第4話 醤油坂ハイツ
葵さんはさっさと道を渡ろうとしていた。だが周囲を見回してみて驚いたことに、横断歩道には信号機も何もない。僕は思わず、彼女の手首をつかんで引き留めようとした。
「ちょっ……危ないですよ。あっちの歩道橋のほうがよくないですか?」
寂れた町とはいっても駅前から直線でつながった道路だ。さっきから車はそれなりに通っている。
おまけに下り坂の途中。駅の方から走ってきた車の運転者は、こちらを視認するタイミングが相当に遅れるのではないか――
「いえ、大丈夫ですよ。むしろあの歩道橋のほうがまずいです、色々と」
葵さんはにっこりと笑うと、僕の手を引きずるようにしてそのまま渡り始める。
「あ、葵さん!?」
僕は慌てた。彼女のあとを追って足を踏み出し――その時、妙なものを見た。
いや。正確には見失った、というべきか?
坂の下の方から少し速度オーバー気味に走ってきていた、スポーツタイプの黒い乗用車がいた――そのはずだった。それが、横断歩道から三十メートルほどの距離で、ふっと姿を消したのだ。
(えっ)
一瞬、ひどく混乱した。脇道へ曲がったのかとも思ったが、そのあたりに曲がり角などない。周囲と高低差のあるこの坂は、南側がすっぱりと切り落とされた形になっていて、ちょうど陸橋の降り口のような地形になっている。左折しようにも、ガードレールの先は何もない空中なのだ。
その車には他にもひどく奇妙な様子があったように感じた。だが車を視認してから消えるまではほんの一瞬だったので、何がどうとも分からない。
結局、僕はあたふたしながらも葵さんに手を引かれるままに、横断歩道を渡り切ってしまっていた。
「危ないなあ、もう。あの車が突っ込んできてたら――」
また病院に逆戻りする羽目になればいい方で、葵さんもろともあの世行きだったかもしれない。だが、葵さんは平然とした表情と共に、首をわずかに傾げて見せた。
「車? ……何もいませんでしたが」
「そんなバカな。確かに黒い車が坂の下から走ってきてて……」
葵さんは僕の目をのぞき込んで、ふっとため息を漏らした。
「事故のときの記憶が瞬間的に戻ったとか、そういうのかもしれませんね……杜嗣さんをはねた車、もしかしたら黒かったのじゃないですか?」
そう言いながら、歩道へ引っ張りあげるように僕の手を引く。釈然としないが、彼女の試みた説明は、僕が見たものに非常につじつまが合っているように思えた。
「……案外、そんなことなのかも」
そういえば精神神経科の医師も、そういうことが起こる可能性があると言ってはいた。フラッシュバックとかいうやつだ。
「しっかり自宅療養しないといけませんね」
彼女はそう言って微笑んだ。
さてその『自宅』の入り口は横断歩道からもう少し、東へ下ったところにあった。近づいてみると奇妙なことに、二階建てだと思ったその建物は、実際には四階分あった。
坂の南側、ちょうどその部分は、石組みの古い擁壁が鉄筋コンクリート打ちで補強された形になっていた。擁壁の上には張り出しがあって、それが歩道と一体化しているのだ。
醤油坂ハイツはその壁に貼りつくような形で建っていた。先ほどから見えていた入り口は、擁壁の張り出しとハイツの壁面の間にある二メートルほどの空間に、小さな橋を架けたような形で突き出ていた。
「入り口はここだけ?」
「……いえ。坂を下りた下の道沿いに、もう一つ入り口があります」
つまり、この建物には坂の上と下から入れる、別々の入り口があるのだ。
「変な建物だ」
「……皆さん、最初そうおっしゃいますね」
苦笑しながらそういうと、葵さんは僕の先に立って、ちょうど旅客機のボーディングブリッジのような通路へと入っていく。行く手には模様ガラスをはめ込んだ分厚い木製のドアがあって、押し開くと普通の民家の玄関のようになっていた。
上がり
「ここからはこれに履き替えてください」
葵さんは僕に、トウモロコシの皮めいたものを編んだスリッパを出してくれた。
「こりゃまた、珍しいなあ」
「杜嗣さんが前から履いていたものですよ、それは」
なるほど、何やら吸い付くようにぴったりと、それは僕の足に合っていた。
ひたひたとかすかな足音を立てながら、廊下を歩いて行く。足に伝わってくる感触からすると、この廊下に貼られた材木は、板というよりブロックといってよいほど分厚く、堅牢だ。
床面は丹念に磨き立てられて、しっとりとした光沢を見せている。そのことに触れると、葵さんは『ぬか袋』を使っているのだと教えてくれた。
なんでも、米ぬかを小さな枕のような平織の袋に詰めたもので、中から微量ずつしみ出す油で木の床を手入れするというものらしい。
廊下を少し進むと、そこにはさらに驚くような眺めが広がっていた。フロアの中央には八畳間を二つ並べたほどの、大きな吹き抜けがあったのだ。
吹き抜けの周囲には落下防止の丈夫なネットが張られていて、そこから身を乗り出すことはできないようになっていた。だがその広い空間に上から差し込む光から判断するに、この吹き抜けは一階から四階の天井までをぶち抜いているらしい。多分屋上に採光窓がある。
「お帰りなさい、葵さん! ……杜嗣さんも」
と、上の方から元気のいい女性の声がした。
見上げると吹き抜けの斜め上、四階の天井に四角い落とし戸がついていて、そこから斜めに降ろされた梯子のところに人がいた。
梯子を腹ばいに降りてくる格好だが、まるで天井から逆さにぶら下がっているように見える。
「あら、早織さん。今日はもう起きてらっしゃったんですね」
「うんうん。いつも昼夜逆転じゃ、ご飯食べ損ねるしね――それでさ、どうなの? やっぱり何も思い出せない?」
その言葉の後半は、どうやら僕に向けられたものらしかった。
「すみません、正直、まるで初めての家に上がり込んだみたいな感じなんです」
「あちゃあ、他人行儀……こりゃ重症だわ」
そこで彼女は梯子をするすると這い降りてきて、床の上に立った。そのまま四階の廊下をぐるっと回り、南側にある階段をつたって、そこからは普通に歩いて僕たちのところまで降りてきた。
身長はざっと百五十センチそこそこ。髪の色は僕が履いているスリッパと同じような、赤みをおびた灰白色だが、脱色しているとは思えない艶やかさだ。全体的に色素が薄い感じで、ほっそりした体つき。手の指は長く、いかにも器用そうに見える。
「しょうがない、改めて自己紹介しとくね……私、
「まあ、しがないだなんて。杜嗣さん、この方は今注目のテキスタイルアーティストなんですよ。彼女にはここの屋上にあるペントハウスをご提供してるの」
「よ、よろしく。
我ながら間抜けな挨拶。どう見ても向こうは、僕のことを以前から知っているのだ。案の定、彼女は僕の方を見て小さく吹き出すと、それっきり葵さんの方にだけ注意を払う風だった。
「葵さん、頼まれてたテーブル掛け出来てるから、後で見に来て」
「有難うございます。今からお昼にしますけど、早織さんもよかったら、いかが?」
「もちろん! わあい、これで一食助かったわ」
早織さんはぱあっと顔を輝かせた。
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