?」

 龍ヶ崎がかすかに笑う。

「ガサツな刑事がずらりと並んでると期待してましたか? ここは最先端の学術研究所ですからね。我々警察も、こんな場所にズカズカ乗り込むわけにはいきません。かといって、丸投げもできませんのでね。で、不肖、私が代表で派遣されました。とはいえ、もともと警察庁からの出向者が常駐しています。今の担当は田中警部補で、彼は保安部の係員と一緒にドアの外で待機していますよ」

 大前が言いそえる。

「龍ヶ崎君は謙遜していますがね、精神鑑定に関しては日本有数の権威ですよ。警察が鑑定困難と認めた犯罪者は、最終的に彼の判断に委ねられます。警察も、エースをつぎ込んできたということです。あなたは最重要人物ですから」

 薬師寺の笑みが歪む。

「重要人物……ね。早くもサンプルから格上げかね?」

「最も重要な、生きたサンプルです」

「だから、唯一の出口は警官たちで固めているってことか。ご苦労なことだ」

 椎名が最後の女性に目をやった。

「彼女はサラ・ドーハム。アメリカからいらしゃったオブザーバーで、新進気鋭の脳科学者です」

 椎名は、『オブザーバー』という言葉を強調した。彼女が色違いの手術衣を着せられているのは、研究所側の『口出しは遠慮しろ』という意思を視覚的にも印象付けるためでもあるのだ。

 サラと呼ばれた女性が会釈する。だがその容貌は、日本人にしか見えない。

「サラです。あなたはアメリカでも注目を浴びていますのでね。私もチームに加わらせていただきます。ちなみに、精神分析医の資格も持って、実務にも携わっています」

 サラの日本語もまた、ネイティブにしか聞こえない。

 薬師寺がつぶやく。

「あなたがアメリカ人……?」

 サラが微笑む。

「国籍は、ね。でも両親は日本人で、20歳まで日本で暮らしていましたから。たまたまご縁があって、養子に入ったまでです。中身は普通の日本人ですよ。サラも本名で、漢字では『幸せが来る』と書きます」

 薬師寺は安心したようにうなずく。

「だったら、日本人のメンタリティーは理解できるね?」

「それが、私が選ばれた最大の理由です」

「唯一の心配が消えた。すべて、あなた方にお任せしましょう。私の心を解き明かしてもらいたい。ただ、この研究所のことをもう少し詳しく教えていただきたいのだが?」

 椎名がその落ち着きようにかすかに眉をひそめ、訝しげに言った。

「何のために?」

 薬師寺の反応に淀みはない。

「作家の好奇心だよ。せっかくこれほど珍しいイベントに遭遇できたんだ。しかも、この身を犠牲にして、ね。今後の創作の糧にするためにも、得られる知識は少しでも多く吸収しておきたい。重要なサンプルなら、その程度の配慮はあっても悪くないんじゃないのかね?」

「まあ、それで積極的に協力していただけるなら……。知りたいのは、どのようなことで?」

「検査についてはその都度詳しい内容を伺えれば構わない。だが、これからの自由時間は小説風の日記を書いて時間を潰すことになるだろう。その際、研究所の大まかな構造が分かっていないと文章が書きにくい。何階のどこににどんな部門があって、どんな仕事をしている、とかだ。簡単な内容で構わないのだがね」

 龍ヶ崎が冗談めかし、しかし疑い深そうに問う。

「まさか、脱走しようとか考えてないでしょうね?」

 薬師寺が一気に破顔する。

「一体、どうやって? こうして閉じめられて監視されているのに」そして、龍ヶ崎の背後の金属ドアを指差す。「そこから逃げる能力があるとでも? それができたとして、その先どこへ逃げる? そもそも、私はここへの収容に抵抗したことはない。私の興味は今、まさにこの研究所にあるんだ。だから、知ることが許される事柄は残らず知りたい。それだけのことだ」

 サラが椎名の背後に歩み寄って耳打ちした。

「彼の反応を観察したいんで、説明してあげてもらえますか? 私も知りたいですし」

 椎名がうなずく。

「分かった……」そして視察に訪れる役人に対する単調な口調に変わる。「この研究所の規模は概ね地域の基幹病院並みになります。場所は伊豆半島のほぼ中央部で、町からかなり離れた山中に建設されたのは、地域住民の不安を和らげるためです。他害の危険がある患者を収容する必要もあるので、計画当初から反対が多かったものでね。スタッフの多くは単身赴任か独身者で、彼らは建物内の寮に居住しています。妻帯者の多くは最寄りの町に家を持って通っています。山道を通るので、片道20分程度はかかりますがね」

