第一章 十八歳の誕生日

 ぶ厚い本が丁寧に整頓された本棚に囲まれた小さな部屋で、十八歳になった守は上半身裸で腕立て伏せをしていた。

「はぁ……はぁ……」

 今日のノルマをクリアすると、滝のように流れ出る汗をタオルで拭く。

 十年間の厳しいトレーニングによって、守の身体は引き締まり、無駄な脂肪はなく、それでいて筋肉質に仕上がっていた。

 守はいつも通り、一冊の魔道書を本棚から取り出すと、右手に本を持ち、左手を突き出して魔道書に書いてある文章を唱える。

 それは、色々な言語がごちゃ混ぜになった不思議な文章だった。実際、守にもどういう意味なのか理解できていない。だが、これが初級の魔道書なので仕方がない。

 最後の文章を唱え終わる。これで、もしも魔術師の素質があれば、魔力が自分の素質に合った形で放出される――のだが、守の突き出した左手からは、特に何も変化がない。

「はぁ……」

 守は魔道書を閉じ、本棚に収める。

(親父が出て行って十年。身体だけ大きくなって、魔力は一向に上がらない)

 悔しさに歯がみするが、守は物に当たったりはしない。それは無駄なことだと知っているからだ。

 それでは母親と同じになると、知っているからだ。

 想が家を出て行ってから、程なくして母親も出て行ってしまった。

 それからは、一人でなんとかやって来た。

 毎月銀行に振り込まれる謎の資金で家賃、生活用品などを揃え、近所の人に教えて貰って料理もマスターした。

 その上で、魔術の勉強を怠らず、学校にも通い、身体まで鍛えたのだから、守の努力は凄まじいものだった。

 だが、守を支えた言葉のお陰で、守はそれを苦と思うことなく生きてきた。

「努力はどれだけしても足りない」

 それは想の口癖だった。

 魔術の最奥に到達するためには、何十年も、それこそ死ぬまで弛まぬ努力が必要だ。

 しかし、一生に近い努力をしても、最奥に至れる者は皆無だ。

 ではどうするか?

 答えは簡単。弟子や子孫に夢を託すのだ。

 自身の研究成果を本や資料、最近ならパソコンデータとして残している者もいるかもしれない。より慎重な者は暗号化して、子孫に残す。

 たとえ自分が至れなくても、自分の子が、それが無理でもその孫が――そうやって魔術師の家系は出来上がっていく。

 しかし、守は次に繋げることができなかった。 魔術の才能がなかったのだ。

 別に、守に魔術の才能がなかったからといって、その子供にも魔術の才能が遺伝しない訳ではない。

 だが、想は早々と諦めた。

「くっ……!」

 昔のことを思い出し、悔しさ、情けなさで水の入ったペットボトルをグシャリと潰す。

 そんな時、呼び鈴が鳴った。

「誰だ? こんな朝早くに……」

 このままの格好では不味いと思い、適当にTシャツを着てドアを開ける。

 そこには荷物だけが置かれ、配達員などはいなかった。

「これは……」

 そこにあった奇妙な札が何重にも貼られたダンボールには見覚えがあった。

 想が魔術の研究に必要な物を海外から届けて貰うときに使っていた札だ。

 勝手に開いて中身が出てきたりしないように、魔術的な封印を施してあるのだ。

「何で今更俺のところに……」

 渋々ダンボールを家に上げる。もしかしたら守の魔術研究に役立つ物かもしれないからだ

 玄関でそのまま封を切り、中身を開ける。厳重に守られた中に入っていたのは、時計だった。

 古いタイプの腕時計だ。ベルトの革を見るに、かなりの骨董品と思われる。

「何だこれ?」

 ダンボールをひっくり返すと、メモ用紙が一枚出てきた。

 そこには住所が書かれていた。

(ここにいけば何か分かるかもしれない)

 書かれた住所にあったのは一軒家だった。少し古くさいが、別段特筆すべき点はない。

(ここに一体何があるんだ……?)

