行き止まりの神、一(調査員:梅村譲、冷泉葵、阿彦佑星)

 鬱蒼とした木々が覆う林道の中央が開け、巨岩が横たわっている様は、儀式の祭壇のようだった。


 冷泉れいぜいが感嘆の声を漏らした。

「まるで生贄を横たわらせるアステカの石壇ですね。おっと、失礼。医師の梅村先生の前で面白がるべきではありませんでした」

 私は彼女に苦笑を返す。

「気にしないでくれ。医師も副業になってしまったし、正直、同じことを思っていたよ」

 冷泉は安堵の息を吐いてから「ああ、違った」と手を打った。

ゆずる先生と呼ぶべきでしたね。名字で呼んだら息子さんと紛らわしいですから」

 私はもう一度苦笑を返したが、今度はうまくいったかわからなかった。


 私が都内の大学病院で派閥争いに辟易していた頃、心療内科に偶然舞い込んだひとりの患者が全ての始まりだった。日常会話で使う言語が五十音の最初からひとつずつ減っていき、最後は会話が不可能になるという奇異な症例だった。

 その後、彼と同郷の患者が似た症状を訴えて駆け込んだ。私は使えるコネを全て使って解明に努めたが、行き着いたのは医者の端くれが認めるべきでない真実だった。全ては神の所業であったなど。


 領怪神犯対策本部に招かねれてからは、認めざるを得なくなった。この世には科学で解明できないことがあると。

 私が組織に与した理由は、月並みで子どもじみた願望だった。自分に救えるものはひとりでも多くを救いたい。今、理想から日々遠のいている予感がする。


 林道の向こうから足音が聞こえ、周辺を調査していた阿彦あびこが戻ってきた。

「譲先生、冷泉さん、そっちの収穫はどうですか」

 私たちが同時に首を横に振ると、彼は肩を竦めた。

「俺もですよ。見たところただの落石事故です。崖の近くに一軒家がありましたが、巻き込まれなかったのが奇跡ですね」


 痩身で血色が悪く、目の下には濃いクマがあるが、林を駆け回っても息は上がっていない。山道をワンピースで踏破した冷泉も汗ひとつ掻いていない。

 ふたりとも年下だが、私より遥かに場数を踏んだ調査員だ。


 阿彦と冷泉は一昨日崖から落ちてきたばかりという巨岩にもたれ、煙草を咥えた。度胸も大したものだ。

 私はふたりの一服が終わるまで、母校から刊行された医学雑誌を捲る。私の後輩が原因不明の奇病と名高いポロニア=パイパー症候群の特効薬開発に乗り出したらしい。

 ふと胸の痛みを感じて咳き込むと、阿彦が気遣わしげな視線を投げた。

「お顔の色が優れないようですが」

「何、医者の不養生だよ。運動不足に山道が堪えてね」

 冷泉は眉間に皺を寄せる。

「心痛くらい起きますよ。譲先生の息子さんまで調査員の研修生として雇うなんて。体のいい人質じゃないですか。凌子りょうこさんのやり口はひどいですよねえ、譲先生?」

「まあまあ、冷泉さんは息子と仲良くしてくれているらしいじゃないか。先輩として、馬鹿をやらないよう見守ってくれたらありがたいよ」

「息子さんは優秀ですから、すぐに私の方がが部下になりそうですよ」


 そう応えつつ、私は動悸が激しくなるのを感じた。医学の発展のためとはいえ、彼らが推進する神の利用は肯定できない。私の叛意を悟ったのか、三原みはら准教授は息子を対策本部に引き込んだ。まもるは好奇心が強く、自信と野心に溢れている。喜んで深みに足を踏み入れかねない。


