第三章 守の一日

 守の朝は早い。朝起きてすぐに、日課の筋トレをして目を完全に覚ます。

 その次は、朝食の準備をする。手を抜きすぎると怒られるが、本気で作った物も朝には重いと怒られる。程々が重要なのだ。

 今日はベーコンエッグとサラダ、ヨーグルトにした。

 料理を作り終わったら羊を起こしに向かう。

「師匠、朝だ。起きろ」

「~ん。分かったわ」

 羊は朝が弱いのではなく、夜中まで魔術の鍛錬や研究で起きているため、朝起きれないのだ。ちなみに守は、肉体を健康に保つには睡眠も重要だと考えているので、夜はしっかりと眠るようにしている。

 羊が起きれば、着替えを置いて部屋を出て行く。最初羊は守に「面倒だから着替えさせて」と言ってきたが、犯罪の臭いがしたので流石に勘弁してもらった。

 おぼつかない足取りで階段を降り、リビングのテーブルへ。半開きの目で料理を視認し、スプーンで適当に掬って食べる。

 そもそも、羊はもう何年も一人でこの屋敷に住んでいるのだ。その間、食料はどうしていたか?

 それを考えれば、料理なんてものは、羊にとっては「不味くなければ良い」のだ。

「なあ、師匠」

「なに守」

 守がこの屋敷に来て少し経つ。その間、ずっと気になっていたことを口にした。

「学校、行かねえのか?」

 羊は十五歳。普通なら中学三年生。受験生として高校入試に挑む年齢だ。

 だが、羊が外に出たところを守は見たことがなかった。

「私は魔術師よ? 何でそんなところに行かなくちゃ行けないわけ?」

「でも、魔術師でも社会生活は大事だろう?」

 昔は魔術師という職業も存在したが、このご時世、そんな職業は存在しない。

 加えて、魔術師でも想のように所帯を持つ場合もある。そんなとき、「職業は魔術師」と言っていい顔をする女性は滅多にいない。

 ようするに魔術師は裏の顔。表の顔が必要なのだ。

「大体、どうやって稼いでんだよ?」

 羊は食べていた朝食をゴクリと飲み込んで席を立つ。

「そうね。もう家政婦の生活にも慣れてきたみたいだし、そろそろ魔術師の訓練もしましょうか」

 守は内心喜んだ。

 守は魔術師になるためにこんなやりたくもない家政婦をやらされているのだ。守にしてみれば、ようやくここからが本番だ。

 やって来たのは屋敷の庭だった。

「この前も言ったけど、守の特訓は普通の魔術師のものじゃない。異端の特訓よ」

「分かってる」

 守もたとえどんな辛く過酷な修行でも耐えてみせるという覚悟を込めて頷く。

「そう。じゃあまずは心拍数を時計仕掛けの魔術師と同調させる訓練よ」

 前述の通り、時計仕掛けの魔術師は振動の鼓動と同調させることによって魔力を生み出す。それは守も覚えていた。

「そこに坐禅を組んで座りなさい。精神統一よ。それができたら呼吸法を少しずつ調節しながら時計仕掛けの魔術師と心臓の鼓動を同調させるの」

 精神統一は守も筋トレの後に行っているためすんなりとできた。しかし、どれだけ呼吸法を変えても時計仕掛けの魔術師は魔力を生み出さない。

「人間の心拍数は平均一・六秒。それをきっかり一秒に調整するの」

 つまり、遅くしては駄目なのだ。少しだけ速くする必要がある。

(心拍数を速くするなら、呼吸を速くすれば――)

 守が呼吸法を変えると、時計仕掛けの魔術師から魔力が溢れ出た。

「第一段階クリアね。及第点だわ」

「よし!」

 しかし、守が集中を止めた途端に魔力は消えてしまう。

「心臓の鼓動と時計仕掛けの魔術師との同調で魔力が生まれる。これがどういうことか分かる?」

 守は考える。

(おれが集中を解いた途端魔力は消えた。そして、魔力が消えれば魔法は使えない……)

「俺は、戦闘中も心臓の心拍数をコントロールし続ける必要がある?」

「そういうこと」

 羊は正解と指を鳴らして言うが、これは簡単なことではない。戦闘になれば走り回ることもあるだろうし、怪我をすることもあるだろう。危険を回避するためには咄嗟に魔術を使わなければいけないこともあるだろう。その際も、常に心臓の鼓動を意識し続けなければならないということだ。

