第2話 退院(1)

「心因性。そうとしか言いようがないんです。何度も精査しましたが、菊谷川さんの脳には、健忘を引き起こす原因とみられる血腫や何かの破片といった、器質的な異常は見受けられません――」


「そうですか……」


 退院を告げられたその日の午後、僕は脳神経外科の病棟へ案内されて、退院後の療養計画などについて、説明を受けていた。


 六畳間程度の広さのカウンセリングルームで、葵さんに付き添われて。


 だが脳神経外科主任の野上医師から聞かされる話は、どうにも僕に先行きの明確な展望を持たせてくれなかった。


「ですから、あとは精神科医の領分になりますが……残念ながらこれまで当院うちで試みた治療では、菊谷川さんの健忘症状にこれと言った改善がみられないんですねえ」


「そうですか……」


 同じようなあいづちを繰り返すしか、僕にはできることがなかった。

 

 正直、医師たちの話す言葉の意味を、全てきちんと理解できているわけではない。残念ながら僕はさほど頭がよくないらしい。

 

「退院後、リハビリは続ける必要がありますが、通院の方は……そうですね、経過観察のために月に一回だけ、診察させてください。食事制限なども特にありません」


 そのあとも説明はしばらく続いた。つまるところ、醤油坂ハイツとやらに帰ってあとは当分の間、弱々しくなまりきった体を回復させながら心に波風立てず静かに暮らすしかない、ということだ。

 この病院のある豆畠台まめばただいは、最寄の駅から麹町まで電車で二駅。月に一度くらいならそれほど負担にもならないだろう。

 

 説明が終わって廊下に出る。よろけそうになる僕を、葵さんが素早く支えてくれた。まだ微熱があるせいか、手の甲に触れる彼女のひんやりとした指が、ひどく心地いい。

 

「疲れたでしょう? 一度病室に戻りましょうか」


「いや、もうちょっと歩きたいです……」


「無理はしないでくださいね」

 

 そういえば――ふと気になって、訊いてみた。

 

「僕は……その、どういう事故だったんでしょう?」


 今までそんなことは考えもしなかった。奇妙なことのようだが、自分のことを何も思い出せない、という事実を受け入れるだけで、僕にとってはこの二か月の間、いっぱいいっぱいだったのだ。


 葵さんは少しためらった後、眉をひそめながら答えた。

 

「交差点を歩いて横断中に、突っ込んできた車にはねられたんだそうです……」


 そうか、と少しほっとした。免許証があるということは、こちらが加害者になっているケースもあり得ると思っていたが、幸いにしてそれは免れたのだ。


 だが、続く言葉は意外なものだった。

 

「その車、現場から走り去って、いまだに見つかってないそうなんですよね……」


「えっ」


 と、言うことは。

 

「じゃあ、僕の入院と治療の費用は……? 相手方が見つからないんじゃ、自賠責とか使えないじゃないですか」


「大丈夫。そのあたりは、こちらの事務の方がしっかり説明してくださいました。どうしても加害者が見つからないときは、国のほうで自賠責相当の最低額を保障する制度があるんですって。でも給付が決定するまでは健康保険を使うことになるから……その本人負担分は当面、私が出しておきます」


「そんな……」


「だから、心配しないで」


 個室にざっと二か月。普通の食事がとれるようになったのは三週間前からだが、それにしてもこの病院の食事はそこそこ美味かった。しょっちゅうCTスキャンやら何やらの検査も受けた。そんなこんなを考えるに、医療費は相当な額になっているのではないか?

 

「ううん、どうしよう……どうすればいいですか?」


 免許証に記載された生年月日に従えば、僕は二十二歳になる。大学へ通っているようには思えないから、働いてはいたはずだ。

 だが、事故のあと手元に残された、財布や靴と言った些細な身の回り品を見る限りでは、どちらかというと切り詰めた生活を送っていたように思われる。

 そして、財布に入っている銀行のキャッシュカードを何度眺めても、それに紐づけられた暗証番号を思い出せない。


 ろくに預金などないとしても、これは困った問題だ。

 

「心配しないで、っていったでしょ?」


 葵さんは切れ長の目を細めて微笑んだ。藍染めの手織り綿生地でざっくりと仕立てられた、くるぶし丈のロングスカートが、窓の脇にまとめられたカーテンのように揺れた。

 

「やっぱりわからない……あなたは誰で、なぜ僕にそこまでしてくれるんです」

 

「決まってるじゃないですか」


 彼女は僕の左手を柔らかく両手で包み、銀鼠色をした分厚いセーターの胸元へ引き寄せた。

 