 ふたりの煙草の火が消えたのを見計らい、私は医学雑誌を鞄にしまう。

 実地調査の成果がなければ、次は聞き込みだ。私たちは元来た林を再び歩み始めた。



 冷たい風が濃厚な土の匂いを立ち上らせ、背後から獣に付き纏われているような気持ちになる。

 阿彦が周囲を見回しながら言った。

「しかし、二柱の神の同時調査とは前代未聞ですね。最初は俺と冷泉さんだけで赴くはずでしたが」

「私も驚いているよ。ただの世間話で口を出したらこんなことになるとは。正直、今回の案件と関連性があるか自信はないが……」


 本来、阿彦と冷泉が調査するはずだった領怪神犯は葛折る神。遭遇した人物の血縁者をひとりずつ不審死させるという、悪質な神だ。

 今までその毒牙から逃れた者はいなかったが、つい最近、前例ができた。件の落石事故で九死に一生を得た兄弟が、ある神に助けられたのだと証言したのだ。


 冷泉は足を進めつつ、ボストンバッグを探る。

「譲先生が患者から聞いた話と重複する神の記録がありました。行き止まりの神です。事故や事件、生贄の儀式に至るまで、逃げ場のない状況に追い込まれたものを救うとか」

「私も資料を見たよ。納骨堂のような形状も合致するが……阿彦くんは民俗学に詳しいだろう。何か思うところは?」

「件の患者の故郷には何もありませんでした。祭事の伝承も過疎化によりほぼ失われています。現地の牡丹峠には護国豊穣神の伝説があるようですが、同名の場所は全国にあるので混同されているかもしれません」

