階段を下りる / もくふー

追手門学院大学文芸同好会

第1話

 夜のオフィス街みたいだ。機械の音しか響かなくて、冷たい。暗闇の中を進んで行けば行く程、五感が研ぎ澄まされていくような気がした。


 もう春だというのに肌寒い。運動するにはうってつけの気温だ。とはいえ、二千段を越える階段を下りている最中の僕にとっては、気温が何度であろうが関係ない。しんどいのに変わりはないのだから。

「えーっと、これ、ほんとに地上に繋がってるんですか」

『もちろん。頑張れば、六十分くらいで地上につくと思うんだけど。まだ下り始めたばっかでしょ。がんばれ』

 だるそうに反響する僕の声と違い、其の人の声は携帯電話の向こうからはっきりと聞こえる。声が目に見えたら、彼女の声はキラキラと輝いているのではないだろうか。





 こんな階段を下りる羽目になったのは、この電話の相手のせいだというのに。

 発端は、僕の二十歳の誕生日に、其の人が展望タワーの入場チケットをプレゼントしてくれたことだった。タワーの第一展望台で従業員として働いているから、ぜひ来てほしいと一言添えて。

 正直、行く気は起こらなかった。そもそも、僕は高いところが苦手だ。それでも僕がタワーに上って、「実は高いところ、苦手なんですよね」と感想を伝えてやろうと思ったのは、それを聞いた其の人の、驚いて謝るところが見たかったからだ。




 平日の夕方なら混雑は避けられる。大学のテストを切り抜けて、オレンジ色に染まる町を抜けて、白く高くまっすぐなタワーから出てくる観光客の波も抜けて。そうして開くのは、大展望台へと繋がるエレベーターの扉。迷わず乗り込んで、現在地点を知らせる電子パネルを見つめた。そうしてタワーの第一展望台にたどり着くと、予定通りの時間に其の人はいた。


「来てくれたんだ。嬉しいな」

 其の人は屈託のない笑顔を浮かべた。

「あー。はい。チケット、ありがとうございます。せっかくもらったんで」

「こんなとこ興味なさそうだし、来てくれないと思ってたよ」

「たしかに、初めて来ましたけど。僕、高いところ苦手なんで」

 わざと困ったように笑ってみせた僕に、其の人が「あ」と一瞬目を見開いてくれたところは、僕の予想通りだった。でも、其の人が謝ろうとしたのを遮った警報音は、このタワーの誰もが予想外のことだっただろう。


『只今の警報音は、エレベーターの不具合によるものです。只今から、エレベーターの点検を行います。繰り返します……』

 けたたましい警報音の後に、アナウンスが響く。


 其の人は、僕に安心するようにと一言告げて、すぐに仕事に戻った。


 どうやら先程の警報音は、小さな不具合を知らせる事前の警報だったらしい。もちろん怪我人もなく、点検してもらえればすぐ直るそうだが、専門の業者が着くのが遅れているようだ。



 詳細を告げるアナウンスをぼんやりと聞いていると、足早に其の人は戻ってきた。

 「ちょっときて」と、僕の腕を掴んだ彼女は、悪巧みをしている子供みたいな顔をしていた。バックヤードまで来ると、彼女は人目につかないようにしながら関係者以外立ち入り禁止の扉を開けた。

「はい」

「え?」

「高いとこ、ダメなんでしょ。こっから階段で下りて。先輩とか他の従業員さんには、高所恐怖症で早く下りたい子がいるって言ってあるから。これぐらいの事態なら、本来立ち入り禁止なんだけど、今回は特別。でも、他の人には絶対内緒ね」

「いいんですか、それ」

 そこに広がっていたのは、無機質なコンクリートの階段。僕の住んでいるマンションのものと変わらないような造りの階段だが、地上は見えないほど遠く、永遠に続いていくような階段だった。