「杜嗣さんが私にとって、大切な人だからです」


 その言葉とともに与えられた、衣服越しに伝わる温もりと包みこんだ手の柔らかさが、僕の頭にカッと血を昇らせた。そのせいかどうかわからないが――質問の答えが一つ抜け落ちていることに、僕はこの時気づかなかった。

 

       * * * 

 

 朝からの熱も、夕方の検温の時には大体治まったらしかった。葵さんはぼくが明日で着る服を置いていってくれた。その服は病室に備え付けられたクローゼットの、扉の上縁にハンガーをひっかけてつるしてあった。

 ツイード生地のハーフコートと、少し着古し感の出たストレートのブルージーンズ――自分の服であるはずだが、どうにも見覚えがなく、落ち着かない。

 

 ぼんやりとそれを眺めていると、新宮さんが体温計を回収に来た。挟んでいた脇から取り出して眺める。三十六度六分、ごく普通だ。

 

「平熱ですね。夕方でこれなら大丈夫ですよ。咳とかも特にないみたいですし」


「ええ、すっかり楽になりました」


「明日でお別れかー。ちょっと寂しくなりますね……菊谷川さんのこと、詰め所で結構うわさになってたんですよ」

 

「え、どんな?」


 他人が自分のことを話題にするのはどうも困惑する感じがある。鏡を見る限り、とりたてて美形とかイケメンとかいうわけでもないはずだが。

 

「なんというか、菊谷川さんってどういう人なのかな、って。あんな綺麗な人が毎日様子を見に来るなんて、それだけで気になるじゃないですか」


「そういうもんですか……」


「遠縁の親戚ってだけで、あそこまで親身にしてくれるってないと思いますよ? でも恋人や夫婦って感じには見えないし」


「……じ、地味で悪うござんしたね?」


 釣り合わない、と暗に言われた気がして、ベッドの上で膝を抱えた。自虐のポーズ。


「あはは」

 

「笑うんだ、そこ……」


 ――自虐のポーズのまま上目遣いに彼女を見た。その視線の先で、新宮さんの笑顔がふいに別の色合いを帯びた。

 彼女は浅黒い肌をしているが、黒目がちのキラキラした瞳と子供っぽい造作のせいか、顔から受ける印象がえらく明るい。その顔が、何やらほんのりと秘密の暗がりをのぞかせたような――そんな表情だった。

 

「……ねえ菊谷川さん、メアド交換しません?」


「メアド」


 オウム返しの言葉しか出てこないのが情けない。よくわからないが、これって世間ではなにかこう、なれそめとか進展のチャンスとか、後にそういう風にいわれるやつではないのか。いや、虫が良すぎるだろうか。


「……何か困ったとき、看護師に相談できるって、意外とお得ですよ」


「それは分かるけど、そもそも僕は今スマホの類を持ってない……事故の時にぶっ壊れたから」


「え、もうあれから二か月ですよ? まだ新しいの買ってないんですか」


「番号思い出せなくて、口座にもアクセスできないから……」


 考えてみれば、携帯端末のひとつもないのは恐ろしく不便なことのはずだ。今まで買い替えすら思いつかなかったのはどういうわけだろう。そもそも利用料金は支払われてるのだろうか。まあ、葵さんにねだれば案外すんなりと新品が手に入るかもしれない。

 

 新宮さんはと言えば、眉をしかめて人差し指でこめかみを引っ搔くようなしぐさをしてから、おもむろに付箋式のメモ用紙とボールペンを取り出して、何かを書きつけた。

 

「はいこれ、私のメアド。スマホでも何でも、通信手段を手に入れたらここにアドレスを知らせて……ここまでさせるんだから、スルーとかは無しですよ?」


 ――新宮薫、というフルネームのあとに、『@』つきのそれらしい文字列が書きこまれていた。

 

 もう一枚、同じメモ用紙に何か文章を書いたものが渡される。

「その誓約書にサインして」


=================


 誓約書

 

 私こと菊谷川杜嗣は、今後新規にアドレスを獲得次第、新宮薫に通知し、これをみだりに変更、あるいは廃止しないことを ここに誓約します。

 

 

=================


「……いいけど、悪用しないで下さいよ」


「大丈夫大丈夫、ぶっちゃけこのサインをもらっただけで私としては十分なのよね」


「意味わかんない」


 病室を出ながら、彼女はこっちを振り返ってタネ明かしをしてくれた。

 

「へへ……賭けをしたんですよ。菊谷川さんからアドレスかそれに準じるものを貰えたら、みんなが奢ってくれるんです」


(そういうことか)

 

 要するに、看護師たちの暇つぶしにネタを提供させられたのだ。手元に残ったこのメモのアドレスが、有効なものであるとは限らない。だがそれでも僕は、なんとなくふわふわとした浮きたつような気持で消灯まで過ごした。

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