 薬師寺が世間話でもしているように問う。

「あなたは通勤組?」

「いいや、単身赴任です。あなたを研究するスタッフは、検査が終了するまで全員寮で暮らすことになっています」

「1階はずいぶん明るい雰囲気で、病院っぽさはなかったが?」

 椎名は会話の主導権を取られたことにやや不満そうな表情を見せた。そして、それこそが薬師寺が施設の説明を要求した目的なのかもしれないと思い当たる。

 これは、被験者と研究チームの初顔合わせだ。致命的に不利な立場にある薬師寺が少しでも我を通そうとするなら、ここで出来上がる関係性がそれを決定付ける。いわば、初戦の結果が今後の力関係を形作るのだ。

 そう計算しての発言であれば、なかなか手強い被験者だといえる。受け身でいることに我慢できないというタイプなら、検査の方法も練り直す必要があるかもしれない。心理分析にあたる医師たちと渡り合うことを楽しむ、あるいは屈服させようと挑んでくるなら、危険にもなりうる。

 しかし癖のある被験者との応対に慣れている椎名は、すぐにポーカーフェイスに戻る。

「極めて病院に近い施設ではありますが、本質的に病院ではありませんから。むしろ比べるべきは、大企業の研究施設でしょう。一般の精神科患者が訪れることもありません。1階は、管理部門です。セキュリティーを担当する保安部もここが中心です。面積の大半はスタッフの福利施設で、コンビニやレストラン、小さいですがスポーツセンターやバーもあります。あ、50席程度の映画館もね」

「ショッピングモールのようだという印象はそこから来たわけだね。で、ここが2階?」

「2階は主に検査室が中心です。あなたに使用するファンクショナルMRIやCTスキャナーのような大型機器はこの階に設置してあります。データ解析も隣の大部屋で行いますから、普段は大半のスタッフが2階で働いていることになります。3階がスタッフの寮として使っている居住区域で、多くはあなたの部屋と同じ程度のワンルームに暮らしています。まあ、管理職には多少贅沢な部屋が与えらえていますがね」

「4階建だったね?」

「最上階が医療区域です。警察から託された措置入院の患者はここに収容されています。彼らは完璧に隔離されていますがね。医療行為が必要ない被験者も4階に滞在しています。スポーツやゲーム、経営やデイトレードなどの様々な分野でずば抜けた才能を発揮する、いわゆる〝天才〟に1週間ほど寝泊まりしていただいて、検査をお願いすることが多いんです。霊能力者を自称する被験者も少なくありません」

「霊能力?」

「予言者やPK――サイコキネシスとか念力とか言われる力ですが、彼らが言う能力が実際に存在するのなら、これ以上の研究対象はありません。人間の脳に秘められた未知の能力を解明する有望な手がかりになります」

「超能力……かね?」

 椎名の言葉にわずかに力がこもる。

「あなたは超能力の存在を疑っていますか?」

「作家としては都合よく使える概念だが、信じているかと問われれば、微妙だな。美人の幽霊ぐらいはいてほしいと願っているがね」

 椎名には軽口に付き合う気持ちはない。

「しかし、人間がとてつもない可能性を秘めていることはあなた自身が証明しているんです。我々にとっては、あなたの多重人格も霊能力者の力も、同様に科学的なアプローチによって解明すべき命題なのです」

「その科学的なアプローチとやら、分かりやすい実例があるなら教えていただきたいのだが?」

「そうですね……」椎名はわずかに考え込む。「先ほどお話しした天才たちに対する『予感実験』などはいい例になるでしょう」

「予感実験?」

「数10年前から行われている定番の実験です。被験者の指先に心理的興奮を計測するセンサーを装着して〝手に汗握る〟状態を感知できるようにします。その上で、様々な写真をモニターにランダムに表示します。可愛い動物だったり、のどかな田園風景だったり、逆にスプラッター映画の残虐シーンだったり、激甚災害の場面だったり……被験者はもちろん、計測者も次にどんな写真が表示されるか分かりません。ところが多くの被験者は、恐怖を煽る画像が表示される前に興奮状態を示します。この傾向は、天才たちには特に顕著に現れます。たとえコンマ数秒に満たない時間であっても、彼らは何らかのメカニズムによって危機を事前に察知し、体を反応させているのです」