「いいのいいの。緊急事態だし。こっちの状況がもうちょい落ち着いたら、電話するから」

「電話するんですか。なんで?」

「どうしてって、こんな長い階段、一人じゃ寂しいでしょ。あ、ねえ。立ち入り禁止に立ち入るのって、悪いことしてるみたいじゃない?」

 自分が下りる訳でもないのに、其の人は楽しそうに笑った。それに対して僕は、空いている時間とはいえ多くの人が展望台で待機している状況で、僕だけズルをするみたいで複雑な気持ちだった。

「それじゃ、快適な空の旅にいってらっしゃーい。なんてね」

 其の人の従業員お決まりのセリフに、僕は「はい」とだけ返して階段を下り始めた。





 しばらくしてから、其の人から電話がかかってきた。無言が続くのも気まずいので、僕は他愛もない話を続けた。

「今更なんですけど。僕、空は苦手ですけど、別に高所恐怖症って程ではないから、大丈夫なんですよね」

『そうねえ。体調は悪そうじゃなかったけど。でも、嫌だって顔に出てたよ。一刻も早く下りたいですって』

 僕が不満を漏らすと、其の人はからかうような口調で答えた。今は携帯電話越しだからわからないけれど、長い黒髪をくるくると手でいじって遊んでいるような、そんな声だった。



 其の人の明るい声を除けば、ここで響くのは冷たいものの音ばかりだ。機械室の扉の向こうから聞こえる機械音に、蛍光灯がじじじじと鳴る音。それから、僕の相槌と、一定のリズムで階段を下りる足の音。殺風景なこの景色でも生きているのは、其の人の声くらいだ。ああ、それに対して僕の声はこんな景色によく馴染む。

 声まで空気に馴染めるなんて、さすが僕だ。TPOをよく弁えている。そんな風に自己評価を下していると、其の人は唐突に切り出した。


『突然だけどさ、私のこと嫌いでしょ』

 その口調は、少し悲しそうで、僕はたじろいながら答えた。

「え。別に、そんなことないですよ」

『ああ、もうそれ、絶対うそ』

「信じてくださいよ。ほんとっすよ。人を嫌いになること、ないです」

 軽い調子でそう返すと、図星だろうと言いたげに質問してきた其の人は、電話越しに唸った。どうやら満点回答は「嫌い」だったようだ。でも、もしかしたら「好き」と答えても六十点くらいは取れたかもしれない。不正解は僕が答えた「そんなことないですよ」だったようだから。



『……ほんっとに真面目な、いい子って感じで扱い難しいんだよね、君。なんだっけ、「飛行機雲みたいに白くてまあっすぐに生きていたい」だっけ。中学の文集、読ませてもらったの』

「え、文集?なんでそんな恥ずかしいものを。父さんに見せてもらったんですか」

「正解!」

 中学の文集の話を掘り下げるなんて、真夏のベランダを裸足でフラダンスするレベルの大火傷である。地上の見えない階段を下りている今の状況より精神的に重症だ。家に帰ったら父親には一言文句をいってやろう。


 僕は確かに、文集にそんなことを書いていた。しかも、その考え方は今も染みついている。中学生の時と変わらない思想を持っているなんて痛々しいだろうか。しかし、僕はどうしても、悪さもせず真面目に、白くてまあっすぐに生きていかなければならないと思ってしまうのだ。

『この文集読んで、なんか納得したんだよね。君が私のこと嫌いって言わないのとか、本音を言ってくれないのって、このことが理由なのかなって』

「別に、そんなことは」

『また誤魔化すー。嫌いなら嫌いって言ってよ。初めて会ったときもそうだったよね。それから今まで、ずっとそう』

 僕は誤魔化しているつもりはないし、そもそも「嫌い」とか「嫌だ」とか、そういうことを思わない。しかし反論するのは億劫で、「ああ、はい」なんて適当な相槌をうった。

 飛行機雲みたいに白くてまあっすぐに生きている人っていうのは、他人に対して「嫌い」なんて思わずに思い遣ることができて、誰に対しても笑顔で優しい人だろう。僕は残念ながら笑顔は苦手だが、せめて誰にでも悪意を向けずに優しく、正しくありたい。