「無理だろ。そんなの……」

 平常時の今でさえ成功したのはたったの一瞬なのだ。動きながらなんて無理に決まってる。「じゃあどうする? 諦める?」

 羊が挑発的に笑うが、守は首を横に振る。

「いいや、冗談じゃない」

 羊はもう答えを知っていたかのようにフンと鼻を鳴らす。

「じゃあ、今日の修行はここまで」

「え?」

 時計を見る(時計仕掛けの魔術師マギは普通の時計としても使用できる)と、まだ一時間と少々しか経っていなかった。

「俺はまだやれるぞ!」

 足を止めた羊が、はぁとためいきを吐く。

「私の研究もあるのよ。守にばかり構っていられないわ」

 そう言って屋敷の中に入っていってしまう。

 守は逡巡した後、羊と共に屋敷の中に入った。

 羊と共に向かったのは羊の私室だ。私室と言っても、最初に守を通した二階の部屋だ。いかにも魔術師の研究室という感じの部屋で、生活感のある物はベッド以外何一つ置かれていない。

「何で着いてくるのよ?」

「他の魔術師の研究なんて中々見られるものじゃないからな。それに、見るのも勉強だ」

 羊はため息を吐いた。

「好きにしなさい」

 本来なら、魔術師の研究は他の誰にも見せられるものではない。だが、師弟だけは別だ。魔術師が弟子を取ったということは、自分の研究を受け継がせるという意味だからだ。全て見せておかなければ弟子が師匠の研究の続きをしようとして失敗するかもしれない。そうなれば師匠の実験の成果は無駄になる。それを防ぐために羊も守の同居を提案したのだ。

 羊がパンと手を鳴らすと、本棚から数冊の本が羊の元へ飛んでくる。

 羊が机に座りながらパチンと指を鳴らすと、パラパラと一斉にページが捲れて、羊の読みたかったページが現れる。

 その姿は、まさしく魔術師と呼ぶに相応しいものだった。

「凄い……」

 守は無意識に呟く。

 羊は務めて冷静に、羽ペンにインクを付けて羊皮紙に文字を走らせていく。

「師匠はなんの研究をしてるんだ?」

 魔術師には、それぞれ「研究テーマ」というものが存在する。文字通り、何を研究するか決めるものだ。

「守。あなた本の本質はなんだと思う?」

 それはつまり「本はなんのために生まれたのか?」という問いだ。答えは千差万別だろうし、正解はないかもしれない。それでも、羊の中には羊なりの「答え」があるらしかった。

「確か、本の最初は洞窟の絵。それから粘土板に変わって、木の板を繋げたものへ。今みたいな紙の本ができたのはエジプトだったか?」

「あら、詳しいじゃない」

 魔術書なども読む都合上、守もそれくらいは知っている。

 守が考え倦ねていると、時間切れとばかりに羊が正解を言う。

「本はね、“記録を貯蔵するために存在する”のよ」

 もっともらしい理由だと守は思った。

「じゃあ、記録の貯蔵はなんのためにすると思う?」

 考え倦ねた末に守は答える。

「未来の人間に自分達のことを伝えるために?」

 羊は羽ペンを自分の顎に持って行きながら唸る。

「当たらずしも遠からずね」

 羽ペンのインクが切れ、再びインクを羽ペンの先に付ける。

「答えは“未来で過去に起きたような最悪が再び起きたとき、それを回避するため”」

つまりと羊は私室に来て初めて守を見ながら言う。

「本は未来予知のためにあると思うの」

 つまり羊は、「過去は未来の為にある」というのだ。

 美しい考え方だと守も思う。

「それで、結局師匠の研究は何なんだよ?」

「あら、言ったでしょう? 未来予知よ」

 確かに未来予知ができれば便利だろう。だが、それは《本》の領分から些か外れているように守は思う。

「《占》の魔術師とかに任せれば良いだろう?」

「あら、そんな神頼みと私の研究を一緒にしないで欲しいわね」

 羊は羽ペンを置き、自分の胸に右手を持ってくる。

「私はあくまで人間の力で未来予知をしたいのよ。神頼みなんて、魔術師の本質から外れているわ」

 確かにその通りだと守も思う。

 古来魔術師とは天災を回避、あるいは操作するために生まれた。早い話が“神様に憧れて”生まれたのが魔術師なのだ。その魔術師が神頼みでは、原点回帰も良いところだ。

「ってことは、ここにあるのも貴重な本なのか?」

 この部屋には、壁に沿って本棚が置かれており、その本棚の中にも所狭しと本が並べられている。中には本棚に入りきらずに床に積まれている本もある。

「まあ、中には貴重な本の写しもあるわね。例えば……」

 羊が指を鳴らすと、ハードカバーの分厚い本がゆっくりと羊の元へ飛んでくる。

「これは死海文書の写しね」

「⁉」

 死海文書といえば、予言の書の代名詞だ。いまも研究が進められるいると聞く。少なくとも、素人が本屋で買えるような代物ではないだろう。

「他にも予言の書と呼ばれている本は大体写本があるわ」

 守にはこの本棚にある全ての本が宝の山に見えた。

「……この本を使って、どうやって未来予知をするんだ?」

「予言の書と一言で言っても、その殆どは眉唾よ」

 それはそうだろうと守も思う。もしも予言の書が一〇〇パーセント的中していたら、態々未来予知なんて研究をする必要がない。ノストラダムスの大予言しかり、二〇〇〇年問題しかり、予言は大体外れるものだ。

