黒の牢獄

第1話 ～黒の章～

　古びたCaféの木製のドアにぶら下がった鈴が、チリンと鳴った。

　ドアの隙間から木洩（ こもれ）れ日を受けて、店内の埃（ ほこり）が光をわずかに反射した。

　全身黒ずくめの男は、夏にも関わらず厚手の黒いコートを身にまとい、黒い皮手袋を両手に装着していた。

　男は席に着くなり、サングラスと黒色のキャスケットを外した。

　――時刻は午前７時。

　店内には、まだ他の客はいない。

「予約の黒岩だ」

「いらっしゃませ。予約されなくても、席はたくさん空いてますよ。今日のご注文は？」

　研修中の札を着けた女性店員の白石が、明るい声で尋ねた。色白で笑顔が素敵な美人だと思った。

　黒岩は、照れ隠しのように咳（ せき）払いを一つしてから答えた。

「イカスミタリアテッレ。それから、ブラックを食後に。豆はブラックアイボリーで頼む」

「アイスかホットは、いかがなさいますか？」

「今の季節を考えろ」

　黒岩の低い声にも動じず、白石は嬉しそうに厨房（ ちゅうぼう）へと走って行った。

　白石が店内の本棚に肩をぶつけた拍子に、数冊の本が落下した。だが、注文を優先したのか、白石は本を元には戻さなかった。

　黒岩は仕方なく席を立ち、白石が落とした本を片付けた。店内はびっしりと本で囲まれている。

　Caféというより、図書館に近い。

　ふと、戻した本の近くに、酷（ ひど）く埃を被った黒い背表紙の本を見つけた。

　黒岩は本を抜き取り、埃を手で払った。

　突然、耳鳴りがして、店内のBGMが聴こえなくなった。

　胸騒ぎがする。

　黒岩は本を首に挟み、皮手袋を外した。コートのポケットに手袋を仕舞うと、表紙を見つめた。

『黒の牢獄（ ろうごく）』

　タイトルの下に、二つの眼球が描かれている。目は血走り、敵意を露わにしながらこちらを凝視（ ぎょうし）していた。

　気味の悪い本だ。決して開いてはならない。

　黒岩の直感がそう告げていた。

　ハード・カバーの上部から、栞（ しおり）が少しだけ顔を覗（ のぞ）かせている。

　ふと、指先が勝手に動いた。

　本を捨てようと慌てて抵抗したが、気が付けば自分の指でページを開いていた。

　――次の瞬間。

　暗闇の中に放り出されたように、視界から店内の景色が消えた。

　何も見えない。

　首が引き千切（ ちぎ）られそうなほど、闇の奥に吸い込まれていく。

　黒岩は両手を広げて、空中を搔（ か）き毟（ むし）った。

　何が起きたのか、理解できない。

「おい、どうなってやがる……」

　黒岩は振り返った。

　光を帯びた本の輪郭（ りんかく）が少しだけ見えた。

「クソ……化物め。やめろ！」

　頭部が本の中に飲み込まれている。

　状況を理解すると、背中から一気に汗が噴き出した。腹の虫が鳴るような不快な音が、闇の中から続けて聞こえる。

　黒岩は両手を本の端に掛け、頭を引き抜こうと必死にもがいた。だが、抵抗も虚（ むな）しく、身体ごと飲み込まれた。

　頭上では、本の表紙ほどの四角い小さな空間から光が漏（ も）れていた。

　黒岩は、慌てて空間に顔を押し付けた。自分が着ていた革のコートや靴が脱ぎ捨てられているのが見えた。

「何なんだ……いったい」

　出られない。

　息が苦しい。

　手足の自由がまったく利かない。不思議な力に遮（ さえぎ）られ、外の世界に指先すら出せなかった。

　空間から、白石が料理を運んでくる姿が見えた。

「黒岩様？　どちらにいらっしゃいますか？」

「ここだ！」

　黒岩の悲痛な叫びは、声にならなかった。

　白石が目の前でコートと靴を拾い上げた。

「おい！　私は目の前だ。分からないのか！」

　黒岩は必死に叫び続けた。

　白石の指先が黒岩の視界に徐々に迫ってくる。

　そうだ、私はここだ。助けてくれ。

　だが、黒岩の願いは届かず、白石の指先は視界を横切った。

　まさか――。

　黒岩の予感は的中した。

　身体がふわりと浮かび、本の隙間（ すきま）にゆっくりと収められた。

「……あぁ、そうか。私は『黒の牢獄』に、閉じ込められたのだ」