 それにしても、其の人と初めて会った時、そんな気になる出来事があっただろうか。僕には該当する記憶がなかった。

「初めて会ったとき、僕なんかしましたっけ」

『違う。何もなかったのよ。

 普通、機嫌悪かったり、反抗したりするもんでしょ。喧嘩したり言い争ったり。そりゃ思春期じゃあるまいし、暴れるとかはないだろうけど。それにしても聞き分け良すぎ』

「何が悪いんですか。いいことじゃないですか、聞き分けが良いって」

 さっきから僕を根本から否定するような発言が続き、腹が立ってきた。僕の大事な人が、言ってくれたのだ。


——白くて、まあっすぐに生きて欲しいと思ってるの。あの飛行機雲みたいで、素敵でしょ。


 その通りに正しく生きているだけなのに、何がいけないのか僕には分からなかった。それに、言い争わないことが、大人になるってことだろう。人を嫌いになるより、受け入れてしまう方が大人だ。

『言い争わないことが、いいことじゃないでしょ。私のこと嫌いなら嫌いっていってよ。中途半端に誤魔化さないでよ』

「それは……」



 ブツリ。



 僕が適当に会話を続けようとした、その瞬間。

 突然、階段にある全ての電気が消えた。


 その異常事態を其の人に伝えると、冷静な答えが帰ってきた。

『わかった。何があったのか、同僚に聞いてくる。通話のままにしとくね』

 ガサガサと音がしてから、携帯電話からの声がなくなる。


 すると、ここは途端に音がしない暗闇となる。機械の音もしなくなり、ありえないほど静かだ。お化けが出るような生易しい怖さではなく、夜の街から人がいなくなった時のような、底冷えする冷たさである。


『あ、もしもし。大丈夫?

展望台は普通に電気点いてるんだけどね。なんか点検の都合で、階段のとこは電気消えてるっぽい。三十分くらいしたら点くみたいよ』

 この人の声がするだけで布団で包まれた時のように、暖かく感じた。どうしよう、絆されてきてしまったかもしれない。


「はやく下りたいんで、このまま下りていきます」

 左手は携帯電話、右手は壁に。「こけたら危ないから、しばらく座ってなさい」という其の人を無視して一歩づつ慎重に進んでいく。

 あまり長く話していたくなかったからだ。余計なことまで話してしまいそうで、できるだけ早く下りてしまいたい。




 言うことを聞かなかった僕に呆れたのか、其の人は口を開かなくなった。故に、沈黙。携帯電話から聞こえる微かな雑音と、僕の心臓の音、階段を下りる足の音が規則的に響く。



 この状況に、ずっと前に胎内巡りをしたことを思い出した。もう十年も前の、寺の境内にある長い戒壇を通り抜けた記憶。眼を凝らしても見えない暗闇に、恐れおののいて歩みを止めたとき、後ろから暖かい声が響くのだ。


