神を討つ
大塚
第1話
私は貰われてきた子どもでした。
売られてきたと言った方が正しいかもしれません。私は東京の出身で、母親はおらず、父親は私を持て余していました。そういう子どもを探している金持ちの家があると話を持ち込んだのはいったい誰だったのでしょう。ヤクザでしょうか。真相は闇の中ですが、私を育てる気など更々なかった父親は子どもを手放すことができる上に大金まで手に入るという話に飛び付きました。9歳で私は東京を離れ、N県にあるその家に引き取られました。
土地ではお山様と呼ばれ慕われているというその家は立派な鳥居があるお屋敷で、つまるところ神社なのでした。
広い広い立派なお屋敷に、夫婦ふたりとおばあさまとで住んでいるという話でした。巫女さんはおらず、宮司は市岡家の女性が務め、お守りなどを販売する売店は土地の学生が小遣い稼ぎに来てくれるそうです。私の母になる女性は、眦のきびしい、獣じみて美しい顔立ちの方でした。父になる男性もまた厚ぼったい瞼の下に三白眼を隠した、鋭い表情の方で、それでもおふたりとも長距離をクルマ(運転手は私を手放した男でも彼に人身売買を持ちかけた者でもなく、まるで知らない女性でした。おそらく市岡家の関係者だと思います)で移動してきた私を笑顔で労い、東京に較べると不便かもしれないが堪忍してほしい、本当の父と母だと思って甘えてほしいと言ってくださいました。
実際、もっと手酷く扱われると思っていたのです。たとえば毎日家中の掃除を申し付けられるとか。三食すべて私が準備するとか。父であった男との暮らしの中で私は大抵の家事を会得していたので、そういう意味では良い買い物だったと思います。しかし夫婦は、私をまるでーーまるで本当の子どものように可愛がりました。通い始めた小学校には各学年にふたつしかクラスがなく、私が市岡家の養子であるということを教師のみならず生徒全員が知っているような状況でしたが、所謂いじめに遭うこともなくどちらかといえば都会っ子がやって来たと歓迎された記憶があります。
私は、母である女性を奥様、父である男性を旦那様と呼びました。ふたりはもっと、こう、ふつうに、お母さん、お父さん、と呼ばれたかったようなのですが、育ての親のことさえその音で呼んだことがない私です。
「まあ、徐々に慣れていけばいいで」
旦那様が言い、そうね、と奥様が微笑みました。口を噤んでいる際にはおふたりとも整いすぎて恐ろしいようなお顔をしているのですが、笑った顔は本当に優しかったのです。私はそれまでの9年を捨てることを心に決めました。奥様と旦那様と暮らすこれからが私の本当の人生だ。子どもながらにそう誓ったのです。
奥様も旦那様も、私に隠し事をされない方々でした。つまり私は……すぐに聞かされたのです。市岡という家がいったいどういうイエであるかを。
代々女性だけがその能力を持つことを許される狐憑きの一族。お狐様の力を借りて怪異を祓うことを生業としてきたイエ、それが市岡。市岡神社。
女性だけが、ということは奥様がいまはそれをなさっているのでしょうか。拙いながらも言葉を選びながら発した問いに、奥様は大きく首を縦に振りました。
「おばけが見えるのですか」
「おばけも、妖怪も、それ以外も、なんでも」
「……怖く、ないんですか?」
「怖いわよ」
すごく、と付け足して奥様はまたちいさく微笑まれます。
「それでも私にはお狐様がいらっしゃるから、大丈夫なの」
「僕には」
見えないのですか? 僕はこの家で何をすればいいのですか? 何を求められてここに連れてこられたのですか? 尋ねたいことはたくさんありました。
「まあ、ゆっくり、ゆっくりでええど」
また、旦那様が仰いました。ゆっくり。私は何を覚えていけば良いのでしょう。
余談ではありますが、私が10歳になった頃、育ての父親が危篤であるという話を聞きました。奥様だけが私をこの山に連れてきた女性が運転するクルマに乗って東京に向かい、一週間後にひどく窶れた様子で帰宅されました。
家中を綺麗に掃除し、食事の支度をし、風呂を焚いた旦那様は戻られた奥様の強ばった肩を抱き、
「いたか」
「ええ、いたわ」
「……間に合わなんだか」
「ひとりで済んだ。間に合ったようなものよ」
「ああ、そうだ」
そのような会話をしていたのを、薄っすらと覚えています。
市岡家の能力は女性にのみ宿る。ルールはそれだけでした。