 私は思わず聞き返す。

「村に行ったのか? 場所すらわからなかったのに?」

「譲先生の患者のカルテは対策本部に共有されています。戸籍と照合すればすぐわかりますよ」


 阿彦はクマに縁取られた目を細めた。

 博識で物腰は柔らかだが、どこか危うい青年だ。

 今のことも仕事熱心の一言で片付く話だが、時折息子に近づけたくないと感じることもある。彼が隠す闇に気づけるほど、衛は人生を重ねていない。


「私も前職のツテを頼りましたが結果は芳しくありませんでした。今回の調査もどうなるやら」

 冷泉の呟きに、阿彦も首肯を返す。

「二柱同時の調査なら危険も二倍だからな」

「私も記事のネタを探して踏み込みすぎたら、もうちょっとで消されかけたことがありますよ」

「他人の秘密を暴くのが得意なんだな」

「無断調査の常習犯に言われたくありませんね」


 笑い声を上げる冷泉の手には、小型の機械らしきものがあった。私は物珍しさに身を乗り出す。

「それは?」

「前職の知人から借りました。ポケットベルという無線呼び出し機の試作品らしいですよ。遠方の相手に無線で電話信号を送れるんです」

「便利なものだ。普及したら調査も楽になるな」


 しばらく雑談が続き、気づくと麓の村に辿り着いていた。

 ここの一帯は観光用の宿泊地らしく、コテージらしき建物が点在していた。西洋の森とは違い、湿度の高い日本の山村では、木製の家々もどこかじっとりと暗い翳りを感じた。



 山積みの薪やコスモスが揺れる庭を横目に進むと、道端で少女のように華奢な青年が俯いていた。隣には対照的に長身で精悍な顔立ちの男性がいる。

 冷泉が小声で囁いた。

「彼らが葛折る神の被害から生き残った稲田いなだ兄弟かと」

 似ていないのでわからなかったが、彼らの様子を見ると確かに兄弟らしい。

 弟の方が私たちに気づいて会釈したが、兄は鋭い視線を向けてきた。


 稲田たちに促されてコテージに入ると、上下四方を木板で覆われた空間が広がった。

 毛織物のカバーをかけた二対のソファと樫のテーブルしかない簡素な部屋だ。落石で家を潰され、ここに避難しているのだと気づき、胸が痛んだ。


 稲田弟はハーブティーのカップをテーブルに並べ、私たちの向かいに座る。兄はまだ警戒しているらしく、腕を組んで弟の後ろに立っていた。

 家族を失った者たちの悲嘆は職業柄思い知っている。私は無意識に口を開いた。

「辛ければ無理に話さなくても大丈夫ですよ。まだ心の整理がついていないでしょう」


 稲田兄が驚きの後、表情を和らげた。少しは警戒を解いてくれたらしい。

 弟の方も身を縮めながら訥々と話し出してくれた。

「信じてもらえるかわかりませんが……」


 稲田一家はここに移住し、崖の近くでコテージを営んでいた。

 ある日、兄が山菜を採りに行ったところ、山の洞窟で黒い葛籠のようなものを見つけた。その夜から親族がひとりずつ死を遂げた。

 残った兄弟で逃げようと思った夜、落石で家が潰された。

 死を覚悟した瞬間、目の前に白い納骨堂らしきものが現れ、そこに逃げ込んで生き延びたという。


 私が以前、患者から聞いた話と殆ど同じだ。追い詰められた者を救うためだけの領怪神犯。そんなものが存在するのだろうか。


 青年が話を終えると同時に、阿彦が尋ねた。

「お話の中では扉から『捧げるか』と声が聞こえたそうですが、おふたりは答えたのですか?」

 再び稲田兄が表情を険しくする。萎縮した弟が頷いた。

「僕が答えました……」

「その後、何かが変わったことは?」

「何もありません。僕たちも無事だし、村のみんなも……」

 阿彦が怪訝に眉を寄せたのを、兄が見逃さなかった。

「疑う気か。それとも、責めてるのか。死にかけてるときに言われたら藁にでも縋って当然だろう!」

 青年が兄を必死に制止する。阿彦は怯むどころか、不審を隠さず首を傾げてふたりを睨めつけた。

 私は事を荒立てる前に腰を浮かせた。

「やめなさい、阿彦くん。おふたりとも辛いときに思い出させて申し訳なかった。何か心配事あったら教えてください」



 挨拶もそこそこにコテージを出ると、阿彦が普段の穏やかさを取り戻して言った。

「俺のせいでお騒がせしてすみません」

 冷泉は早速煙草を取り出し、けらけらと笑う。

「思ってないでしょ、阿彦さん。不満って顔に書いてありますよ」

「だって、冷泉さんはおかしいと思わなかったか? ただ助けるなら見返りを求めなくていい。わざわざ『捧げるか』と聞かれたのに何もないなんて」


 阿彦は再び瞳の奥を淀ませた。

「人身御供にしても、人々を脅かす邪神に対して犠牲を捧げるのと、共同体と親密な守り神に供物を捧げるのは性質が全く異なります。稲田家は移住者で土地との連帯性は乏しく、神との関係性は後者ではない。前者とするなら、行き止まりの神ではなく、彼らを脅かす葛折る神に犠牲を払うのが妥当だ。どちらも前提が破綻しています」


 私は張り詰めた空気を纏う彼の肩を叩いた。

「君の知識にはいつも助けられているよ。でも、被害者は説話の登場人物ではない。生きた人間だ。彼らの感情にも配慮してくれないか」

「神の前では紙の上のインクも地上の血肉も同じですよ」


 阿彦はぞっとする言葉を吐きつつ、目を伏せて微笑んだ。冷泉は動じることもなく、咥え煙草でポケットベルを弄っている。二人のように割り切らなければ、調査員は務まらないのかもしれない。



 溜息を吐いたとき、背後から小さな爆発音が響いた。

 驚いて振り返ると、冷泉の足元に煙を上げるポケットベルが転げていた。パンパンに膨らみ、炭石のように赤く熱を持っている。機械がオーバーヒートしたのだろう。


 私と阿彦は呆然とする冷泉に駆け寄った。

「怪我はないか?」

 冷泉はまだ煙草を握った右手の甲で冷や汗を拭い、落ち着きを取り戻した。

「ええ……驚きましたが、大丈夫です。試作品を押し付けてきた奴に文句を言わなきゃいけませんね。実用化は当面無理だと」


 そのとき、何故か稲田の言葉が頭を過ぎった。

「捧げる」と。

 ポケットベルは黒煙を噴き出し続けていた。

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