「それが予知だと?」

「他にどんな解釈があるでしょう?」

 薬師寺も、椎名の真剣な眼差しに薄笑いを収める。

「なるほど、面白い。この先、時間を見てもっと詳しい話を伺いたいものだね。それこそ、今後の創作に役立ちそうだ」

「一通りの検査を終えてからであれば、インタビューにもゆっくりお答えしましょう。私たちにとっては、その種の面談もあなたを理解する大きな手がかりになりますのでね」

「ありがたい」だが薬師寺の主な関心は、やはり建物の構造を知ることにあったようだ。「で、この建物には地下とかあるのかね?」

「ありますが、自家発電機や機械類の設置場所ですよ。あとはほぼ備品や食材の倉庫ですね」そして薬師寺の質問を断ち切るように言う。「さて、説明が終わったところで、早速最初のテストに入りましょうか」

 初手から相手の言いなりになるわけにはいかないのだ。

 薬師寺が穏やかに微笑む。

「テスト? この部屋で?」

「その通り。これから、ある書類を見ていただきます。研究所に入る時に付けていただいたリストバンドには、心拍や血圧などを測るセンサーが取り付けられています。生体データがリアルタイムで隣の大部屋――データ解析室に送られているんです」

「その書類で何をしろと?」

「ただ見もらうだけですよ。何も話す必要もありませんが、最初から最後まで、じっくり目を通していただきます」そして背後の扉に声をかける。「滝沢君、さっきのファイルをこちらに」

 若いナースが三冊の黒いファイルを抱えて入ってくる。

 椎名が薬師寺に紹介する。

「彼女は看護師の滝沢真奈美君です。今後の検査ではサポートに入ります」

 滝沢はガラス越しの薬師寺にぺこりと頭を下げた。

 龍ヶ崎がファイルを受け取る。

「中へは、私が持っていきましょう」

 滝沢が椎名を見る。

「所長、いいんですか?」

 椎名がうなずく。

「警察の医師だからね」そして声を落とす。「女性が一人で入るには、危険があるかもしれない」

「ですよね……」

 ナースはかすかに怯えたような表情を見せて、面談室を出て行った。

 薬師寺からはガラス越しにファイルが見えたようだ。その目に真剣さが溢れる。

「なるほど。ようやく〝それ〟を見せてもらえるのだね」

 サラが椎名に身を寄せる。

「何の書類ですか?」

 スピーカー越しの小声を耳ざとく聞きつけて、薬師寺が答える。

「3件の殺人現場の写真だよ。刑事たちは私の目の前で見ていたが、中身を見せられたことはない。何度も頼んだのだがね」

 龍ヶ崎が説明する。

「あなたが犯人だと言う確信が持てるまでは、見せるわけにはいかなかったんです。〝犯人しか知り得ない事実〟がふんだんに詰まっている記録ですから。予断を持たないために必要な処置でした。しかも今回の連続殺人は、常識では測りがたい状況の連続ですから」

「つまり、今は私が犯人だと確信を持っているんだね?」

「そうとも言い切れませんが……あなたの中の人格の〝誰か〟が犯人である可能性は極めて高い。状況証拠からだけの結論ですがね。それを確信に変えるために、写真を見た時のあなたの反応を解析します。もはやそうする以外に、診断を先に進めることができませんので」

「そんなことを前もって話してしまって、正確な判断ができるのかね?」

「あなたが知っていることを前提にデータを見ますから」

「なるほど。私も、それで〝犯人〟が特定できることを願っているよ」

「では、これから中に入ります。くれぐれも、席を立たないように。私に危害を加える兆候が見えれば、テーブルの下から即効性の鎮静ガスが噴出するそうです」

「それでは君もガスを吸い込むのでは?」

「命に別状はありませんから。それに、逃げられる程度の訓練は積んでいます。攻撃的な犯罪者を診察することも珍しくないのでね」

 薬師寺は、その警戒態勢を楽しんでいるかのように微笑んだ。

「私もバカじゃない。逃げる理由もない。何より、早くそのファイルが見たい。君を歓迎しよう。〝我が新居〟へようこそ」

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