女性であれば良いのです。たとえば既に亡くなられた奥様のお父様、この方は奥様と血の繋がりがありますが能力はありませんでした。能力を持つのは奥様のお父様と結婚された女性ーーつまり奥様のお母様で、ご存命であるのですがこの方とは諸般の事情でお話を直接伺うことはできず、しかし旦那様と奥様のお話によれば市岡に嫁入りしたその日から怪異やそれに類するものを見るようになったということでした。正直なところ、すぐにすべてを理解し信じるというのは無理な話です。
旦那様ももちろんなにも見ることはできません。旦那様は会社員でした。地元の印刷会社に勤務し、技術者として日々忙しなく働いておられました。お山様がそんな風にお仕事をされるなんて、と微妙な対応をされることもあったそうでした。けれど旦那様はどこ吹く風、寧ろ、
「
などと飄々としていました。
日々は淡々と過ぎてゆきました。旦那様が猟師でもあると知ったのは中学生の頃です。熊や猪が山を降りてくる度に猟銃を引っ提げて家を出る様は、黒いスーツに身を包んで怪異との戦いに挑む奥様と同じぐらい凛々しく、格好の良いものでした。
女性だけに能力が受け継がれるという些か信じきれていない市岡家の伝承を、身をもって実感させられたのもその頃でした。中学生になり、交際するようなしないような、所謂カノジョになる前段階の関係である同級生を何度か家に招いたことがあったのですが、どの同級生も、また恋愛関係にはない一般的な友人関係である女性の同級生も、とにかく私に関わる女性全員が例の大きな鳥居の前で真っ青になり、
「やっぱり帰る」
と踵を返してしまうのです。
だからといって私に対する悪い噂が振り撒かれるということもなく、女性たちは皆自分が市岡神社の鳥居前で何を見たのか、誰にも告げることなくただ私の側を去っていきました。この事象に対する愚痴を、私は旦那様にだけ伝えました。奥様に言うのはなんだか恥ずかしいような気がしたのです。猟銃の手入れをしながら私の話を聞く旦那様は、
「お狐様だろうなぁ」
と呟きました。
「お狐様?」
「ん」
「どうしてですか?」
尋ねる私を三白眼がじっと見詰めます。年齢の割に白髪が多い旦那様の蓬髪、相変わらず鋭い眦、引き結ばれた薄いくちびる。
次の日曜日に、私と旦那様はふたりで遠出をしました。15歳になったばかりの秋でした。旦那様の運転する軽トラで山を越え河を越え、辿り着いたのは日本海でした。
「水を越えれば、お狐様は追ってこれね」
旦那様がぼそりと言いました。白髪の方が多い黒髪を引っ詰めてお団子にし、黒の襟付きシャツに黒いデニムパンツ姿の旦那様は、家の中で見るよりもなぜだか人間らしく見えました。なぜでしょう。旦那様はそもそも人間でいらっしゃるのに。
「市岡はな、お狐様にお嫁様を差し出して栄えてきた」
シャツの胸ポケットからハイライトを取り出しくわえ、火を点けながら旦那様はそう唸りました。
お嫁様。
「どう……いう……」
「わからんか。わからんでもええ。だが、聞くだけ聞いておけ」
「はい……」
「市岡に憑いているお狐様は好色なお方でな、女と見れば自分の花嫁にしちまう」
「……」
「
不意に、お会いできない刀自様のことを思い出しました。あのお屋敷の奥の奥の間に引きこもられている刀自様。奥様のお母様。
「そう。だから揚羽のお袋さんは、もう出てこない。少なくとも俺たちの代のあいだは」
日本海に夕陽が沈んでいきます。クルマの窓から旦那様の吐く紫煙がふわふわと溶けて消えていきます。
「おまえを引き取る前に、俺たちのあいだにも子どもがいた」
旦那様の顔を見ることができませんでした。たとえ横顔であっても、見てはいけないような気がしたのです。
旦那様は泣いていました。
「娘だった。6つの年に連れて行かれた」
「旦那様……!」
「巻き込んですまないな、サク」
逆と書いてサクと読みます。それが私の名前です。生みの親が私に与えた唯一のものが、この名前でした。
「土地の連中は市岡が途絶えることを恐れている。お狐様の加護で土地が栄えてると信じているからな。だが、お狐様のご乱行も良く知っているから、土地からは決して市岡に嫁を出さない。過去には市岡の男相手に想いを遂げられず、命を絶った者もいるという」
「ですが……お嫁に来てしまったら……」
「そう、来たところで見染められれば連れて行かれる。どちらを選んでも地獄ということよ。なあサク、いいか、おめえは、あの土地に留まる必要はない。そんな義理はない」
義理はない、かもしれません。けれど私には、拾っていただいた御恩があります。15歳でもわかります。旦那様も奥様も、気まぐれに私を選んだわけではないということが。おふたりは私を救いあげてくださったのです。父という名のあの男のところにいたら、私はこの年まで生き延びられなかったでしょう。あの男には何かが憑いていたのですから。