——大丈夫だって。ゆっくりでいいから。進んでってよ。もー、はーやーくー。


 ゆっくり進むのか速く進むのか、どっちなんだ。無茶苦茶であるが、その声は不思議と、歩みを進める原動力となったのだった。ずっと前に聞いたあの声は。



『あのね』

 沈黙を破って其の人が電話越しに話しかけてきたため、胎内巡りの記憶はぱちんと弾けて暗闇に霧散した。

『さっき、言いたいことあったら言って。なんて伝えたけど、別に急がなくていいの。ゆっくりでいいかな、とも思ってるのよ』

 言いにくそうに話を切り出した其の人の声は、ずっと前に聞いたあの声に似ている気がして、思わず不機嫌そうな声を発してしまう。

「ゆっくり進むのか、速く進むのかどっちなんすか」




 しばらく暗闇の中で会話をしながら、壁を頼りに下りていくと何かを触った。壁に何かが取り付けられているようだった。

「なに、これ。……写真?」

 携帯電話の画面で照らすと、このタワーの全貌が写った写真がぼんやりと浮かんだ。

『えっ。ああ、それね。もうそんなとこまで下りてきたのね。少し下りたら、また同じような写真があると思うから、探してみてよ』


 其の人の言うとおり下りていくと、さっきと同じように額縁に入れられた写真を見つけた。

「これ、工事風景ですか?」

『せーかい。前に一回だけ、このタワーの階段を登るイベントをしたの。その年に成人になった人限定ご招待で。その時のが残ってるのよね』

「ああ、なるほど」

 長い階段を登る人が楽しめるように飾られたこの写真たちは、上に登るにつれてタワーが完成していくのだろう。つまり、階段を下りている僕にとっては逆再生だ。まるでタワーが。

『解体していくみたいに、見えるんじゃない?』


 其の人が、いつものように軽い調子で言った言葉は、まさに僕が考えていたことであった。考え方が同じなのかと思うと癪に触って、また不満が増す。「自分の機嫌が悪いだけで、八つ当たりなのはわかってますけどね」と心の中で呟いて、また階段を下り始めた。




 しばらくして、其の人は苦笑交じりに僕に問いかけた。

『ありゃ、返答がなくなってきた。ちょっと疲れてきた?』

「……まだ、大丈夫です」

 其の人は、軽い調子で接してくるくせに僕の変化にはすぐ気づく。其の人が言ったとおり、身体は疲れを感じ始めていた。先の見えない階段にため息をついてしまう。




 また一枚、壁の写真を見つけた。

 それは、展望台のあたりまで完成している写真だった。携帯電話の光で照らすと、さっきまでいた展望台が浮かび上がる。延々と続く階段のせいで体感時間や体感温度が夢の中のように鈍くなる前は、こんな高くて明るいところにいたのだと驚いた。


 いつもより近いオレンジ色の空が見えて。そんなオレンジを追いかける夜の紫を、まるい雲のかたまりが装飾していた。まっすぐに伸びる雲もあって。まあっすぐに伸びる飛行機雲もあって。どこかの工場の煙も。黒く高く昇ってく煙も。



『ねえ、なんかボーっとしてない? ほんとに大丈夫? あ。心が荒んできちゃった?』

 昔聞いたあの声と似ている其の人の声で、視界が現実に戻る。けれど、この現実は目を凝らしても遠くが見えない、真っ黒い闇だ。


 自分だけは「白くてまあっすぐ」でいるはずなのだけれど、白いはずの自分と、真っ黒なこの空間との境界線が壊されていくような気がした。自分まで真っ黒な空間に取り込まれてしまいそう。まるで、此処にいる僕の存在が解体されて、ずっと前の姿に戻るような錯覚だった。


