醤油坂の、その家で

冴吹稔

見知らぬ場所への帰還

第1話 健忘

菊谷川きくやがわさん、明日で退院になりますよ」


 ふいにそう告げられたのは二月も終わりかけた頃。灰色の薄い雲が垂れこめた、水底にいるような朝のことだった。病棟看護師の新宮あらみやさんが検温にやってきて、体温計を渡しながら僕にそういった。

 

「退院、ですか――」


 入院していた患者が、ある程度回復した時点で自宅へ戻り、社会復帰のために療養の新たな段階へ移行する――言葉の意味自体はわかるが、まるで実感がわかない。

 

「つまり、家に帰るってことですよね……」


 僕の力ないつぶやきに、新宮さんの顔が明らかに曇った。だが彼女は明るい態度で僕に接しようと、懸命に努力してくれていた。


「大丈夫ですよ。リハビリも順調ですし、ご家族も毎日のようにいらっしゃってるじゃないですか。帰宅されても問題は――」


「いや、そういうことではなくて――」


 新宮さんの励ましをさえぎったまま、僕は自分の言葉を探しあぐねた。

 

 彼女はたぶん誤解している。僕が単に退院後の生活に不安を抱いているのだと、そう思っている。 

 交通事故で全身にひどい怪我を負った僕が、この師美もろみ厚生会総合病院に担ぎ込まれたのは去る年末の事だった

 幸いに命を取りとめ、この四肢外傷専門病棟に移ってからは、リハビリも順調に進んでいる。今では杖なしで病棟の廊下を一周できるくらいになった。だが、いまだに回復しないものが一つあるのだ。

 

「ご家族……ねぇ」


「ええ、あの、綺麗な方――」


 持ち上げるような口調でそう言いかける新宮さんに、僕は内心の困惑を叩き付けるように吐き捨てた。

淵上ふちがみあおいさん、っていうそうですよ――本人から聞きました。いつも親身に世話してくれるし、感謝してますけど……」

 

 二か月近くにも及ぶ入院生活というものは、家族とか親戚とか、そういった関係者のサポートなしでは到底続けられるものではない。着替えや日用品の補充といった物質的なこともあるし、なにより入院には複数の保証人が必要とされる。

 淵上葵、と名のったその女性は、そうしたもろもろの事柄を丸ごと全部引き受けて、僕のここしばらくの生活を支えてくれていた。

 

 だが、しかし。

 

「僕にはやっぱり分からないんです、あの人が誰なのか。未だに」


「ああ……」


 新宮さんは、納得したような困ったような、奇妙な表情を浮かべて僕をじっと見た。

 

「患者さん本人にこういうことを言うのは良くないんでしょうけど……その、ひどい事故だったみたいですから」


 だから、そういう事があっても不思議ではない――言外にそんな趣きをにおわせつつも、彼女は口をつぐんでしまった。

 

「大丈夫ですよ」


 数秒経ってから、彼女はもう一度繰り返して病室を出て行った。

 

 何がどう大丈夫なのかは言ってくれなかった――それは仕方がない、彼女は忙しいのだから。仲間の看護師と一緒に、おおよそ十人以上に及ぶ立ち居の不自由な患者をサポートしている。僕一人だけにずるずると構ってはいられないのだ。

 

 体温は三十七度二分あった。昨晩から少し風邪っぽい。僕は朝食が運ばれてくるまでの短い時間を、再びベッドの中に潜り込んで過ごした。自分の体温で温まったリネンの感触の中で、今置かれた状況を反芻してみると、改めて奇妙な感慨と不安が心に湧き上がってきた。 

 

 心因性全生活史健忘――いわゆる『記憶喪失』。

 

 僕のカルテに記載されているであろう病名の中で、一番厄介で、ある種荒唐無稽な印象を与えるやつ。

 

 それが今の僕の現実だ。意識が戻ってしばらく、はじめのうちは自分の名前すら分からなかった。物の名前や言葉、日本で暮らすうえでの大まかな常識、そういったものは問題なく残っているのに、自分の事となると皆目見当がつかない。

 

 フィクションの中でよく使われるモチーフだから、実際にそういう症例が起こり得るのかと疑う人も少なくないだろう。だが現にそれはある。僕の身の上に今まさに起きている。 

 

 病院に収容されたとき持っていたのは、着衣とわずかな金銭、それに自動車の運転免許証と国民健康保険証。スマホもあったようだが、残念ながらデータ復旧できないほどに破損していたらしい。

 らしい、というのは、現物が手元に残っていないからだ。見せられたのは写真だけ。病院の備品であろう古いデジカメで撮られた、画素数の少ないJPEG画像には、見るも無残に圧壊したガラスと金属の混合物が映っていた。

 

 事務スタッフの尽力で、どうにか住んでいた物件の特定ができ、関係者との連絡がついた――そんな経緯で現れたのが、葵さんだった。受付と病棟看護師に説明した言葉によれば、僕とは遠縁の親戚で、共同住宅の管理人のようなことをしているのだという。

 

 朝食は今日もパンと牛乳、それに少しの野菜。そんな毎度変わり映えのしない食事をとり、上体を起こして窓の外を眺めていると、くだんのその人が病室に入ってきた。

 

杜嗣とうじさん、お加減いかがですか?」


 心地よい声が響く。ここが個室なのが、いっそ恐ろしいと思えるほどに。

 

 控えめに言っても美人である。百七十センチ近い長身、手足が長くてスタイルが良いが、出るところは出た実に女性的な体型。軽くウェーブのかかった細くつややかな髪が、わずかに肩にかかる長さで、整った色白の顔を囲んでいる。


 切れ長の涼しげな眼はいつも微笑んだように細められて、強い感情はないかのように見える。だがその実、彼女はかなり強い意志力を備えた女性である、ということを僕は察知していた。

 なにせ、一度こうと決めたことはめったに曲げてくれないのだ。リハビリの初期にはそれで随分衝突したが、おかげで日常生活への復帰は早くなった。

 

「明日退院だそうです……もう聞いてました?」


「ええ、看護師詰め所ナースステーションでそういわれました。良かったですね」


「あなたの住んでるところに『帰る』ことになるんですかね?」


「そうですよ」

 葵さんは微笑んだ。

 

「免許証に記載されてるとおり。麹町醤油坂三丁目十四番地、醤油坂ハイツ四号。そこがあなたの家です」

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