高校を卒業した私は、東京の大学に進学しました。それなりに真面目に勉強をする傍らそこそこ恋愛もし、ある女性に真剣に結婚を考えてほしいと告げられました。私は、私の事情を素直に話しました。気が狂っていると思われても構わない。私の人生に、軽率に彼女を巻き込むことはできないと考えたからです。
「じゃあ、行ってみよう。
彼女のような気丈な女性に会うのは初めてでした。私は彼女を連れてN県にゆき、ふたりで鳥居の前に立ちました。
「ああ」
と彼女は呟きました。
「本当にけものがいる」
大学を卒業してすぐ、彼女と私は籍を入れました。奥様も旦那様も複雑な顔をしておられましたが、それでも彼女は譲りませんでした。
奥様は彼女ーー
旦那様はただ黙って、猟銃の手入れをしていました。
結婚から2年が経ち、凛子が子どもを産みました。息子でした。名を
稟市を抱いた凛子が病院から屋敷に戻ってきた夜に、それは起こりました。鈴の音が聴こえるのです。ひとつやふたつではない、無数の、何百という鈴の音が。この私にも聴こえるのです。完全に異常です。自室に閉じこもった凛子は稟市を抱き締め、見えないなにかを警戒するようにあたりを睨み据えていました。
やがて真っ黒い着物に身を包んだ奥様が部屋に現れて、壁にたくさんのお札を貼り始めました。
「凛ちゃん、ここから出ちゃ駄目よ。何が起きても、稟市とサクちゃんと、ここにいて」
奥様は早口でそう言い残すと、貼りきれなかったお札を私に預けて部屋を飛び出して行きました。
鈴の音に重なって、獣の鳴き声が聴こえるようになりました。けもの。けものだ。狐です。お狐様がやって来たのです。生まれたのは息子なのに、なぜ。
「うちを狙ってる、んだと思う」
「えっ」
凛子が呻くように言い、私には馬鹿みたいな大声を出すことしかできませんでした。
「そういうケースも昔は結構あったって、義母さん言ってた」
つまり、それは。
「跡継ぎが生まれたタイミングで、外から嫁入りした女性を連れて行くってね。趣味が悪いよほんと、この家の守り神は」
守り神。そんなものを神と呼べるのでしょうか。神。神は決して人間を守るための存在ではない。神は人間よりも上にいるから、人間をどう扱うも神の自由。そういうことなのでしょうか。
「……ちくしょうっ」
黙って座っていることなどできませんでした。奥様からいただいたお守りを凛子と息子の周りにぐるりと並べ、残った分はシャツの胸ポケットに押し込んで部屋を飛び出しました。
途端、廊下の先の方から何かがーー誰かが吹き飛ばされて来ました。奥様でした。頭を打ったらしく意識はなく、着物には幾つもの裂け目、そこから覗く肌には無数の裂傷が残されています。
来たのだ、と思いました。
奥様を凛子がいる部屋に引っ張り込み、後ろ手に扉を閉めます。廊下がやけに長く、暗くなっているのが分かりました。ここはもう此岸ではないのでしょう。神の領域。なにが神だ。ちくしょうめ。私の妻にも、私の母にも、指一本触れさせない。
一歩足を踏み出すごとに凄まじい勢いで殴られました。神は、本当に女にしか興味がないのでしょう。それも新しく生まれた命や、外からやってきた目新しい者にしか。奥様はお姉様のお陰で守られた。ならば凛子を守るのは私の役目であるはずです。何が起きても。どんな目に遭ったとしても。
朦朧とする意識の中、一発殴られるたびにポケットのお札を拳の中に握り込め、殴り返しました。手応えはまるでありません。私だけがダメージを受けています。でも、それでいいのです。向こうの意識を私に向けさせていれば、もしかしたらどうにかなるかもしれない。朝になれば、朝の光で怪異は立ち去るかもしれない。何も分かりませんが、私にはこれを続けるしかないのです。
「サク!」
いったい幾度殴り合ったことでしょう。お札も尽き、ただ血塗れの拳を突き出すだけの私を誰かが呼びました。
ああ。
お父さん。
両膝を付きやっとの思いで怪異を睨み付ける私の肩に、重いものが乗りました。猟銃です。
右耳を掠めて飛んだのは、たしかに鉛の玉でした。
廊下の先で何かが大きく爆ぜ、真っ赤な火の手が上がっています。
そうして、この世のものとは思えない絶叫が響き渡りました。発砲の衝撃で廊下に倒れて動けなくなっている私の腕を、老いて尚逞しい手ががっしりと掴みました。
「朝だ」
その声でようやく、私は夜が明けたことに気付いたのです。
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