現実は甘くない
通木遼平
前編
「やっぱり無理……」
深いため息とともに誰にでもなくモニカはつぶやいた。魔法学園二年目の春のことだった。
***
モニカ・ティアニーはとある王国の王都に近い、自然豊かな田舎町で生まれ育った。物心ついた頃には、モニカは自分の中にこことは別の世界――日本で生きていた時の記憶があることに気がついた。と言っても、はっきりとした記憶ではなくそれはぼんやりとしたもので、まだ生まれてから数年しかたっていないのに「昔こんなことあったなぁ……」と時折思い出す程度のものだった。
そのため、モニカは日本人として生きた記憶に振り回されることなく、ただ周りからはちょっと大人びていて変わった子だなと思われはしたがおおむね平穏にモニカ・ティアニーとしての人生を生きてきた。
そんなモニカが前世のことを強く意識することになったのは、十二歳の時に教会で行われた魔力測定の時だった。
この国には魔法が存在し、この国で生まれた子どもたちは身分を問わず定期的に教会で魔力測定を行う。強い魔力を持っている子どもはその制御などを学ぶためにも王都にある魔法学園に入学することを推奨していたからだ。元々モニカには魔法の才能があったが、その魔力が飛躍的に上がったのが判明したのは十二歳の魔力測定の時のことだった。
測定を担当していた魔法庁の役人は当然モニカに魔法学園の入学をすすめた。モニカもモニカの両親も魔法学園には興味を持っていたので話を聞くことにしたのだが、学園について説明を受けている間にモニカは気づいたのだ。「この学校、ゲームであったな……」と。
つまりモニカが生まれたのは、前世でモニカもプレイした乙女ゲームの世界だったのだ。
そのゲームは西洋風の異世界が舞台の乙女ゲームだった。シリーズが何作品か出ている固定ファンの多い人気シリーズで、いつも同じ学園が舞台の学園ものでもあった。魔法の才能がある主人公が四年制の魔法学園に入学し、攻略対象と出会い親睦を深め、卒業式の日に告白し――あるいは告白され――エンディングだ。ちなみにどちらから告白するかは好感度やイベントをどれだけ見たかによって変わる。
プレーヤーにはいくつかのパラメータが設定されていて、攻略対象によってどのパラメータを伸ばす必要があるかが違う。ゲーム内のカレンダーの週はじまりにその週にどんな行動をするかを決め、受ける授業によってどのパラメータが上がるのかも変わるのだが、このゲームの特徴はそれにプラスして二年生の終わりに行われる進路選択で攻略対象の好感度が大きく変わることにある。
進路選択にもパラメータが関係しているのだが、攻略対象の好感度を大きく上げる進路を選ぶのに必要なパラメータが必ずしも攻略に必要なパラメータと一致しているとは限らず、パラメータを上げるのに失敗すると狙った進路が選べない事態に陥り、狙っていた攻略対象とのエンディングが迎えられないこともありえた。
攻略サイトも参考にしながらモニカは前世でそのゲームをプレイしていたが、ちょっと考えながらパラメータを上げる、その匙加減の絶妙な難しさが好きだった。もちろん、イベントやスチル、エンディングはそれ以上に好きだったが。
乙女ゲームの世界であることを思い出してから、モニカは今まで意識していなかった前世をできる限り意識してゲームの内容を思い出そうとした。特に攻略対象のことを――しかしある程度のことを思い出してみると、自分、つまりモニカ・ティアニーというキャラクターに全く覚えがないことも思い出した。
名前はもちろん、見た目もだ。数少ない女の子キャラクターはもっとかわいらしかったと思う。モニカは見た目に関してはごく平凡で、髪もこの国ではありふれたチョコレート色だ。目元は親しみやすい雰囲気で、身内からはかわいいと言われるが身内以外からは言われない。田舎育ちで農作業の手伝いなどをしていたため、スタイルだけはバランスが取れていていいほうだと思う。
