第5話 往古をはらむ家
僕たちは三人で一緒に階段を下りた。一階へ降りると、吹き抜けの最下層には目を瞠るような眺めが待っていた。
吹き抜けの四隅を支える柱は、二階から上はおおよそ鉄筋コンクリートか何かの上に吹き付け塗装を施した外観だ。
だがこの一階では様相が全く違う。ここにあったのはちょうど古い民家の床柱のような、樹皮を取り去られ長年の間に人の手に擦られて磨き上げられたと思われる、丸木の柱だった。
足元には漆喰で固められた土間があり、西側の半分には同様に塗り固められた、人の腰の高さほどの高床があった。
そこに、やや色あせた朱漆塗りの、大きな桶が三つ並んでいた。
「すごい……もしかして『醤油坂』って地名はこれに関係が?」
この場所と似たものを写真で見た記憶がある。あれは確か、どこかの醤油醸造施設だったはずだ。
「ええ、そうです。昭和三十年代くらいまで、ここで醤油を作ってたんですって」
はたして葵さんは、昔を懐かしむような夢見る口調で、この場所の来歴を語った。
病院のある土地は豆畠台。ここは
地名が示すように、この県では昔から、大豆の栽培と醤油の醸造が盛んだ。この場所でも同様に、丘陵地から流れ出す豊かな地下水と、海からもたらされる塩に恵まれて、小規模ながら醤油の醸造を営んでいた。
醤油坂ハイツの建物は、醤油蔵の主が廃業するときにどうしても全部を取り壊すことができずに、こんな形で蔵の一部を組みこんで残したものだという。
「その方の息子さんが亡くなるときに、私がここの管理を任されたんですよ」
「なるほど――」
ちょっと上がってみますか、と葵さんが言った。言われるままにうなずき、ついていくと、高床の端にある梯子から醤油桶のところまで近づくことができた。
桶をのぞき込むと、どこか首筋に寒気を感じるような眺めだ。天窓から差し込む陽光は角度の関係でここまでは入ってこず、桶の中は薄暗い。
桶の口はどれも差し渡し二メートル以上。大げさに言えば桶の内側が視界を埋め尽し、深さがわからなくなるような感じさえした。
「落ちないように気を付けてくださいね。特に一人の時は、近づかない方がいいです」
言われるまでもない。こんなところに落ちたら確実にケガをするだろうし、這い上がるのもひと苦労だろう。
僕は早々に高床から降りた。葵さんはそのまま自分の部屋へ戻ると、コートを脱いだスカートとセーター姿にエプロンをつけて出て来た。
「お昼はパスタにしますね。水を汲まなきゃ」
――水を、汲む?
土間の隅へ行った葵さんを目で追って、僕はまた驚く羽目になった。そこには、磨いた石材を組んで作られた、ヨーロッパ風の井戸らしきものがあったのだ。
水色のペンキで塗られた真新しいポンプと、コンクリートを打って四角く区切られた洗い場がある。この井戸はどうやら、まだしっかりと機能しているらしい。
彼女はその井戸で、大きなアルマイト製の薬缶に水を汲み始めた。
「飲めるんですか、ここの水」
「もちろん。とてもおいしいんですよ、毎年専門の業者に水質検査を依頼してるんですけど、ずっと基準をクリアしてきてます」
「へえ」
やかんの水をカップに注いでもらって、一口含む。冷たく澄んでさわやかだが、舌の上で温まると何とも柔らかく喉へ落ちていった。なるほど、いい水だと思える。
「……お酒を仕込んだら美味いのができそうです」
「ふふ、そうですね。あまり知られてませんけど、このあたりにもちゃんと地元の銘酒があるんですよ」
その素晴らしい井戸水で、葵さんはパスタを茹でた。出来上がったものが皿に盛られてテーブルに載せられ、早織さんが小さな歓声を上げた。
シンプルなペペロンチーノを基本に、チーズとベーコンを挟んで揚げた小ぶりなナスが添えてあるようだ。
「早織さんは夕方から人に会うっておっしゃってましたから、ニンニクの代わりにショウガを使いました。あと、唐辛子をちょっと多めに」
「ああ! 憶えててくれたのね。ありがと、すごく助かる」
早織さんが背伸びをする格好で、葵さんの頬にキスの真似をした。瞬間的に視線をそらしたが、二人が平然としているところを見ると、これはどうも普段からこんな感じのやり取りをしているらしい。
キッチンと食堂は吹き抜けの南側、一階エントランスの横にある。土間から一段上がった形のサンルームといった感じのスペースだ。低いテーブルにかがみ込むようにして僕らがパスタに舌鼓を打つ間、葵さんは鍋でまだ何かを茹でていた。
「それは何です?」
「ああ、これはですね、ちょっと」
葵さんは何やらバツがわるそうに首を横に振った。もう一皿何か出るのかと期待したが、そうではないらしい。横からくすっと笑う声がして、僕は意地汚いのを見透かされた気がした。
「ラーメン様よ」
早織さんが妙な言葉を口にした。
「
「……杜嗣さんには、また説明しなきゃなりませんでしたね」
葵さんはそう云って苦笑いした。
ラーメン様。言われてみれば、確かに彼女はいかにもな雷文入りのどんぶりを流し台の上に置き、インスタントラーメンの空袋がその横にある。
「一階の住人で……本名は
「はあ」
ラーメンが出来上がると、葵さんはそれを取っ手のついた四角い木製の盆に載せて、西側の廊下へ歩いて行った。
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