「いや、別に。ただ、あなたがへんなこと言うから、思い出しちゃって。小さいときのこととか、たい内めぐりとか、あのとき」

『あのときって?』

「わざわざ言わなくても、知ってんでしょ」


 僕は本当にボーッとしだして。ずっと昔に聞いたあの声が、もう二度と聞けなくなってしまったその日を、思い出した。





 それが起こったのは、今からちょうど十年前だ。

 当時十歳だった僕は、テレビのニュースを呆然と見つめていた。


 山の鮮やかな翠に囲まれて煙をあげる、黒くなった飛行機。中継をするヘリコプターの騒音と、「死者多数」を伝えるリポーター。


——お母さんの職場はね、空なの。もーわかってないなぁ。正確には空に浮かぶ鉄の塊、つまり飛行機の中なんだけど。職場が空って言ったほうがかっこいいじゃないの。


 もちろん、その鉄の塊もかっこいいのだと、母は自分の乗る飛行機の特徴を説明してくれた。煙の隙間から見える機体は、その特徴と嫌になるくらい一致していた。


 母が誇りに思っていた上品でかわいい制服も、黒く長い髪も、ハキハキと響くあの声も、あの煙の黒の中だ。


 それから僕は、母との思い出の全部に「幸せ」と名前を付けて、必要な時以外思い出さないように蓋をした。

 でも、蓋をしても、「飛行機雲みたいに白くてまあっすぐ生きてね」という声だけは鮮明に頭に焼き付いていた。





 消そうとしても響くその声に、其の人の声が重なる。

『あー。あー。応答願いまーす』

「……ごめんなさい。きこえてます。ちゃんと」

『うん、よかった。君が言わなくても、その事故のことは知ってる。けど、そうじゃなくて、それだけじゃなくて、もっと君のこと教えてくれない?』

「あなたには、かん係ないじゃないですか」

『あるでしょ。私、君の今までの二十年を、全部は無理でも、全部知りたいんだから。別になんでもいいから、お話してよ』

 僕はいつも相槌をうつ側で、自分から話すことはあまりない。だからだろうか、何か自分のことを話そうとしても、上手にまとまらない。

「記おくに残ってることってなにかあったっけ。ええと、その日のことだったら」

 急かされるままに僕は話す。確かその日は、あんな状況なのにご飯が美味しかった。大事な人がいなくなっても、ご飯は美味しい。夜は眠たい。

 我ながら、感想や事実がごちゃまぜになった話し方だったと思う。


 大学の話から高校・中学の話まで、全部時系列はバラバラで脈絡がなく、ヤマもオチもない話だった。

 それでも、彼女は全部聞いてくれた。僕が楽しそうにしていたら楽しそうに反応し、悲しそうにしていたら静かに相槌をうった。

 こんなに話をしたのはいつぶりだろう。少しずつ警戒心が緩んでいく。

「あとは、小学生のころに……。あ、ここにも」




 次の話を始めようとすると、また一枚、写真を見つけた。

 まだ、このタワーの三分の一ほどしか出来上がっていない写真だ。

最初の写真と比べると、随分と小さい。あんなに大きかったのに、どんどんと小さくなっていった。本当に逆再生の映像を見せられているようだ。


 もし、走馬灯があるなら、こういう風に逆再生していく映像をみるのだろうか。どんどんと幼くなって、最後には胎内に沈むんだろうか。

 そうだとしたら、この走馬灯を見送る天の使いは、いま電話越しに喋っている人になるのか。などと、突飛なことを考える。母に似ているこの人に見送られるのも、悪くはないかもと思ってしまった。


「小学生の頃に、白くてまあっすぐに生きてね。って言われて、僕もそうしたくて。いるじゃないですか、誰にでもやさしくて、平等で、だれにでも好かれて」

『いるねえ。でも、そう見える人もきっと何かを犠牲にしているよ。だから、そんな無理して良い人にならなくていいんじゃないの』

 何かって何?それを聞いたら彼女のことを知れるだろうか。でも、今は僕の話だ。話を続けるために下を向いて歩みを進めた。 

「でも、あの時からずっとそう思ってて。えがおはぎこちなくても、他人に対して「きらい」なんて思わずに、だれに対してもやさしい人にって」

『嫌いって、そんな悪い感情?真っ黒?嫌は嫌で、だめはだめでいいんじゃないの。私のことも周りも、自分のことも』

 其の人の口調は、小さな子供を諭すようだった。

『嫌な気持ちも君の感情なんだから。』

 ——白くて、まあっすぐに生きてね。その母の声が、其の人によってかき消されていく。話したくないと急いでいたはずなのに、いつのまにか、口調も、歩調も、ゆったりに変わっていた。


『だってさ、思わなかった?初めて私と会ったとき、私の存在を知ったとき、嫌だって。思わなかった?』

 おもったよ。そう反射的に口から出そうになって、僕は口を噤んだ。


『私のこと、嫌いなら嫌いって言ってよ。そんで、嫌なことあったら言ってよ。絶対、治さないけどね』

「言ってもいみないじゃないですか」

『言うことに意味があるんじゃない』

 人を嫌いになるのも、その本心を認めることも、伝えることも、莫大なエネルギーを費やさなければならないのに、簡単に言ってくれる。

 せっかく白くまあっすぐ生きていこうとしていたのに、この人と話していると自分も黒く染まっていく。周りの黒と同化していくような不安定さだ。自分が解体されていくような錯覚が、渦を巻いては頭を流れた。