「だから、数多の予言の書から共通する部分だけを抜き取っていくのよ。そうすると、必然的に信憑性が上がるでしょ?」

 偶然は三つ重なれば必然となるという言葉もある。異なる時代、異なる文明、異なる地域で書かれた予言の書の内容が重なるということは、その予言が当たる確率が上がるということに他ならない。

「気の遠くなるような作業だな」

 様々な言語を操り、様々な予言の書を集めなければならない。言語を覚えるところからやろうとすれば、途方もない時間が掛かるだろう。

「守も魔術師になるなら覚悟しなさい。魔術師の研究なんて数代重ねたのに失敗する~なんてこともザラよ」

 それから数時間に渡って、羊の研究は続いた。その間、守は部屋にある本を読み耽っていた。

 気付けばもう良い時間だ。

(そろそろ昼飯の用意しないとな)

 パタンと本を閉じ、羊に声をかける。

「師匠。昼飯何がいい?」

 羊は特に気にした風もなく適当に言う。

「何でも良いわよ」

 作る側としては「何でも良い」や「おすすめ」や「適当に」が一番困るのだ。何を作れば良いかも分からない。

(俺が食いたい物でいいか……)

 守は一人暮らしの時は、昼飯はもっぱら麺類だった。

(スパゲッティでも作るか……)

 そう思い立ち、部屋から出て行く。

 守は習慣的に、スパゲッティと言えばミートソースが主流だ。スパゲッティの中で一番上手いと思っている。

 ミートソーススパゲッティ二人前を作り終えると、羊を部屋へ迎えに行く。

「師匠、昼飯ができたぞ」

「そう」

 羊は羽ペンを置き、羊皮紙を丸めて部屋の隅に置く。

 リビングでミートソーススパゲッティを食べ、皿を洗い終えると、午後から晩飯の準備までは自由時間だ。

 守は自由時間でも魔術師としての鍛錬を欠かさない。と言っても、魔術師でない守ができる魔術師としての鍛錬は限られる。

 普通の魔術師の鍛錬は見聞を広めるために魔術書を読んだり、魔力コントロールの鍛錬なのだろうが、守はそもそも魔力を自分で放出できない。

 だから、守流の訓練をする。

 とにかく身体を鍛えるのだ。

 守は「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉を信じている。健全な肉体に健全な精神が宿るのならば、魔力さえも宿るかもしれない。

 故に、守は身体を鍛える。

 それが、時計仕掛けの魔術師を使うことになった自分には意味のない事だと知っていても。

(やっぱり身体を鍛えないと落ち着かないな……)

 十年間続けた習慣は中々治らないらしい。

 筋トレが終われば、次は時計仕掛けの魔術師を使った特訓だ。 坐禅を組み、心拍数をコントロールする。

 心臓の鼓動と秒針が重なるとき、魔力が迸る。

 だが、それも一瞬。

 約一秒で魔力は消え去った。

 守はそれを繰り返す。

 魔力が発生するのが心臓の鼓動と秒針が重なる一秒だけなら、心臓の鼓動と秒針を二回連続で重ねればいい。そうすれば、二秒間魔術が使える。

 ひたすらそれを繰り返す。

 そうしているうちに数時間が過ぎ、既に時計は五時を回っていた。

(そろそろ晩飯の準備をしておくか……)

 汗だくになった自分の身体をタオルで拭きながら脱衣所へと向かう。

 こんな汗だくの身体で料理を作るのは御免だと思い、シャワーを浴びる。

 洗濯済みの服に着替え、羊の部屋へ向かう。

 羊はまだ魔術の研究の真っ最中だった。

「師匠、今日の晩飯何がいい?」

「何でもいいわ」

 昼飯の時の答えから、今回もそう言われるのは分かっていた。羊はあまり食に頓着しないタイプの人間なのだ。

(カレーでいいか……)