モブですらないが、折角前世でプレイしたゲームの世界に生まれたのだから一番好きだった攻略対象と出会いたいし、ゲームのように恋愛してみたい……モニカは学園に入学するまで、そう思っていた。
***
「そんなことないよ!」
魔法学園の食堂のテラス席の一つで、机に顔を突っ伏して「やっぱり無理」とつぶやいたモニカの頭の上から愛らしい声が降ってきた。顔を上げると買ってきた飲み物を手に友人のティナがちょっと眉をつり上げてモニカを見下ろしていた。
二人分の飲み物をテーブルに置いて席に着いたティナはピンクブロンドのやわらかそうな髪をツインテールにしたかわいらしい女の子だ。かわいいという言葉はティナのためにあると思う。一年生の時から同じクラスで席も近かったために親しくなり、今では一番の親友と言ってもよかった。
このティナはゲームでも見たことがある。キャラクターの好感度などを教えてくれる役目を持った、主人公の友人ポジションの女の子だ。実際、ティナには彼女と同じくらいかわいらしい友人が多くいて、きっとその中の誰かが主人公なのだろうとモニカは考えていた。
「大丈夫、ライナスくんは他の女子にはもっと冷たいから!」
「そうかなぁ……」
ぼんやりと見つめた先には運動場がある。先ほどまでモニカがいた場所だ。彼に――ライナスに会うために。
ライナス・ハミルトン――濃い赤茶色の短髪に明るい緑色の瞳、長身で、鍛えられた体をした彼こそ、モニカの前世の推しだった。彼のエンディングを全種類コンプリートするために何周もしたし、制作や担当声優のインタビューも全てチェックをした。無愛想だが好感度が上がってくると不器用ながらもやさしさを見せてくれて、照れた顔のギャップが最高だった。
ライナスは魔法騎士を目指しており剣術や馬術など騎士に必要な授業や課外活動を多くしている。ゲームでは彼を攻略するのに一番高くしなければいけないパラメータは体力で、彼と同じ授業や課外活動をとっていれば自然と体力のパラメータも彼の好感度もあがる仕組みになっていた。
一方で、進路選択で大きく好感度を上げるには治癒師を選ばなければならず、こちらには学力と気遣いのパラメータが必要だった。しかしライナスと同じ授業を受けていると学力は低下しやすく、プレイする時は頭を悩ませた記憶がある……。
魔法学園に入るとすぐにモニカは当然前世の推しの姿を探し、好きなキャラだからという軽い気持ちで彼を目で追うようになり、彼と恋をしてみたいという気持ちもやはり軽いまま、ゲームを思い出しつつ授業を選び、なんとか彼と接点を持とうとした。
でもここは現実だ。現実は甘くはなかった。
まず魔法騎士に必要な単位と治癒師に必要な単位を両方満遍なくとるのが大変だった。もちろんかぶっている教科もあるが、それでも一年生の時は期末試験のたびに泣いていた。
次に彼に声をかける難易度が高すぎた。ゲームなら声をかけて選択肢を間違えなければ好感度がまだそれほど高くなくてもそれなりに会話をしてくれる。けれど現実はそうではない。
だから今日も玉砕したのだ。
モニカは心が折れそうだった。
ゲームでの行動と同じように、モニカはやや後悔しながらも懸命に授業を受け、ライナスとも接点を持とうと放課後、彼が自主訓練をしている運動場へと向かった。魔法騎士を目指している生徒の多くは放課後や早朝に運動場で剣術や馬術などの授業に向けての自主練はもちろん、体力づくりの走りこみなどをしている。ゲームでは主人公もそれに参加しようと運動場に赴き、一人で参加するのに不安を覚えてたまたま近くを通りかかったライナスに声をかけるのだ。
でも実際に同じ行動をしてみて、ゲームの主人公は勇気あるなとモニカは実感した。
ライナスは声をかけると立ち止まってくれたが、モニカには女子と一緒に訓練をした方がいいと言って去って行ってしまった。当然である。男子と女子ではそもそも体力に差があるし、モニカは女子でも体力的には普通の方だ。ライナスと一緒に自主訓練なんてそもそも無理がありすぎたのだ。