『私もね、言っとこうか。私、最初ね、年齢が近いことが問題なんだと思ってたの。世間体とか、周りの噂とか、そういうのは、本当に自分じゃどうしようもなくて、謝るしかないって。

 でも、今日話してみて分かった。君が私を受け入れられないのって、私がいると、蓋をしてた家族の思い出とか時間を進めなきゃいけないからかなって。進むと昔の記憶って消えちゃうじゃない』

 自分でも認めたくない自分の感情を言葉にされたようで、やっぱり僕は腹が立つ。でも、もういい加減認めてしまおう。


「そうですね。そういうのいっちゃうところとか、きらいです」

『そっかそっか。やっと言ってくれた。これで私は安心して、明日から君のお母さんになれるよ』



 穏やかにそう言った其の人は、明日から、僕の母になる。





 父が其の人を連れて家に来たのは、今から一か月前だった。僕の父は、喜怒哀楽の怒を抜いたマシュマロのような人だ。フワフワだけど、原材料がわからない。何を考えているのか何も考えていないのか、よくわからない人である。その日の父の話も、あまりに突然で驚くべきものであった。

「一ヶ月後、お前の誕生日が過ぎて20歳になったら、この人と再婚しようと思ってて」

 どう見ても、おじさんの隣に座る其の人は、おばさんではなくお姉さんという言葉が似合う女性だった。後から聞くと、やはり父より僕の方が断然其の人と歳が近い。父親と歩くと父と娘のように見え、僕と歩いていると兄弟かカップルである。


 どうして歳の離れた其の人が、こんなマシュマロおじさんの父を好きになったのか分からない。でも、父が其の人のことを愛しているのはよくわかった。あんなフワフワとした笑顔は、気を許した人にしか見せないのだから。


 それに、其の人はどことなく似ているのだ。空で働いていることも、声だって。そして、其の人が本気で父のことを考えて結婚しようとしていることも、僕と正面から向き合おうとしていることも、痛いほどよくわかった。


「どうぞ、お幸せに」


 自分を含めないように、そう決まり文句を伝えたのは皮肉ではない。本心だった。この二人なら、年齢の差なんて関係なく幸せになれると確信したのだ。この二人なら。

 そこに、僕は存在できるのか、僕には分からなかった。





『覚えてる? 初めて会った時、色々お話してさ。

そん時に、君に「早く終わらないかなって、顔に書いてるわよ」ってふっかけたけど、君、応戦してくれなくて。

「嫌だ」って言うか、せめて態度に出すくらいしてくれると思ったのに』

「わざと、おこらせようとした?」

『うーん。怒らせるっていうか、感情溜め込む君みたいなタイプには一回言い争っちゃうのが手っ取り早いと思ったの。でも全然、応戦してくれないから困っちゃった。ちょっと焦りすぎたかなって後悔もした』

「けんかはめんどうなんで」

 もう認めてしまおう。確かに、僕は其の人から逃げた。自分と向き合ってくれた其の人を、受け入れたふりをした。嫌いだと反抗するより、受け入れて、考えを放棄する方がよっぽど簡単だ。そうやって、楽な方に逃げてしまった。


『拳で語ろうぜってのは、無理だけど、言い争わないことがいいことじゃないでしょ。

 本心を隠して「好き」って受け入れるより、「嫌い」って言うほうが真摯に人と向き合ってると思うわよ。「嫌い」って感情ほど、揺るがない純なものはないんだから。黒ければ黒いほど、意思は強いものよ』