 守も一人暮らしが長かったとはいえ、そこまで料理が得意なわけでもない。作れる料理は限られる。

 カレーは何を入れても結構上手くできると聞いて、まだ一人暮らしを始めたばかりの頃によく食べた料理だ。

 とはいえ、守も食にこだわるタイプではないので、隠し味や寝かせなど凝ったことはしない。

 辛口は辛くて味が分からないし、甘口は甘ったるくて途中で気持ち悪くなるので、守はカレーは中辛派だ。

 カレーを継ぎ足す人はジャガイモを入れないらしいが、守は毎日カレーは流石に嫌なので、継ぎ足しはせず、ジャガイモも入れる派だ。

 こうして、何の変哲もないカレーができた。

 皿に盛り付け、食べられる準備をしてから羊を呼びに行く。

「師匠、晩飯ができたぞ」

「分かったわ」

 ベッドに寝転んで本を読んでいた羊は、本をめくるページを止め、本を閉じてリビングへ向かう。

 守は流し目で羊が読んでいた本のタイトルを見る。「白馬の王子と麗しの姫君」というタイトルの本を。

(どんだけ難しい本読んでるのかと思いきや、以外と少女趣味なんだな……)

 守は、羊は《本》の魔術師だから、難しい本ばかり読んで息が詰まっていると思っていたのだが、思い違いだったらしい。

「なあ、師匠」

「なに?」

 カレーを食べるながら、守は羊に問い掛ける。普通なら「お行儀が悪い」と怒られるところだが、羊はそういうことを気にしない。

「師匠は何で《本》を選んだんだ?」

 魔術師は一つの属性を選ぶが、素質が一つしかないなんてことは滅多にない。魔術師になれる素質があるのなら、数個の属性の中から一つを選ぶことが出来るはずだ。

 羊はその中から《本》を選んだ事になる。

「なに? 今更の魔術師を降りたいなんて言っても聞かないわよ?」

 カレーを特に感想も言わず、味も気にせずモシャモシャと食べる。

「いや、ただ単に気になってさ」

 カレーを食べ終えると、スプーンを置き、羊は語り出した。

「私には友達がいなくてね。本だけが友達だったわ」

 守は口を挟まず、黙って聞いていた。

「ま、一言で言うと本が好きだったのね。それだけよ」

 そう言うと、食器を流し台に持って行き、口を濯いで二階の私室へと向かう。これでこの話は終わりということなのだろう。

 守は自分の食器も流し台に持って行くと、スポンジに洗剤を滲ませ、食器を洗い始める。 黙々と食器を洗い、ピカピカになった食器を乾燥機に均等に並べ、乾かす。

 これで食事の片付けは終わり。残る仕事は……。

 浴槽を磨き、湯を張っておく。

(一応知らせておいた方が良いか?)

 守としては温めのお湯にゆったり浸かるのが好きなのだが、熱めのお湯に浸かるのが好きな人もいるだろう。

「師匠、風呂が沸いたぞ」

 羊はベッドでファンシーな本の続きを読んでいた。

「そう。じゃあ頂こうかしら」

 そう言って脱衣所へ向かう。

(さて、俺はどうしようかな……)

 脱衣所と風呂場には近づかない方が良いだろう。そうなるとやれることは限られる。

(自室でのんびりするか……)

 そう思い立ち、自室で魔術書片手にうんうん唸る。

 元々、魔術書というのは暗号文で書かれている場合が多い。

 では、誰に宛てた暗号文か?

 それは、同じ研究を共有する未来の子孫に宛ててだ。

 だから、魔力の波長やキーワード、血などが鍵となっている場合が多い。

 では、何故世間に魔術書が出回っているのか?

 それは、過去の解読された魔術書が模写され、出回っているからだ。

 加えて、あえて魔術師を増やすために、簡単な魔術を載せた指南書を作っている魔術師も存在する。

 守のような魔術師を志す者が読んでいるのはそれだ。

 と言っても、守のような才能のない魔術師には、その“簡単な”指南書ですら難解なのだが……。

 しばらく魔術書を読んでいると、扉が開いた。

「おい、ノックくらい――」

 そう言って横目流しに守が見たものは。

 一糸纏わぬ全裸の羊だった。

「師匠! アンタちょっとは羞恥心持てよ!!」

 風呂上がりのため、身体は紅潮しており、長い髪は濡れそぼり、やけに色っぽい。

「ちゃんと待機してなさいよ。身体を拭いて、髪を乾かしてもらおうと思ってたのにいないんだもの」

 目を手で隠しながら、守は必死に言い返す。

「俺は断っただろ!!」

 裸のままで、羊は不用心に守に近づく。

「それは私と一緒にお風呂に入って身体を洗うことでしょ? 身体くらい拭いてくれても良いじゃない、召使いなんだから」

「家政婦だろ⁉」

 しばしの問答の末、身体は自分で拭き、着替えをした後、髪は守が乾かすという結果に落ち着いた。

(シャンプーの良い匂いがする……)

 髪を乾かしながら、守は心拍数が上がらないように必死に抑える。

「守」

 羊が真面目そうな表情と口調で言う。

「明日から特訓よ」

「? おう」

 その特訓の過酷さを、このときの守はまだ知らないのであった。

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