脱輪

絵空こそら

歯車

 なんだか暮れみたいな朝なのだ。

 厚く暗い雲の隙間から、薄ぼんやりとした朝焼けが顔を覗かせている。

 私は国道45号線に車を走らせていた。特に行先はない。本来の目的地だった職場を通りすぎた時から、この車は慣性の法則のようにただひたすら、漠然と、道なりに四輪を回転させている。

 なんだか夢見心地なのだった。確かに車を運転しているのは私で、時折アクセルを踏んだり、ブレーキを踏んだりハンドルを切ったりするのだが、その感覚さえあやふやだった。

 無断欠勤になる。これまで一度として欠勤、早退や遅刻さえしたことがなかった。時計を見る。午前6時47分。そろそろ工場の職員が異変に気付く頃かもしれない。年の瀬で忙しい。人一人抜けると、生産ラインは回らない。

 だから?

 変に強気な頭の回らなさで、再びアクセルを踏んだ。時速70キロ。市街地では出そうにも出せないこの速度が、今では酷く遅く感じられる。もっと踏み込んだらどうなるのだろう。メーターの目盛りの最大は180キロ。私はアクセルを踏んだ。

 120キロ。目的地もないのに、こんなに急いで私はどこに行くのだろう。行く先なんてどこでもいい。正常な思考に追いつかれないうちに、とにかく遠くまで逃げたい。正気に戻ったらきっと、私は職場に戻ってしまう。

 正気。野生で一人生きるのは無理だから、私には社会が必要で、社会で生きるためにはお金が必要で、お金を得る為には働かなければいけなくて。あの穴倉のような場所で毎日同じものを作って、外に出る頃いつも空は暗い。偶の休日も睡眠に費やして、同じようなものだ。人員が常に足りないため、呼び出されることもある。

退職の申請はしたことがある。こっそり転職の面接に行ったこともある。上手く話せないために、どちらも追い返された。社会人になってから随分立つというのに、論理的に話せない私が悪い。ああ、そうだ。同じ理由でこの職場以外の内定を貰えなかった。碌に会話もない作業場で、口が巧くなるはずもない。

 毎日原料を運んでくるトラックに憧れた。受け取りのサインをして、束の間開いたシャッターから大型トラックが出て行くのを見送るときだけ、青空が見えた。その隙間から逃げ出す衝動を、何度抑えたことだろう。代わりに中古車を買った。毎月生活費以外の出費もないので、そのくらいの額はなんとか捻出できた。満員バスの息苦しさから解放され、フロントガラスから空が見えた。幾分か気持ちは和らいだが、暮らしは変わらない。

 140キロ。

 雲の隙間に陽が差している。エンジェルラダーと呼ばれる薄い光線だ。あの梯子を天使が昇るのか、降りてくるのか、それとも昇って来いと言っているのか。

 メーターを見る。針が振り切れている。エンジンが悲鳴を上げるのを無視して、アクセルを深く踏み込んだ。

 衝撃。シートごと引っ繰り返る。粉々になったガラスが音を立てながら、エンジェルラダーの切れ端を反射する。ひらけた視界に夕焼けのように薄く染まった青空が見えた。一瞬間浮いた後、急速に遠い地面へ引き寄せられる。

 暮れのような朝の空へ、私は落ちていく。

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脱輪 絵空こそら @hiidurutokorono

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