 其の人の言葉で頭が染まっていく。そうだ。なんとなくの好きを投げかけるより、心から「嫌い」だと刃物を向け合う関係の方が、よっぽど誠実だ。


——白くて、まあっすぐに生きてね。


 その声は消えずに残っているけれど、僕はもう分かっていた。


「白くてまあっすぐに、生きるのってむりですか」

『うーん。ひねくれて斜めしか世界を見れない私からしたら、君が真っ直ぐだったとしても、斜めに見えちゃうんだもの』

「そんなに、ひねくれてるんですか」

『うん。自分では気に入ってるけどね』



 その返答に僕が笑ってしまった時、また一枚、写真を見つけた。

 きっと、これが最後の一枚だろう。工事に着工する前の、更地の写真だった。

 生まれる前の真っ新なその写真をみて、生まれ変わって、眼が覚めたような心地がした。

「あれ、隣に何か、もう一枚。コルクボード?」

 今まで見てきた写真は、額縁に入れられた写真が一枚あるだけだったが、この写真の隣にはコルクボードが取り付けられていた。コルクボードには厚紙が貼っていて、そこにはメッセージが書かれていた。僕にとっては階段の終わりでも、ここから階段を登る人にとっては、ここが始まりの場所だ。ということは、これはウェルカムボードなのであろう。

『あ、それ私が書いたの。懐かしいなあ。

 文章はお堅くなっちゃったけど、頑張ってかわいく書いたのよ』

 読まずに先を進もうと思っていたが、其の人が書いたという文章が気になった。携帯電話で文字を照らして、それを読み上げる。


「成人を迎えた皆様、はじめまして。

これから登る長い階段、頑張りましょう。スタート」



 ガツン。



 ボードの文字を読み上げてから階段を数段下りると、突然、壁に全身を強打した。そしてその衝撃で、携帯電話は手から転げ落ちて床に転がった。堕とした携帯電話の向こうから焦ったような声が聞こえるが、肝心の携帯電話が見つからない。暗闇で、前も後ろも見えないからだ。闇雲に手を伸ばすと、そこにあったのは壁ではなくドアノブだった。


 鍵を開けて、ドアノブを捻れば、扉はひらく。その一連の動作を行おうとして、しかし、僕は躊躇う。これを開けたら、この非日常の空間は終わる。そこには、白くてまあっすぐな僕はいなくて、真っ黒な僕が転がっているのだ。このまま胎内にいれば、守られたままの存在でいられるのに。


——ゆっくりでいいから。進んでってよ。もー、はーやーくー。


 そう聞こえたのは、頭の中に木霊するあの声か、電話の向こうからの其の声だったのか。

 声に背中を押されて、僕は、扉を開いた。





 扉の向こうは、夜だった。ようやく、真っ暗なあの空間から出たというのに、目前に広がるのは都会の夜の黒。おまけに、しとしと下り続く雨。でも、研ぎ澄まされて尖った五感は、酸性雨に溶かされて、やっと深呼吸ができた気がした。


 その光の中に、人の姿があった。お互い、気づいたのは同時だったと思う。


 まだ、話し足りないことがある。まずは、どうして階段を一生懸命下りてきた僕より早く、地上に着いているのかって話から。それから、たぶん一生話さない話もあるだろう。それでも、向き合っていよう。そんな恥ずかしいことは、絶対に口には出さないけれど。


 其の人は、僕に傘を差し出した。少しだけ、不安そうに。

あれだけズカズカと土足で踏み込んできたくせに、今更なにを恐がっているのだろうと、可笑しくなって僕は笑った。



「ありがとう。……お母さん」


 いま、産声は静かに響き渡る。







あとがき

 自分が二十歳なる前に「成人式」を題材にした作品を書いておきたいと思い立ち、書き始めたお話です。真っ黒な都会の空と、病院の階段と、ファンタジーをいれて煮詰めるような気持ちで書きました。大変読みづらいところが多く、脈もヤマもオチもない話になりました。それでも時間を割いて読んでくれた人には、感謝しかありません。とても嬉しいです。ありがとうございました。

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