 呼び鈴を鳴らすと鍵を開ける音がした。しかし、少し待っても重たそうなドアが開く様子はない。

「ドアを開けて入ってきて」

「……?」

 家主からの声に、ドアノブに手をかけ、ドアを開ける。

 そこにいたのは、中学生くらいの女の子だった。真っ白な髪は伸び放題で、服はジャージ。風呂にももう何日も入っていないのか、少し汗臭い。

「何よ」

 少女の言葉に、当初の目的を思い出す。

「あの、これ……」

 ポケットに入れていた腕時計を見せると、少女の目の色が変わった。

「《時計仕掛けの魔術師/クロックワークマギ》……」

 少女が呟くように何か言ったが、小さくて守には聞き取れない。

「へ?」

「あなた、これを何処で?」

「想……親父が送ってきて、ここの住所と一緒に」

「想って、時輪想?」

「親父を知ってるんですか?」

 その言葉を聞いて、少女は何かを確信したような表情へと変わる。

「自己紹介がまだだったわね?」

「あ、はい」

「私の名前は犬飼羊。《本》の魔術師」

 それを聞いて守は愕然とする。

(こんな小さな娘が魔術師なのに、もうすぐ大人の俺はなにをしているんだっ‼)

「で、あなたは?」

 それを聞いて守は正気に戻る。

「時輪守。魔術師を目指してます」

「守。この腕時計のことを説明しておくわ。私の部屋に来なさい」

(呼び捨て……。俺の方が年上なのに。いや、でも相手は魔術師だし、見た目通りの年齢じゃないのかも……)

 複雑な思いを胸に、階段を上がって二階へ向かう。

 二階にある部屋は一つだけだった。

「うわぁ……」

 その部屋を見た感想は、まるで……いや、正真正銘魔術師の部屋という感じだった。

 部屋を囲むように置かれた本棚には古臭い分厚い本が並び、窓際にある机には羽ペンと羊皮紙を丸めた物が置かれている。そのほかにも、ちゃんとしたボールペンやシャープペンといった、普通のペンや紙も置かれていた。

 羊が部屋に唯一ある椅子に腰掛け、足を組む。スタイルのいい大人の女性がやればドキッとするような色っぽい動作だが、幼児体型の羊がやっても全くドキッとしなかった。

「さて、あなたにこれの説明をしないとね」

 そう言って腕時計を机に置く。

「これは時計仕掛けの魔術師という魔道具なのよ」

 確かに、骨董品の中には希に大昔の魔術師が完成させた魔道具が紛れ込むことがある。そういった物を様々な骨董品の中から発掘して、研究するのも魔術師の研究の一つだ。

「なら、何で羊の家に直接送らなかったんだ?」

「ここからは私の推測だけど、あなたに渡すためだと思う」

「?」

「私には二つの選択肢がある。一つは時計仕掛けの魔術師を分析、研究し、資料を残した後に破壊する」

 魔道具の中には危険な物や、現代の魔術師には扱えない物も存在する。そういった物が悪用されるのを防ぐために、資料だけを残して破壊してしまうのも一つの手だ。

「その魔道具には、どんな力があるんだ?」

「ただの人間を魔術師にできる唯一無二の魔道具」

 その言葉を聞いた途端、守は時計仕掛けの魔術師に手を伸ばしていた。

 それは、守が求めてやまない物だったからだ。

 だが、時計仕掛けの魔術師は羊の手に攫われる。

「駄目よ」

「何故⁉ それがあれば俺は魔術師になれるのに‼」

 途端に、羊の目が冷たくなる。それは、まさに冷酷非常な魔術師のそれだった。

「なんの代償もない奇跡は存在しない。詳しくは分からないけど、時計仕掛けの魔術師にも何かしらの代償があるわ。それでも、あなたはこれを欲するの?」

 守は躊躇なく答える。

「欲しい!!」

 羊の目から冷たさが消える。

「そう……」

 時計仕掛けの魔術師を守に荒っぽく投げ渡す。それを守は優しく受け取った。

「さっき、私には二つの選択肢があると言ったわね? これが二つ目の選択肢。あなたに時計仕掛けの魔術師を渡して、あなたを魔術師にする」

 守は緊張で震える手を押さえながら、時計仕掛けの魔術師を左手首に巻き付ける。

「その代わり、あなたの進歩状況と共に時計仕掛けの魔術師の研究もさせてもらうわ」

「じゃあ、おまえが魔術を教えてくれるのか?」

「今まで十年やって駄目だったんでしょう? もう独学じゃ無理って事よ」

 守は言い返すことができなかった。事実であったし、確かに独学で魔術師になった者は少ない。

「よろしくお願いします」

 守は潔く頭を下げる。

「良い心がけね。これからよろしく、守」

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