それでも授業を死にそうになりながらがんばっているんだから……という気持ちもあって、モニカはあきらめず、一年生の間はたびたびライナスに声をかけた。くじけそうになりながらも、何度も、何度も……もちろんライナスに断られた後は彼に言われた通り他の女子生徒と一緒に訓練をして帰ったが、今まで一度もライナスと一緒に行動をしたことはない。
「でも絶対に迷惑だと思われているし、そろそろ嫌われてきた気がする……」
一年間同じ行動をくり返してきて、モニカは内心そう思っていた。というか、自分だったら迷惑だ。ライナスはなんだかんだやさしいからいつもちゃんと立ち止まってくれるだけで、普通ならいい加減無視されているだろう。
そう、ライナスはやさしい……それも、モニカの心を折る要因になっていた。
「あきらめちゃうの? ライナスくんと一緒にいたくてがんばってきたのに?」
ティナの方が泣きそうで、モニカはちょっとだけ微笑んだ。
最初は、ゲームの推しだったからだ。それは間違いない。でも実際にモニカとして彼と接して、彼を見つめて、彼はゲームと同じように無愛想で、ゲーム以上に面倒見がよくやさしくて、そして何よりゲームでは知らなかった現実の彼は誰よりも努力家で……いつも放課後誰よりも遅くまでボロボロになりながら自主訓練をしている彼の姿を知って、いつの間にかモニカとして本気で彼を好きになっていた。
「でももう、二年生だから」
一年生が終わり、二年生になる前の長期休暇の間にモニカはいろいろと考え――そして、前世はあくまで大昔の思い出として心の奥にしまうことにした。ライナスのことをあきらめるのではなく、前世のゲームの推しであることを引きずったまま好きでいることは不誠実だと思った。それに――
「それに、治癒師になりたいなって思ってて……二年生の終わりに、進路選択があるでしょう? 今から治癒師にしぼって、勉強をがんばりたいなって」
「たしかにモニカはたくさん授業を受けてるし、もう少し減らした方がいいとは思ってたけど……」
ティナは納得いかない顔をしていた。
「ライナスくんのこと、あきらめるわけじゃないよ」
モニカは言った。
「あきらめられないし……でも、治癒師の夢もあきらめたくないの」
攻略のために選ぼうとしていた進路だが、実際に授業を受けたり治癒師の仕事を知ったりする中でこういう仕事をしたいと思うようになったのは本当だ。特に一年生の終わりに行った課外授業で治癒師の仕事を体験してからその気持ちは強くなっていった。
モニカのまだまだな治癒魔法を使って簡単なケガや不調を治したのだが、温かな笑顔とお礼の言葉を受けてやりがいを感じたのだ。
治癒師になるためのコースに進むには成績はぎりぎりで、魔法騎士のコースに必要な授業を捨てれば成績があがるのはわかっていた。実際に、教師にもそうするようにすすめられている。
「接点はなくなっちゃうかもしれないけど、見てるだけでも十分だし……」
「モニカ……」
胸の痛みには気づかないフリをして、モニカは静かにそう言った。
*** ***
「最近あの子、見かけないな」
一緒に走り込みをしていた友人の言葉にライナスは一瞬誰のことを言われているのかわからなかった。それでも不思議と脳裏に温かなチョコレート色の髪の、やさしげな顔立ちの同級生の姿が浮かんだ。
「あの子……?」
それでも友人が彼女のことを言っているかわからず、ライナスは聞き返した。「よくお前に声をかけている子だよ」とどこかおもしろそうに彼は言い、その口から出た特徴はまさにライナスが思い浮かべた彼女のものだった。
「反応薄いな。気にならないのかよ?」
「なんで気にする必要があるんだ?」
「だってあの子、絶対にお前のこと好きじゃん」
「……は?」
「そうじゃなかったらわざわざ話しかけづらいお前に声をかけに来ないだろ」
当然とばかりにそう言った友人にライナスは眉間にしわを寄せることで返事をした。失礼なことを言われた気がするがまあそれはいい。しかしそういう意識をしたことがなかったライナスにとって、友人の発言はまさに寝耳に水だった。
ライナスは今までそれなりに
