第27話 カーペットはふかふかでしたけども/52

 ☪



「うわー……おっきいお屋敷……」


 目の前にそびえる屋敷を見上げ、ニコは感嘆の声を漏らす。

 刃局からは直接依頼人の元へ送り届けろと言われ、指定されたのがこの豪邸であった。


「リィンちゃんって、もしかしてすっごくいいところのお嬢様……?」

「えっと……その、まあ……はい」


 とは言え以前住んでいた家とは比べるべくもない。ニコに曖昧に笑みを返しながら、リィンは屋敷に足を踏み入れる。


「お待ちしておりました」


 出迎えてくれたのは、見覚えのない金髪の若い男だった。年齢は二十か、精々三十といったところだろう。


「お初にお目にかかります。私はサイネルの代行、クナールと申します」


 クナールと名乗った男は折り目正しく頭を下げ、じっとリィンを見つめる。それはどこかソルラクに似た、感情の読めない視線だった。


「失礼ですが、あなたがリィン様であるという証はお持ちではないでしょうか?」


 たしかに失礼な言い分ではあったが、今の自分は砂や埃にまみれたみすぼらしい旅姿だ。リィン自身はソルラクが買ってくれたその服を気に入っていたが、実際に出会ったこともない相手が目と髪の色が同じなのを良いことに名前を騙るという事はあるかも知れない。


「これで良いでしょうか」


 そう納得し、リィンは母の形見の指輪を取り出し、クナールに見せる。


「これは……! まさしく」


 そこに彫られた印章。ソルラクが買ってくれた髪飾りと同じ、月下美人の意匠を目にして、クナールは興奮した様子で頷いた。


「あの。お父様は、ご無事なのでしょうか?」


 真っ先に一番気になっていたことを、リィンは問う。


「ええ。勿論、リィン様のお帰りをお待ちしておりますよ」


 そして返ってきたその言葉に、ほっと胸を撫で下ろした。


「この者たちが貴女をここまで送り届けてくれたのですね。どうぞ、お受け取りください」


 クナールは使用人に合図をし、報酬の入った袋を持ってこさせる。


「いやー、僕は別に大したことは何もしてないんですけどね」


 そんな事を言いつつもニコはそれをちゃっかりと受け取る。だが、ソルラクは反応すらしなかった。


「……ソルラクさん」


 彼が、お金目当てにリィンをここまで送り届けてくれたわけではないことは、よく分かっている。


「どうか、受け取ってください」


 しかしせめてものお礼をしたくて、リィンはソルラクにそう頼んだ。するとソルラクは無造作に金袋を掴み、中身を確認もせず背嚢に放り込む。


「……ソルラクさん。ここまで……どうも、ありがとうございました」


 そっと彼の左手に触れて、リィンは感謝の言葉を口にする。けれど、そんな言葉では全く足りなかった。


「わたし、は……」


 リィンを庇ってくれたその手。いつも抱き上げてくれた腕。最低限の応急処置はしたし、大した怪我ではないとニコも言ってくれたけど、ちゃんと治るだろうか。


 いつもソルラクは、リィンのことを気遣ってくれた。自分の分の食料を、こっそりとリィンの背嚢の中に分けてくれた事も知っている。


 眠る時はいつだってリィンの方が先に眠って、ソルラクの方が先に起きていた。だからリィンはソルラクの寝顔を一度も見たことがない。


 何度も疑ったり、怖がったりしたのに、何の見返りもなしにずっと守ってくれた。


 ソルラクは太陽のような人だと、リィンは思った。何も言わずすっとそこにあって、暖かな炎で照らしてくれる人。


 幾千、幾万の言葉が胸の内で渦巻いているのに、それを一つも口にすることが出来ない。言葉にした瞬間、どの想いも陳腐なものになってしまう気がして。


「わたしは……!」


 ぽん、と。


 ソルラクの手が、リィンの頭に置かれた。


 言いたいことは分かっている。そう告げるかのように。


「ありがとう、ございました……」


 深く、深く頭を下げ、リィンは溢れ出す涙を必死に堪えた。泣いてしまっては、余計にソルラクに迷惑をかけてしまう。


「さ、リィン様。ここまでの旅でお疲れでしょう。まずはゆっくりとお休みください」

「……はい」


 クナールにそう促され、リィンは最後にもう一度だけソルラクに向かって頭を下げた後、使用人に連れられて屋敷の奥へと向かう。


 案内された部屋は清潔で、美しい調度品に彩られ、今までリィンが泊まってきた宿とは全くの別物だ。かつてはリィンもそういった部屋で暮らしていたはずなのに、今となっては全く肌に合う気がしなかった。


「さあ、お嬢様、まずはその服を……えっ?」


 使用人の驚きの声にリィンは振り向く。


「えっ?」


 そして全く同じような声を上げてしまった。


 そこにソルラクが立っていたからだ。


「どうしたん……ですか?」


 彼はずかずかと部屋に踏み込んでくると、天蓋付きのベッドをちらりと一瞥した後、部屋の片隅に座り込む。それを見て、彼の意図を違わず察し、リィンは思わず吹き出してしまった。


 彼はこの部屋に泊まるつもりなのだ。それも、リィンが十人は眠れそうな大きさの天蓋付きのベッドの横の、床で。


「言っただろう」


 クスクスと笑うリィンに、珍しくソルラクの方から声をかける。


「たとえ太陽が月に追いつこうとも、俺はお前を守ると」


 それは、『どんな事があろうとも、絶対に』という意味合いを持つことわざだ。昼に登る太陽が、夜に登る月に追いつくことは決してない。


「これは太陽や月より大層な存在か?」

「いいえ……いいえ!」


 リィンは思わずソルラクに抱きつき、首を横に振った。胸の内から笑いがこぼれて仕方ないのに、瞳からは涙があふれて止まらない。こんな思いは、初めてのことだった。


「お嬢様! 今こちらに、先程の旅刃士が……っ!」


 血相を変えた様子でクナールがやってきて、ソルラクに抱きつくリィンの姿を見て絶句する。


「クナールさん。この方も、わたしの護衛に加えてください。とても頼りになる方ですから」

「なりません! そのような者に頼らずとも、これからは我々がお守りします」


 そのような者。恩人に対する物言いにリィンは一瞬ムっとするが、彼らにとって自分は直接の主人ではないと思い直す。


「お願いします。彼はここまでたった一人でわたしを連れてきてくれた、信頼できる方なのです」


 そう頼み込むと、クナールは何かを考え込むようにリィンを見つめた。


 またあの視線だ、とリィンは思う。何を考えているのかわからない、感情の読めない瞳。


 だがそれは、よく見てみればソルラクとは全く違った。

 ソルラクの瞳は、野生の竜のような瞳だ。そこには意思も意図もない。ただ見つめているだけ。そんな印象を受ける。


 だがクナールの目はそうではなかった。ソルラクの視線に慣れていなかったら気づかなかったかも知れない。しかしその時のリィンには、何らかの意図を奥に隠した視線であるように感じられた。


「……わかりました。お嬢様がそうまで仰るのであれば、こうしましょう。私と勝負し、勝つほどの腕であれば護衛に加えても構いません。ですが負けるようであれば、我々にお任せくださいますね」


 リィンは思わずソルラクに視線を向けた。彼は左手を怪我しているし、クナールがどれほど強いのかもわからない。しかしこうして申し出てくるからには、相当強いのだろう。そんな条件を受けてしまっていいものだろうか、と悩む。


「ああ」


 だがソルラクはのそりと立ち上がると、クナールを見下ろしながら、はっきりと答えた。


「受けて立つ」

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