しかし名前も知らない彼女はたしかにライナスにわざわざ声をかけて自主訓練を一緒にと誘っては来たが断ればそれで引き下がったし、何より他の時には一切接点がない。だからそういう好意を抱かれているとは少しも思っていなかったのだ。
友人から指摘されてからというもの、ライナスは彼女のことが気になるようになった。クラスが違うため、人がにぎわう廊下や食堂にいる時は自然と彼女のチョコレート色の髪を捜すようになっていた。見つければ目で追うようになり、そんなライナスに友人はいつもにやにやと愉快そうな笑みを浮かべていた。どうやら彼はライナスが彼女のことを意識していると思っているようだった。
そういうつもりはないのに……。
その日も友人からあれこれ詮索され、うんざりして逃げるように厩へと向かうところだった。学園では馬術の授業のために何頭かの馬を飼っている。世話をする者はちゃんといるのだが生徒も手伝っていいことになっていたので、元々動物が好きなライナスはよく馬の世話をしに行っていた。
「あっ、すみません」
一階の廊下の角を曲がったところで反対側から来た人とお互いにうまくよけ切れず、目の前でよろめいた体にライナスは咄嗟に手を伸ばした。つかんだ腕は驚くほど細い――しかしそれ以上に、目の前に現われたチョコレート色に驚いてライナスは明るい緑色を見開いた。
「いや――すまない、こちらこそ」
心臓が跳ねるように動くのを感じながら、ライナスは手を離した。目の前の彼女もライナスに気づいて目を丸くした。
*** ***
「久しぶりだな」
こんなところでライナスとばったり会うだけでも驚きなのにまさか声をかけられるなんて思ってもみなかったモニカは、驚きに丸くしていた目をますます丸くした。どう答えていいかわからずにいると、ライナスは突然声をかけてしまったことに後悔したのかばつの悪そうな顔をして「二年になってから運動場に来ていないだろう?」と彼にしては珍しく口ごもりながら言った。
「その、悪い意味じゃなく……君も忙しいだろうし、自主練はあくまで自主練だからいいんだが……少し気になって……」
きっと放課後の運動場に来なくなったことを責めているように聞こえないか気にしてくれているのだろう。温かくなる胸に頬もほんのり熱くなるのを感じながら、モニカは微笑んだ。
「進路の関係で、治癒師のコースに必要な授業をがんばることにしたの。今受けている授業も落第はしないようにするつもりだけど……ちょっとギリギリだから、自主訓練には行けなくって……」
「そうか」
「あの――去年は、ごめんなさい」
「去年?」
「いつもライナスくんに声をかけて、迷惑だったでしょう? これからは、」
「そんなことない!」
突然大きな声で遮られて、モニカはぽかんとライナスを見上げた。
「あ、いや……迷惑だなんて思ってない。俺こそ、いつも君を追い返すようにしか対応できなくて……」
「そんな! ライナスくんの言っていたことは正しいよ。最初から女の子に声をかけるべきだったのに……」
どうしてライナスに声をかけたのかを聞かれると答えられないので、モニカはそれだけ言ってそれ以上は何も触れなかった。
「ライナスくん、用事があったんでしょう? 引き留めてごめんなさい」
「いや、時間があるから馬の世話をしに行こうと思ってただけだ。俺の方こそ引き留めてしまったな」
「わたしのことは気にしないで」
モニカが笑ってそう言うと、ライナスはなんだかおかしな顔をした。しかし一瞬だったためモニカは首を少しだけ傾げ、「それじゃあ」と持っていた本を抱え直した。
「またね」
すれ違う瞬間に、「待ってくれ」と呼び止められる。
「どうしたの?」
「その……名前を教えてくれないか? 君は俺の名前を知ってるのに、俺は君の名前も知らないから」
「あっ……そっか。勝手に呼んでごめんなさい。わたしは――モニカ。モニカ・ティアニーです」
「そうか。モニカ――ありがとう。それじゃあ、また」
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